量子力学的マンションシリーズ

第一章 購入

Collapse Residence 営業担当者

　俺は営業を始めて10年目の中堅だ。物件は見た目じゃない、制度だ。
　
　俺が扱うのは「Collapse Residence」——量子力学的タワーマンション。契約も間取りも隣人も、観測するまで確定しないシュレディンガー仕様。営業トーク？ そりゃもう、確率のダンスとなる。

　今日の内見は、40代男性とその奥様。観測者2名。波動関数の干渉がバチバチしている、大変強い干渉力だ。

　エントランスで挨拶すると、男性がズバッと切り込んだ。「量子力学的って、つまり何も決まってないってことでは？」

　俺は笑顔を保った。俺の営業スマイルは観測されるまで絶対に崩壊しない。

　「ご安心ください。契約は確率的に成立します。署名後、居住権は約87%の確率で確定します。残りの13%は制度外ですが、観測されなければ問題ありません。」とウインク。

　奥様が微妙な顔をした。観測者の信頼性が揺れている。気持ちはわかる、俺が客なら「マジかよ」って思う。

　エレベーターに乗ると、階数表示が「38」「41」「猫」「π」と揺れた。

　旦那様が言った。「階数が猫になってるけど大丈夫？」

　俺は自信満々に即答した。「階層間トンネル効果ですね。今日は38階に収束するようです。」でも猫階はマジで勘弁してくれ。

　部屋に入ると、間取りがふわふわしていた。キッチンがあるような、ないような。風呂は二つあるように見えたが、奥様がちらっと見ると一つに収束した。

　「この間取り、観測しづらい、、、。」と奥様は肩を落とす。

　俺は頷いた。制度疲労は観測者の疲労でもある。そもそも観測しないと決まらない間取りってどうやって作った。

　俺がさっと契約書をさし出すと、旦那様が署名した。ペン先が紙に触れた瞬間、契約書が微かに震えた。

　俺は満面の笑みをして言った。「おめでとうございます。居住確率は91%。高めですね。観測者の信頼性が高いと、制度も安定します。」躊躇せず契約しやがったよと心の奥底で思いながら。

　帰宅後、契約書は消える。冷蔵庫に「契約波動関数の収束通知」が届く。冷蔵庫は観測装置だ。これはもう常識。

　奥様が言った。「このマンション、幽霊より制度の方が怖いね。」

　俺は笑顔を保った。なら何で買うんだという内心はおくびにも出さずに。

　制度は、観測されるまで崩壊しない。そしてそれは営業も同じだ。