Hypernomos 科学者至上主義社会

深井零子

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Case1

Hypernomos:国民科学力強化特別措置法 case1ー1

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 2050年、俺が所属する研究所の隣には、かつて保育園だった建物がある。今は“幼児脳波解析センター”と呼ばれ、元保育士の科学者たちが、量子おしゃぶりの試験をしている。

 赤ん坊には、出生時に「研究者ID」が割り振られる。泣き声の周波数を解析し、将来の研究適性を予測する制度だ。わかりやすく言うと泣き声が高周波なら物理系、低周波なら人文系。泣かない子は「制度適応困難者」として隔離される。

 国民科学力強化特別措置法、通称Hypernomos法が施行された2040年、政府は未曽有の少子高齢化に立ち向かうべく、科学者人口を10倍に増やすという野心的な目標を掲げた。Hypernomosシステムによって若者のほぼ全員が科学者養成コースに導かれ、AIとロボットが産業を支えるとされた。

 だが、2050年、この実験は予想外の歪みを生み出しつつあった。農業従事者はほぼいなくなり、物流やサービス業もロボット化で人的資源が激減。AIは進化したが、複雑な意思決定や人間関係の調整では限界が露呈。社会は、シニア層に依存せざるを得なくなった。

 定年を迎えた60代、70代の科学者たちは、豊富な業績と国際ネットワークを武器に、研究機関や政府内で異様な権力を握り始めた。管理職の80%が70歳以上。研究予算の半分が彼らの携わった、過去のテーマに投入された。

 若手の提案は却下され、ポストは独占され、倫理の境界を超えた実験が横行した。俺の同期は、80歳の教授に「助手」としてこき使われ、データ捏造を強要された。拒否すれば“研究者再配置制度”で辺境ラボに飛ばされる。

 研究所の廊下には、シニア研究者たちの研究履歴プレートが並び、若手はそれを避けるようにテーマを選ぶ。だが、空いているテーマは「赤ん坊の泣き声周波数による研究適性予測」や「量子農業におけるトマトの自我形成」などもはや誰も本気で信じていない、Hypernomos法が押しつけた“空虚な国益”ばかり。

 街では「Hypernomosシステムを解体せよ」と叫ぶ若者のデモが続いている。研究者IDを焼却し、量子おしゃぶりを破壊しながら。

 だが、政府は動かない。いや動けない。

 シニア研究者たちは「特別顧問」として制度の中枢に居座り、改革案を“倫理的に不適切”として却下する。
 
 俺は自身の研究をかろうじて続けながら思う。この国では、科学者は増えた。だが、科学は減った。Hypernomosシステムは過去の論文を“縄張り地図”に変え、未来を塗り潰している。

 Hypernomosシステムの暗黒面は、制度の中に潜んでいた。

 赤ん坊が泣き、老人が語り、俺はその隙間で、Hypernomosシステムの幽霊と暮らしている。
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