Only my rider

西崎 劉

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  パキッと音がした。雪之は、机の上に亨它郎から貰った赤い玉を転がしていた。外は既に暗く、部屋の柱時計は八時過ぎを示している。夕食は学校から帰って来てすぐ……六時頃だろうか、小学校の弟と一緒に済ませていた。
 七時に、お馴染みの番組を見、それも見おわって階段を上がり、何とはなしに勉強机に向かった。朝慌てるのは嫌いだったから、今のうちに明日習う教科を鞄に詰めようと時間割表を見るうち、宿題が幾つか出ていた事を思い出す。
 雪之は、壁に掛けてある四角い時計とにらめっこしながら少し思案していた風だったが、一つ溜め息をつくと、宿題に取りかかった。 辞書引いたり例文見たりしながら頭を悩ませて、どうにか英語の訳や、数学の例題等、宿題と呼ばれる物をかたずけた頃、弟、斗草光一がミルクココアを運んできた。
 光一曰く、『母さんから兄ちゃんへ』だそうだ。親は勉強をしているわが子を見ると、妙にサービスが良くなる。
 雪之は、光一にお礼をいうと、それを受け取り、さっそく口をつけた。
「……あちちっ!ちょっと火傷しちゃったな。口内炎になるかな…それ、嫌だなぁ」
 ブツブツ独り言をいいながら、雪之はミルクココアをふうふう息を吹きかけつつ、少しでも冷めるように努力をする。ミルクココアが雪之の努力のお陰で飲めるほどに冷えた頃、また机の上でパキッと音がした。雪之はコトリと音を発ててマグカップを机の上に置くと、音を発しただろうと思われる机の隅に置いた赤い玉を見る。しばらくじっと眺めていて、玉の表面にひびが入ったのを見つけ、関心をそちらへ向けた。
「……ん?何かぶつけたかな……」
 顔を近づけてじっと見つめる。すると、赤い玉の中身が激しく動き回っているのが伺えた。それを見つめているうち、ゾクッと寒けが背を駆け抜ける。
(……コレは手元に置いちゃいけない『物』だ。くれた愛染には悪いけど捨てて……)
 感覚的に分かった。雪之は立ち上がってそれを掴み、窓の外へ捨てようとした時、誰かが階段を駆け上がって来る音が聞こえた。
「雪ちゃん!」
 バンッ!と勢い良く部屋の扉を開け放って駆け込んで来たのは、ゼイゼイ息を切らした隣に住んでいる神尾翼である。彼女の声を追いかける様に、呑気そうな母親の声が一階の台所付近から響いた。
「雪之ちゃん!あなたはお兄ちゃんも同然なんだから、翼ちゃんにちゃんと教えてあげるのですよっ!翼ちゃん、後でお手製のお菓子を持っていってあげるわね」
「わーい!おばさま、有り難うございますぅ!」
 彼女は、はっきりいって雪之の母が作るお菓子が大好きであった。何しろ、雪之の母、斗草美雪は、町内会や婦人会で、洋菓子の先生を引き受けたほどの腕前である。
 雪之独特の小春日和な性格は、ほとんどこの母、美雪から受け継いだと言っても過言では無い様な物だった。雪之の父、斗草春彦は普通のサラリーマンをやっているが、この母にこの父ありといった言葉が的確に当てはまる様な、名前の通り春の様な穏やかな性格をしている。
「九時になったら、洋画劇場でいいのがある様だから、その時は降りておいで」
 美雪の声と被さる様に、春彦の声が響いた。
 雪之は血相を変えた様子で片手に現国(現代国語)と歴史の教科書、それにノートと筆記用具一式を持っている翼を見て、クスクス笑う。雪之の関心は、おかげで奇妙な玉から彼女に完全に逸れてしまった。
「ひっどーい、笑わなくったっていいじゃない。明日、漢文の読みが当たるのよ!」
 雪之は部屋の隅に立てかけていた折り畳み式の机を取り出すと、その足を立てた。そして押入れから座布団を取り出し向かい合う様に二枚並べる。雪之は窓を背に、翼は戸を背にして座った。
「あっ、雪ちゃん。宿題って漢文だけじゃないんだ……歴史の年代の暗記もあるの」
「はいはい」
「もうっ!馬鹿にしているでしょ?」
 翼はぶうっとむくれて顎をテーブルの上に乗せ、上目遣いで雪之を見た。雪之は苦笑して持っていた玉をテーブルの上に置き、違う違うとでも言わないばかりに手を振った。
「馬鹿にしてないって。……始めるよ?」
 教科書を開き、範囲になっている場所を覗き込んだ。
「…この赤丸した頁の所だっけ?」
 視線を教科書に落としたまま、手慣れた手つきでノートに『虫食い』方式の暗記用問題を作っていく。翼はふんふんと鼻唄を歌いながら部屋のあちこちを見渡していたが、雪之の手元近くに置いてある赤い玉に目を留めた。
 そうしてそれに手を延ばす。つまみ上げて玉の中心部の肌色の固まりをじっと見つめた。
すると、中の物がぐるりと動き、目があった。
思わずヒッと声にならない悲鳴をあげる。瞬間投げ捨てようかとも思ったが一応念のため、もう一度、玉の中心部をこわごわ見つめた。
と、今度はドクンと鼓動を打つ震動が指に伝わってきたのだ。そして、ザワザワと鳥肌がたつ。危険、危険、危険と脳裏にそれだけの言葉がグルグルと駆けめぐった。翼のそんな様子に雪之は気付く事なく、彼女の宿題に取り組んでいる。
「…これ…雪ちゃん…良く……ない!」
 翼は上擦った声を出した。
「えっ?これじゃ、覚えきれないって?」
 雪之は何気なしに顔を上げて翼を見た。
「違う!問題の事じゃない。この玉よ!雪ちゃん、これどうしたの?」
 翼は二本の指で摘んで雪之が先程テーブルの上に置いた赤い玉を雪之に見せる。雪之はその玉を捨て忘れていたのに気付き、顔色を変えた。
「……愛染にせっかく貰った物なんだけど、何か手元に置くのが嫌でね、さっき外へ捨てようとしたんだ」
 翼は摘まんだその赤い玉の中央を、気味が悪そうに覗き込んだ。玉の中の奇妙な固まりは、雪之が見た時よりも一層動きが活発化している。亀裂も先程雪之が見た時よりも進んでいる様に思われた。
 雪之は翼からそれを受け取ると窓を開けた。
「嫌な『感覚』を覚えてね……直感っていうのかな?僕は自分のこの直感っていうのをわりかし信じているほうなんだ。当たるにしろ、外れるにしろね。でもね、今感じている感覚は『危険』だっていっている。翼ちゃんも、直感で『嫌だ』と感じたんだろ?じゃあ、これは捨てなくちゃなんない物なんだ」
 振り上げてなるべく遠くへ投げられる様に構える。すると、パキンという音がした。そして、ピキキキッと亀裂が新たに生じる音が続き……「……きゃっ……」
 翼は瞳を大きく瞳を見開き、小さな悲鳴を上げる。
 雪之は掴んでいた玉が砕けて、何かが手の中で孵ったのを悟った。それは急成長をとげながら、プクプクと表面に出現した、数えきれないほどの目をキョトキョト動かしながら、掴んでいる雪之に向ける。雪之は慌ててそれを叩きつける様に手からそれを振り払うと、青ざめた様子でポツリと呟いた。
「……ごめん」
 雪之は翼を背後に庇いながら、後ずさりをする。
「……ちょっと、遅かったみたい……」
 翼は庇われながらも自分の背後に立てかけてあった木刀をたぐりよせてぎゅっとその手に握りしめた。
「雪ちゃんのせいじゃない!」
 床へ叩きつけられたそれは、ムクムクとその場で成長し続け、二人を飲み込む程に広がった。二人の回りには大きな影が出来る。翼は瞳にうっすら涙を浮かべながらもニッと強気に笑って、雪之を見た。
「雪ちゃんのせいじゃない。勝手に卵から孵ったこいつが悪いんじゃない!」
「翼ちゃん……」
 雪之は強気に微笑む翼を守る様に腕の中にに抱え込んだ。
「ごめんね。翼ちゃんだけは守るから……」
 覆い尽くす様な大きさに成長をし続けるソレから威嚇するように視線を逸らさない雪之に、翼は腕の中から、軽くその頭を小突いた。
「……さーんきゅっ!でも、翼はね、ただ守られて居るような可愛い女の子じゃないから、泣くよりは戦うの。…無駄な抵抗かもしれないけどね。でも、雪ちゃんの足だけは引っ張らない様に頑張るね……」
 大きく成長を遂げたソレは、水を浴びせる様に二人の上に自分の身体を降らせた。


  翼は抵抗するようにブンブン木刀を振って半透明のそれを細切りにしたのを、雪之が手近にあった野球のバットでドカドカ叩き潰してとどめをさす。先程からその動作を何度となく繰り返していたが、細かくなればなるほど、それぞれが独立して動きだし、水銀の玉の様に集まってきては一つに合体してしまう。
 はっきりいってキリがなかった。雪之は壁に掛かっている時計を見た。そろそろ九時である。そういえは、雪之の父親が言っていた番組が始まる時間だ。そう思った時、
「おーい、雪之。そろそろ始まるぞーっ!」
 呑気そうな父の声が響いてきた。そしてスリッパの音が聞こえる。階段を一段一段登ってくる音だ。非常にマズかった。いくらなんでも親まで巻き込みたくない。
「雪ちゃん!どうしよう…囲まれちゃったよぉ…」
 器用に木刀を片手でバトンの様に回転させ、降り注ぐ様に落ちてくるソレを弾き飛ばしながら切羽詰まった声で翼は言う。それに対し幾分感情の欠落した声音で呟いた。
「……父さんが僕を呼びにきた……」
「え…ええーっ!どっどうするのっ!」
「これだけドタバタしているのに、全然こちらの事、父さん達、気付かないんだからなぁ。
まっ、そのおかげでこちらとしては助かったんだけどさ。今までは」
「あっさり言わないでよーっ!おじさま達を巻き込みたくわないわよ、いくらなんでも、わ・た・し・はっ!」
 じたんだ踏みながら叫ぶ。雪之はチラリと背後の窓を見た。
「……この前、ジュース買いに行く時、ここから降りたよね、翼ちゃん」
 コンコンッ、コンコンッと、部屋の扉を叩く音がした。そして、二人を呼ぶ声が聞こえる。
「何やっているんだ?見損ねたと言ってごねても俺はしらんぞ?」
 ガチャガチャという音をさせてドアノブを捻る音が聞こえた。
「駄目だ、父さん!」
「おじさま!あけちゃだめーっ!」
 二人が悲鳴に近い声を上げてドアの方へ駆け寄ろうとしたが、扉は無情にも軽い音を発てて開き、キョトンとした顔で顔を覗かせた。
 そして、驚いた事に…
「……なんだ、居ないのか?」
 そういって、雪之と翼の前をスタスタと通り過ぎる。
「全く、まーた屋根を伝って外へ出たな。落ちて怪我をしてもしらんぞ、二人とも」
 ブチブチ言いながらも、何処かほのぼのとした雰囲気が漂う。父である春彦は、カラカラとした軽い音を発てて窓を閉めると、イソイソと部屋を出ていく。雪之は、呆然としたままその様子を見つめた。翼は声を震わせて不安げに雪之を見上げる。
「……これってもしかして……」
 雪之は無言で相手を見つめた。自分達をこの様な状態に陥れたグロテスクな姿を露にした魔物をだ。
「どっかに閉じ込められちゃったわけ?」
 雪之は渋い顔をしたまま答えた。
「……多分……な」
 そして雪之は、自身の顔をパシンと叩くと、バットを握りなおす。
「……こんな事になるとは思わなかったな」
 翼は雪之の真似をするかのように自分の顔をパチンと叩くと、心にカツを入れる。
「よしっ!」
 翼は自分の持っている木刀を頼る様に握りしめると雪之を見た。
「翼ちゃん?」
「……どれだけ体力が続くか分からないけれど、腕の見せ所よね」
 一つ深呼吸をしてコキコキと肩を鳴らす。
「……そうだな」
「これをどうにか倒せたら帰れるかもしんないじゃん!頑張ろうっ!」
 雪之は驚いた様に翼を見つめ、次の瞬間満面の笑みを浮かべる。
「……なんか、お前見てると、いつでも、何があっても、どうにかなるんじゃないかって気がするなぁ……」
「そおっ?」
「土壇場でお前、強いもんな?」
 翼はキョトンとした表情をした。
「…そっかな?でも、ただで食われるのって癪じゃない。負けるって考えた時が、その勝負はすでに負けだってお姉ちゃん、いつも言っていたもん!生きている限り、勝利の希望はあるんだよ。死んだら永久に負けだもん。だから、生きている今は頑張る時だから、頑張れる時に目一杯頑張ればいいんだと私は思うんだけどな。それに、まだ疲れてもいないしさ」
 雪之はコクリと相槌を打つ様に頷く。
「……そうだね…」
 頷いた雪之に嬉しげに翼はウインクを送った。
「…それにさ、折角、天地さんっていう美人の恋人候補が雪ちゃんにはいるんだから、がんばらなくちゃ損じゃない」
 翼は少女にしては妙に凛々しい顔つきで雪之をチラリと見る。それを不思議なものを見る様な顔つきで雪之は見返した。翼はそれに気付くと敵に視線を固定したまま、フフッと笑う。
「……天地さん、いい人じゃない。雪ちゃんの事だから、まぁーた、自分に相応しくないだの、どうのこうのと理屈付けて断っちゃったんでしょ?全く意気地が無いんだからっ!」
 一向に攻めてくる様子を見せない魔物を目で距離を計りながら、少しずつ移動しつつ口では全く緊迫感の欠ける事をズバズバ言う。
  雪之に至っては翼が言っている事全てが事実なもので、返す言葉が無かった。
「…………」
「付き合ってやんなよ、雪ちゃん!滅多にないチャンスだよ?天地さんってすっごい美人じゃん!…そりゃあ、他の人からやっかまれる事も有るだろうし、それが元でトラブルが増えてくるかもしれないけどさ、そんな事、気にする様なもんじゃないと思うよ。それにさ、万が一、途中で飽きられて、振られた時は、慰めてあげるからさ。徹夜のファミコンにもつきあったげるよ」
 そういって、口許に淡い笑みを浮かべた。
 雪之は三つ年下の幼馴染みを眩しそうに見つめ、少し思案した後、素直に頷いた。
「……うん。翼ちゃんがそう思うのなら、そうする」
 翼はニッと笑った。
「よしっ!」
  二人の前で蠢いていた魔物が奇妙な動きをはじめたのはその瞬間だった。
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