アオハル、真っ向勝負。

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アオハル、真っ向勝負。

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 星占いランキングは今日も一位。番組の乱数計算が故障しているのではないかと疑ってしまうほど、ここ最近順位が変動していない。かといって幸運が続いているかというとそうでもなく、むしろダメダメ。恋愛運に関してはなおさらだ。

(いっそ、最下位続きの方がまだ納得しやすいのに……)

 種も仕掛けも無い高校生、寺本侑哉(てらもと ゆうや)は、占い結果と現実の乖離具合にひどく憤慨していた。

 高校とは、新しい出会いが見つかる、陽キャなら天国ともいえる環境だ。陽キャではないとしても、クラス内や部活で縦と横のつながりが生まれ、友達ができる。そうして、卒業式でほとんどの旧友と別れたのと入れ替わるようにして、新メンバーと仲良くなっていく。人生の歯車とは、そのようにして回転していく。

 侑哉は、違った。引っ込み思案である侑哉は、『友達を新しく作る』の『と』の時点で諦めてしまった。同学年とは言え、赤の他人に話しかけていく勇気が無かったのである。向こうから声をかけてくることもあったが、会話が続かないがために発展もしなかった。

 幸い、侑哉の出身中学からも何人か、同じ進路を辿った同級生がいた。同級生と言うだけで接点の全くない人が大半だったのだが、中学校時代から親友レベルにまで仲が成長した女子も一人いた。

「侑哉―、歩くスピード遅くなってきてるよ。今日の天気予報がたしか午後から雨だったはずだから、早く登りきらないといけないんでしょ? さ、さ、早く行こう」

 彼女の名前は、浅井遥花(あざい はるか)。帰宅部で繋がりが皆無な侑哉が、唯一自ら話しかけることの出来る相手がこの遥花なのだ。

 中学で出会った時から自己紹介の仕方が少し独特で、『戦国武将に出てくる方の読み方をして下さい』と、歴史が苦手な人の頭にクエスチョンマークが浮かぶようなものであった。一度も苗字を読まないので、案の定クラスの初日には、いきなり『あさいさん』と言い間違えられていた。本人はどこ吹く風のようだったが。

「そうだな、早く行かないと。夏のはずなのに、今ですら肌寒いし」

 異常気象とかなんとか連日テレビで報道されているが、北海道の山では通用しない。札幌などの都市圏と違い、のどかな地方の気温は上がりにくい。避暑地として北海道が選ばれるのはそのためだ。冬になると極寒地獄と化すのはまた別の話である。

 侑哉たちが登っている山は、決して富士山のように高くそびえ立っているものではない。冬には雪が積もるが、それは北海道と言う地理上の理由である。登山道も、整備されているとはいえず、他の登山者もいない。それが、逆に侑哉の狙いではあるのだが。

「ほんと、そうだよね。遥花なんか、半袖で来ちゃったよ……。侑哉、上着持ってない?」
「今来てるやつだけしか持ってきてない。ごめんな」
「それじゃあ……、これでいいかな」

 スルッと腕がわきの下から姿をのぞかせたかと思うと、遥花が上半身を侑哉の背中に密着させてきた。

(遥花が、抱き着いている)

 侑哉は歩みを止めた。いや、止めるしかなかった。心臓の鼓動がけたたましく鳴り響き、呼吸も荒くなる。上着を着ていても寒さを感じるほどだったはずだが、今は全身がほてっている。血流が早送りされているようだ。

「らららら……。もーしーかーしーて、遥花のせい? さっきより頬が赤いよ」
「だ、抱き着かれて暑くなっただけだから。遥花じゃなくても、一緒だった」
「そうかなー? まあなんでもいいけど」

(助かったー。ここでバラしたら、計画が台無しになるところだった)

 侑哉が遥花のことを異性としてとらえるようになったのは、高校に入学してすぐだっただろうか。中学では親友として、遊びに付き合ったり一緒になって下校したりしていたが、それが高校になったからといって劇的に変化するわけではない。変化したのは、侑哉の恋愛観だ。

 実を言うと高校に入るまで、侑哉は『恋愛イコール小説の中だけの空虚なもの』として、そもそも思考から除外されていた。高校に入り、周りにもにわかに告白だのカップルだのを目の当たりにすることが多くなり、信頼できる遥花に相談したのが、侑哉の恋の始まりの場所だった。

 『そんな考えじゃ、人生つまらないよ? 今までの考えをぜーんぶ洗い流して、もう一回一から見直してみたらいいんじゃないかな』

 『例え知らない人とか親友だからって、恋愛対象にしていいんだよ』

 この遥花の一言があり、改めて遥花を『恋愛対象』として構築しなおした。その結果が、今である。優しく、それでいて芯はしっかりと通っている、しかし侑哉に何故か甘い遥花は、侑哉の中の欠けているピース、『もっといつもの生活を明るくしてくれる人が欲しい』というピースに見事アジャストした。

「あとざっと百メートルほど行ったところに岩が連続するところがあるから、間違っても端の方の岩には乗らないこと。落ちても責任はとりかねるから」
「はーい。死んじゃったら、意味ないもんね」

 学校でこそ委員長をやったり、班長を進んで立候補したりするなど、『THE 模範的生徒』の色合いが強い遥花なのだが、プライベートとなると(とはいえど侑哉にだけだが)途端に軟化する。抱き着いてくるくらいには侑哉に対する信頼度も高い。

 これらのことを侑哉なりに解析して、『遥花にとって、侑哉は女友達のように接しやすいからつい男ということを忘れてしまう』と勝手に結論付けている。本人に確かめる気は無い。

「それで、なんで侑哉は遥花のことを登山に誘ったの? だって侑哉、登山とかランニングとかスポーツ系は苦手だし。『とりあえず付き合ってくれ』って言われて付き合ってるんだから、目的が何だろうと遥花にブーブー言う権利はないけど」

 なかなか遥花の勘が鋭い。

「ほら、俺って普段ほどんど運動しないから、健康維持で体動かしたかったんだよ」
「でも、それなら遥花はいらないよ」
「登山するにしても、単独行だとヒマだし、万が一事故があった時に誰にも気づいてもらえない。二人の方が、こんな感じで会話も盛り上がって楽しい」

 もちろん、真の狙いは健康促進ではない。健康関連はサブの目的だ。侑哉の狙いは、

(今日こそ、今日こそ遥花に……)

 言葉にしてしまえば、遥花への告白である。バラの花束があるわけではない。ゴージャスな贈り物も無い。誠心誠意だけの一本勝負を挑もうとしているのである。人気の無い山の登山も理由があり、同じ高校の同級生に遥花への告白を目撃されないようにするための、いわば一種の保険をかけたのだ。

「遥花も楽しいから、追及はしないであげる」

 立て続けに二度の試練を跳ね除けた、と冒険風にしてみたところで称賛があるわけではない。伝説として語られる内の一文くらい、こういったものが組み込まれていたような気がする。

(この内気な性格、どこかで矯正したいな)

 今日『こそ』と、今までは挑戦できなかった所以が侑哉の性格にある。失敗を恐れて、固く決心していたはずのものまで揺らいでしまう。遥花への告白も、『フラれて関係が切れるかもしれない』といった幻影にとりつかれ、一度も出来ていない。

 遥花との関係性がたった一度の出来事でバラバラに崩れ去るとは考えづらいが、一抹の不安が常につきまとい続けていたのである。

「あれが侑哉の言ってた岩だらけのところ? あんなとこ、登れるんだ」
「見た目だけだと狭そうに見えるけど、近づいたらそうでもないから大丈夫」
「……滑り落ちそうで怖い」

 侑哉たちの先には、ゴツゴツ岩が左右に張り出している、道なき道が真っすぐ横たわっていた。遠近法も相乗して、遥花にはより危険に見えているようだ。

 山において最も警戒することの内の一つとして、滑落が挙げられる。雪山と比較すると危険性は低いのだが、それでも岩肌は滑りやすい。ハシゴなど、手が離れると地表へ真っ逆さまだ。

「どうしてもなら、引き返そうか? もう十分歩いてきたし」

 あくまで、健康維持のためという建前は継続させる。

「登山道にはなってるんだよね……。なら、行く」

 遥花の同意も得たところで、侑哉は岩登りを始めた。曲がりなりにも数回は登っている。ロッククライミング並みの三点支持の原則を守り、細心の注意を払いながら登っていく。

 『大丈夫』と遥花の憂慮を切って捨てた侑哉だが、慎重派でもある。安全だと分かってはいても、自然と行動がゆっくりになる傾向にあるのだ

 侑哉に続いて、遥花も四つん這いになり、確実に足場があるのを確認してから一歩ずつ前へ、前へと進んでいく。

 (なんだ、意外と危なげないな)

  左右に身体が一切ブレない遥花の身体能力の高さに感心していると、何の予兆も無しにその遥花が動きを止めた。

「ねえ、この岩、揺れて無いかな」
「剥がれ落ちるようなちっちゃい岩じゃな……」

 侑哉は、皆まで口に出すことは出来なかった。山全体が、大きく揺さぶられている。共鳴するかのように、岩場もぐらりぐらりと振動した。中途半端で三点保持が出来ていない遥花は、身動きが取れない様子だった。

 ポツンと上に出っ張った岩にしがみついた侑哉。遥花が安定した姿勢を取れるように、指示を出す。

「遥花、とにかく手でつかめる岩をさがして、つかめ!」

 『落ちるぞ』が喉にまで到達したが、吐き出すことはやめた。パニックになることを考慮してのことだ。

 振り子の重りの周期で揺れが続く中、遥花がホールド出来そうな出っ張りを求めて侑哉の方へ進んだ。『元々体を支えていた方』の手を放して。

 それからは一瞬だった。手の支えを失った遥花は、荒海に飲まれて成すがままにされた。バランスを崩し、あろうことか崖に近い方へ転倒してしまった。

「遥花!」

 自らが遥花に命令したことなどは、秒で消し飛んだ。『遥花が落ちる』。落下は死を意味する登山で、反射的に侑哉は遥花のフリーになった手を掴んだ。地獄への片道切符だったとしても、親友が落ちるのはどうしても見過ごせなかった。

 侑哉があのまま遥花を安全圏から見守っていたとしたら、おそらく遥花は不満の一つも出さずにがけ下へと消えていっただろう。揺れが収まった後に警察や救急に連絡すれば、それでお終い。二人そろって事故に巻き込まれるよりも、こちらが遥かに勝っている選択肢だろう。最善手で、侑哉への責任も問われない。

 ただ、それがどうしたというのだろう。『見捨てた』という罪悪感は、一生消えることはない。十字架を背負って生きて行かなくてはならない。

 侑哉は、二人犠牲になって事故自体が発覚しなかったとしても、遥花に手を伸ばす道を選択したのである。

「侑哉! なんで」
「……最後まで、ゴメンな。力になれなくて」

(これで終わりなんて、あっけなさすぎるだろ)

 侑哉と遥花は、空中に飛び出していた。致命傷の一撃を食らって、空へと舞い上がったのだ。希望も未来も無い、絶望の空へと。

(この手だけは、絶対に離さない)

 遥花と繋がれた手をギュッと強く握りしめ、侑哉はそっと目を閉じた。


――――――――――


「ううっ……」

 侑哉は、額に当たる滴と全身の痛みで意識を取り戻した。木の枝の隙間いっぱいに灰色雲が敷き詰められている。天気予報の通り、これから雨が強くなっていくのだろう。

(……遥花はどこだ)

 気を失う直前の記憶は、右手で遥花の手をしっかりと結んでいたはずだ。決してほどけないよう、固く、固く。

 恐る恐る、侑哉は右手に力を入れていく。もし、空ぶってなにも無かったら……。恐怖心はあったものの、それよりも希望が上回った。右手はすぐ、温かいものにぶつかった。

(きっと、遥花だ……)

 遥花が、そう遠くない位置にいる。その事実は、幾分か侑哉の心に余裕を持たせた。手がほどけていれば、遥花が遠くにいるのか近くにいるのか、判断が付きかねただろう。

(……遥花を助けないと)

 脱出するにも遥花を助けるにも、起き上がらなければ何も始まらない。骨、筋肉、頭、内臓全てに激しい痛みが伴いながらも、上半身を起き上がらせた。連動して、遥花とつないだ手もつられてきた。土砂に埋もれたわけではないと分かり、また一つ心配点が消える。

 横たわっていて気付かなかったが、頭部から出血していたようで、まつげガードを越えて血液が目に入ってきた。流れた跡を指で辿っていくと、ズキズキと痛みが走った。傷口は塞がっているため、第二波はまぬがれたようだ。自然治癒力は侮れない。病院も近くに存在せず、ケガは命に係わる。

 侑哉は上半身を四分の一回転させ、遥花がいるはずの方角を向いた。そして、そこには戦慄の光景が広がっていた。

「うそだろ、おい」

 遥花は、第一感で五体満足であり、ケガは見受けられなかった。だがしかし、頭部と顔周辺が赤く染まっていたのだ。無論、遥花は気絶している。

 これが演劇なら、どれだけオーバーリアクションが出来ただろう。つないだ手を引っ張っても、腕がだらんと垂れ下がるのみで、生体反応は確認できない。胸が上下運動をしているのが、せめてもの救いだった。

 遥花をこうまでに傷つけた原因は、何か。直接的な原因は地震の揺れによるものだが、それまでに回避できたポイントは無かったのか。もっと補足した指示を遥花に出していれば、遥花が意味をはき違えなかったのではないか。

 侑哉が岩場へ行かせるのを急かせるような発言をしなければ、遥花も意地を張らなかったのかもしれない。パラレルワールドがどうなっていたかは、神のみぞ知るところだ。

(こんな血だらけになってよ……。さぞかし痛かったろうに)

 絶え間なくポツポツと降る雨によって、赤が窪みに流されて血だまりを作った。木の葉が音を立てる以外、環境音も生活音もなにも存在しない。もの静けさが、二人を包み込んでいた。

 そのまま、数分は雨に打たれ続けただろうか。遥花についていた赤い液体は全て流れ落ち、擦り傷や切り傷の形跡がない表面の皮膚があらわになっていた。純白より真っ白の服に一部しみ込んで、淡いピンク色のシミが形成されていた。

 侑哉は、諦めかけていた。遥花はこの地で灯火が消え、侑哉も後追いするしかない、と。すぐに見切りを付けなかったのは、遥花の手の温もりが持続していることと、呼吸が停止していなかったからだ。少なくとも生存はしているということであれば、望みを捨てきれるわけがない。

 ピクリとも動かない遥花の表情は、心なしか正のエネルギーがこもっているように見えた。暗闇しか待っていなかったはずだが、何を思っていたのだろうか。最後までポジティブに行こうとしたのだろうか。悲観的になった侑哉とは比べられない。

(ジッとしてて、野垂れ死にでもするつもりか)

 ショックで身体が硬直してしまっていることに、喝を入れた。しかし、侑哉はこの場から何か行動することは出来なかった。骨折で可動しないなどの物理的理由ではなく、目的が無かったのである。

 地震発生時、素早く指令を飛ばすことが出来たのは、遥花を助けるため。飛んでいきそうだった遥花の手をつかんだのは、少しでも遥花が落ちないようにするためだった。

 では、今はどうか。誰の為に、侑哉は動くのか。遥花は、侑哉の力ではどうにもならない。侑哉が生還しようとすれば、遥花は帰ってこない。人気が無いのが仇になって、ヘルプを呼ぼうにも相当時間がかかる。

「遥花……、戻って来い……。こっちの世界に、戻って来い……」

 侑哉は遥花の身体を左右に揺さぶったが、反応は無かった。

(そっちに行っちゃダメだ、遥花)

 遥花の左手を、両手で優しく包み込んだ。初めて、神様が居て欲しいと思った。非科学的だ、と敬遠していた奇跡を信じたくなった。

 長く、苦しい時間だった。雨が徐々に強くなり、侑哉も遥花もずぶ濡れになった。遥花の服のシミが雨水に溶けだし、微かな紅が残るばかりになった。このまま土砂崩れで埋もれてしまった方が幸せだ、そうも考えた。

「……遥花、そっちに声が届いてるんなら、握り返してきてくれ」

 ポツリと、一言漏れた。三回願いをかなえてくれる魔人に頼むには、何とも小さな願いだ。それでも、遥花の意志が感じ取ることの出来る、切実な願いだ。

 そして、侑哉の右手は、遥花に。

(今、握り返されたような)

 僅かな力ではあったが、しっかりと侑哉の手を握り返した。侑哉が手を脱力させても、遥花一人の力で繋がりは保たれている。

「ゆう、や……? んんん」

 この遥花のかすかな声を聞き取った時、侑哉の枯れかけていた心がどれほどうるおされたか。

 先ほどまで、遥花は存在こそしたがここには居なかった。今、遥花はここにいる。

 遥花が、うっすらと目を開けた。頭を若干侑哉に傾け、目と目が合った。何が起こったのか分かっていないようだった目は、時間をかけて遥花らしい丸い目になった。『なに神妙な顔しちゃってるの、侑哉。もう雨も降りだしてるし、さっさと帰ろう』と言い出してくる気配すらあった。

「侑哉、いきなり頼み事でゴメンなんだけど、起こしてくれない? 力を入れても入らなくて」

 遥花からのお使いを、これだけ嬉しいと思ったことはない。主人に尻尾を振って要望に応えるペットの犬も、同じような嬉しさに支配されているのだろう。

(遥花がいるなら、出来ないことなんてない)

 もう、どんな理不尽なことが合っても乗り越えていける。そういった動力が、侑哉に宿ってきた。

「俺たち、よく生きてるよな」
「そうだねー。まさか地震が起こるなんて思ってもみなかったから」

 平然と過去を振り返る遥花。侑哉なら出来っこない芸当だ。崖の上から真っ逆さまに落下したことを、客観的になど言えやしない。

 雨に打たれてか、木になっていたらしい赤い木の実がパラパラと落ちてきた。地面で果肉がはじけ飛び、赤色の果汁をぶちまけた。

(遥花についてた血のようなものって……)

 木の実を原因とするならば、辻褄が合う。服のシミが淡かったのも、これと言った傷が見当たらなかったのも、果汁によるものだったということだ。

 一つ疑問が解けて一通り整理されたところで、侑哉は遥花に向き直った。侑哉には果たさなければならない義務がある。

「遥花に、俺は一つ謝らなくちゃいけないことがある」

 遥花をじっと見つめる。侑哉の背筋がピンと伸びた。

「俺が、咄嗟に遥花の手を掴んだこと。やっちゃいけないと思ってても、感情が言うことを聞かなかった。空中に投げ出された時、『侑哉のバカ』のアクセントで『侑哉、なんで』って聞こえたからさ」

(ああ、こんな言い方しかできないのかよ、俺は)

 遥花は、これから地面にたたきつけられようとしているときに、侑哉の心配をしていてくれていたのだ。恐怖で満たされていたはずなのに、他人を気遣ったのである。その遥花に対して、この言いざま。『遥花は見捨てるべき』と伝えているようなものである。

 そもそも、『侑哉が来る必要は無かった』と発言できる権利があるのは遥花の方だ。侑哉から切り出したこと自体が間違いだったのだ。該当者が自身を語ると、どうしても保身を優先するイメージになりやすいからだ。

 暫くの後、遥花が口を開いた。

「……確かに、遥花はそう思ったよ。でも、侑哉が来てくれて、正直嬉しかった。一人だけだと寂しいけど、二人一緒なら、って思った。つまり、お互い様ってこと」

 遥花が、侑哉に来て欲しいとも思った。要するに、侑哉が遥花の中で特別な存在であるという事が明らかになったということだ。

(いっそ、もうここで告白しちゃうか)

 状況としては微妙なところだが、『遥花が侑哉のことを何とも思っておらず、告白が原因で距離を置かれる』という一つのパターンが消滅したことが、侑哉の背中を押す材料になっている。それに、今なら遥花との距離も近づいている気もしている。

(でも、正々堂々としないと意味が無い。追い風が吹いてたら、成功したとしても参考記録扱いになる。それだったら、冷めたときが怖くて余計酷いことになる)

 しかし、それは侑哉の本望で無い形になる。遥花が気持ちを割り切れているかどうかが分からない以上、何かしらの影響が残留している可能性は否めない。

「……ヒーローみたいだったよ、侑哉」

 それまでさっぱりとしていた遥花が、突然口ごもった。面と向かって告げるのに抵抗感があったか、やや侑哉から目を逸らした。一度も覗かせたことが無かった遥花の初々しい姿は、とても新鮮味があり、また侑哉も惹きこまれた。

「……やっぱりさっきのナシでいい? 流石に侑哉のこと、まともに見れなくなっちゃう」

 そしてすぐ、遥花はいつもの遥花に戻った。ハキハキ喋って、少し柔らかく、しかし決して甘いところは見せない。どこか凛々しさすら感じる。

(今のギャップは反則技だよ)

 高校でのカッコよさ、プライベートの優しさとはまた違う新たな一面に、ますます遥花を意識するようになる侑哉であった。


――――――――――


 遥花と生還を味わっている内にも、雨雲は発達していた。予報では小雨で済むはずだったのだが、山の天気は変わりやすいとはよく言ったものだ。

「……寒くなってきてる。侑哉、そろそろここから脱出しないと」

 緊急時の強い味方、アドレナリンが切れたことによって、神経から伝わってくる情報が脳に入り始めたようだった。侑哉も遥花も、会話に夢中になる余り雨に打たれ続けていたので、水が衣服に浸透しきってしまっている。上着も水を吸い、重くて動きづらい。

 何度も言うが、ここは北海道だ。夏山でも雨に降られると、体感気温は劇的に低下する。

「とりあえず、雨具……。落下の衝撃で壊れてませんように」

 意識を取り戻したとき、侑哉も遥花も仰向けの姿勢だった。つまり、カギやら雨具やら諸々を詰め込んだバッグは下敷きになったはずなのだ。このバッグがクッションとして衝撃を受け止めたことが考えられるため、中身がどうなっているかはあまり期待が出来ない。

(カギは……、ひとまず無事だな。傘は……、流石にダメだったか)

 家のカギは生き残っていたが、傘は先端の細い鉄の支柱がへし折れていた。ワンタッチ式なのに、ボタンを押しても開かない。内部の構造までグチャグチャになってしまっているのだろう。

 だが、バッグに入れていたのは傘だけではない。傘は、開けた場所や麓から家までの道のり用であって、山中は合羽がメインになる。

(合羽は無事だな)

 尖った岩に当たった拍子に一部が破れていても、使えることは使えるのだが、防水性能は大幅に落ちる。平常時ならいざ知らず、緊急時には命取りになりかねない。

 一方の遥花はと言うと、未だにバッグの中身を漁っているところだった。侑哉と同じく壊れている傘が放り出されている。

「フラッと合羽いれてたりしないかなー……」

 遥花は、合羽を持ってきていないようだった。遅くとも昼過ぎには帰って来られる予定だったので、責めるべきは遥花ではない。

 一番恐れなければならないのは、低体温症である。この症状の特筆すべき点は、この山はもちろん、下山したとしても直ちに回復するわけではない、というところだ。むしろ、病状は刻一刻と悪化していく。

 季節は夏だが、気候は涼しい。雨に降られてずぶ濡れで、太陽も雨雲に隠れ、水分の自然蒸発も見込めない。風が吹いていないだけ幾分マシだが、いつ吹き出すかもわからない。現に、凍えそうなくらいの寒さ。環境条件はバッチリ満たされている。

 これ以上無策に激しくなるであろう雨を受け続けるのは、風邪を引くといった軽度なものを通り越して、命に危険が及ぶ。たかが雨具、されど雨具と言わざるを得ない状態なのである。

 侑哉の前に、選択肢が二つ現れた。一つ目は、『侑哉が合羽をそのまま着る』。二つ目は、『遥花に合羽を貸す』だ。

 一人は街に辿り着く、という『確実性』を取るなら、前者の『侑哉がそのまま合羽を着る』と言うことになる。

 初期装備の時点で、対防寒においては侑哉が勝っていた。気絶から回復した時には既に雨だったことから、倒れていた時間は差し引きで二時間くらい。すると、そこでの寒さによる体力の削られ具合は、決して小さいものではなくなる。

 その上で、この選択である。この事故をいち早く発覚させるためには、一人でも生き残らなければならない。ならば、体力が残っている侑哉を優先することになるのだ。

 また、『出来るだけ二人一緒に行く』と言うのであれば、侑哉が遥花に合羽を貸すという方法もある。理由は一つ目と真逆で、削られている遥花の体力をなるべく保つことが出来るようにするためである。

 『まず自分が助かって、それから遥花を救出するべきだ』と、最善手から声が聞こえた。共倒れになるより、公的機関の助けを借りた方が生存率も上がる、と。

 『雨など気にするな。どうせ近所の山だから、すぐ帰れるだろう』と、楽観思考からお告げを下された。崖から落ちたことで物事を針小棒大に捉えやすくなっているだけであり、実際は大したことではない、と。

 『遥花に万一のことがあったらどうするんだ。侑哉はある程度耐えられるのだから、遥花を優先して行動するべき』と、自己犠牲の精神が耳にささやいてきた。遥花は体力が無いのだから、率先して救うべきだろう、と。

 どれを取るべきか、侑哉はもう決断していた。

(二人一緒に決まってるだろ)

 最適解ではない。それでも、遥花に負担がかかるようなことはしたくなかった。

「遥花、合羽貸すよ」
「そんな、いいって……。これくらい、何ともないから。持ってこなかった遥花が悪いんだから」

 差し出した合羽を、遥花は突き返した。もう侑哉には、それ以上どうすることもできなかった。所詮、内気の決意はへなちょこ。今までのことは簡単には変えられない。

 仕方なく、侑哉が合羽を羽織ることにした。腕を通すのに手こずり、その間遥花は雨を凌げそうな木の下で雨宿りする羽目になった。

「……よし、まず登れそうなところを登って行こう」

 さらなる時間の浪費は何としてでも避けたい侑哉。遥花の手を引き、傾斜のある地面を高い方へ行こうとした。

「侑哉、登る必要なんてあるの? 下らないと抜けられないのに」
「メインの道だとよく分からないと思うけど、脇に逸れると川やら池やらがあるんだよ。突き当ったら、引き返さないといけなくなる。上に上に登って行ったら、最悪でも頂上まで行けば道があるから」

 遭難したときのセオリー、山を下らない。何も考えたくない時もこの山に登りに来ることのある侑哉は、おおよその地形が分かっている。池や川に当たる可能性が極めて高い『下る』という選択肢より、尾根に戻って登山道を確実に下るという『登る』を選んだのだ。

 『遥花の体力が持たなさそうなのに、確実でも遠回りの道を選ぶのか』と心の一部から批判があり悩んだが、下るには条件が悪く、とても賭けられる状況ではない。侑哉に周辺の地形がインプットされている以上、1%に望みを持つわけにはいかないのだ。ゲームや株なら逆張りが出来ても、生命をベットして高倍率を一点張りすることはできない。

 侑哉と遥花は、土でぬかるみ足を取られそうになる最悪のコンディションの斜面を、踏ん張って登って行った。侑哉が先頭で足場を固めて確保し、その足跡に沿って後発の遥花が追いかけていく。

 合羽を着ていても、容赦なく首や腕の隙間から雨が侵入してくる。上着はあらかじめ脱いであるため、素肌に直接あたるものも多く、その度侑哉はビクッと反応してしまう始末である。

 それでも、まだ侑哉は雨を防げる分体温はあまり下がらない。遥花などは、冷水シャワーを浴びたかのように全身にサブいぼが立ち、腕も足も震えが止まらなくなってしまっている。行動開始当初は単独で侑哉を追走出来ていたのだが、次第に助けが必要になることが多くなってきた。

『こんなのになんて、負けない。帰る、帰る、絶対帰る』

 歯を食いしばりながらの遥花の不屈の精神が読み取れる。ネガティブに捉えると、肉体的な限界がそう遠くない、ということになる。想定以上に、体格が小さい遥花の消耗は激しかった。



 ようやく開けた尾根にまでたどり着いたその時点で、遥花は侑哉の肩に片腕を乗せていないと、歩くことすらままならないところまで衰弱していた。

 この非常事態に幸いも生憎も無いだろうが、運よく朝登ってきた登山道はすぐ見つかった。

「侑哉にここまで頼ることになるなんて、思ったことなかったなあ」

 遥花は、もう疲れ切っている。

「何言ってるんだよ、遥花。一人で歩けないのに、頼るも頼らないもクソもないだろ」
「……そういうことじゃなくって。遥花、ずっと一人で頑張ってきた。周りからも期待されて、自分もそうしなくちゃ、って」

 意外だった。でも、それも当然だ。落としどころの無い、完全無欠な人間はいない。もし自称していても、どこか一つは欠落しているパーツがあるのだ。弱みぐらい、どうということはない。

「変に、他の人に頼りたくなかった。疲れてても、投げ出したくなっても、役割はまっとうしなくちゃいけない。友達はたくさんいるけど、心の底から全部吐き出せる子はいなかった」

 大気を切り裂く風が、ついに吹き始めた。ただでさえ冷え切っている骨や筋肉に、さらに追い打ちがかかる。

「侑哉は、すごいよ。……誰かからの期待じゃなくて、自分の意志で動けて」

 声が、途切れ途切れになった。

「遥花、もう話さないで。体力が尽きたら、それどころじゃなくなる」
「……それじゃ、最後に確認させて。疲れたとき、侑哉に頼っていい? 」
「いいに決まってるだろ」

 遥花がやたら侑哉と過ごしたがったのは、疲労が和らぐからだったのだ。

 侑哉に、笑顔はない。これまで弱音を聞いたことが無かったのは、遥花がまだ完全に頼り切ることの出来る相手に。侑哉がまだなっていなかったからだ。

(俺も周りの人と同じで、遥花がリーダーとして引っ張っていくことを期待していたんだ。遥花の気持ちが考えられなくて、何が親友だよ)

 期待のし過ぎは、時に人を壊す。楽観的な期待は、人を苦しめる。期待外れになれば非難の目を向けられる。遥花は、その狭間で密かに助けを求めていた。誰にも気づかれず、表向きはいつもの活発なクラスリーダーのまま。だれかに頼りたいが、誰にも頼れない。この酷い環境で、数か月も耐えてきたのだ。

 それと比較して、侑哉はどうだ。常に裏方ばかりに徹し、遥花が遥花であることを当たり前と受け止めていた。SOSの信号にも気づけなかった。

(遥花、いままで苦しい思いさせて、本当にごめん)

 侑哉ができる罪滅ぼしは、ひとまず遥花と生きて家に帰ることしかない。

「遥花、もう歩くのがダメそうなら、遠慮なく伝えてくれよな。俺が背負うから」
「そんなことしたら、侑哉が……」
「大丈夫だ、絶対に悲しい思いはさせない」

 遥花が笑顔になるためなら、魂尽きるまで道を追い求めるだけだ。

 いつの間にか突風が度々東西南北から吹き荒れ、豪雨となった山道を、とある男子高校生ともたれかかった女子高校生の二人が、ゆっくりと下って行ったのであった。


――――――――――


 ザーザーと、バケツをひっくり返したような雨の音が鳴り響く住宅街。真っ白で、一メートル先もぼやける。この悪天候で、わざわざ外出するような物好きはいない。

 侑哉は、必死の表情で自宅へと進んでいた。足元はふらつき、焦点もだんだんと定まらなくなっていく。背中では、動かなくなった遥花が侑哉をガッシリと掴んでいる。

(カギを取り出す余裕が無い……)

 まだ惰性で動いているから意識が保てているようなもので、止まってしまうと数秒の内に意識が暗転してしまいそうだ。

 なんとか、玄関までたどり着いた侑哉。取っ手を引っ張ると、ロックされていなかった扉はあっけなく開いた。その事実に喜んでいるヒマは無く、侑哉は遥花を背負ったまま家の中に倒れこんだ。

(早く、暖めないと)

 侑哉の家は面倒臭がりで、夏でも冬でも扇風機とヒーターが隣同士に並んでいる。電源ボタンを押せば、瞬時に暖房がつく。

 ここで遥花を手放せばもう運んでいく力が無いと判断した侑哉。這いつくばったまま、遥花とともに廊下を移動した。意識が無くなりそうになるほどの疲労感に襲われながら、やっとのことでヒーターを付けることが出来た。送風口付近で熱く感じないのは、寒さで感覚が麻痺しているからだろう。

 そのまま、三十分ほど熱風に当たり続けた。侑哉に関しては極度の疲労が原因で動けなかったので、少しばかり回復した身体を奮い立たせて起き上がった。遥花は、まだ戻ってきていない様子である。

(結局、遥花に対する気持ちはどうなっただろう)

 地震が起こるまで、遥花にはささやかな恋心を抱いていた。侑哉にない積極性を持つ遥花が、輝かしく見えていた。

 滑落後、遥花の弱みを見せたギャップにまた惹きこまれた。典型的なリーダー型ではないことを知り、意外な一面の微笑ましさが愛惜しかった。

 それでは、今は。今は、どうなっただろうか。

(遥花は、頼ることの出来る人が欲しかった。俺は、それになることが出来て無かった。遥花の気持ちを考えられているようで、全然分かってなかったんだ)

 『だから、俺はそうなれる人でありたい』。侑哉は、ただ自分の満たされていないところを満たしてくれる存在としてではなく、互いに短所と長所を補完し合う関係になりたいと思うようになった。

(いつまでも先延ばしにしていたら、その内できなくなることもあるから)

 そして同時に、遥花に今の自分の気持ちを伝えたくなった。『心理的にフラットでないといけない』といった考えは、もう頭の片隅にまで押しやられていた。

 元気だった遥花が、ものの数十分で動かなくなった。死というものがひたひたと遥花に迫る様子を、間近で目撃した。今後もまた、些細なことから大事故に発展するかもしれない。大切な想い人を失う事の恐怖が、十分身に染みたのだ。

(しっかし、遥花はとっくの昔に気を失ってたはずなのに、ずっとしがみついてたな)

 侑哉は遥花を背負っていたが、両手を後ろに回して支えていたわけではなかった。遥花の返事が無くなってしばらくしてもしがみついたままだったため、無言になって侑哉に抱き着くことに集中しているのか、と侑哉が勘違いしたほどである。

 遥花がぐったりとして侑哉が支えなければならなくなっていたら、きっとカタツムリペースで進まなければならなかっただろう。そして、道中に倒れこんでいたことだろう。侑哉は、遥花に救われていたのである。

(それに、最後まで何かしようとしてくれたし)

 『これで、侑哉が温まるかどうかは分からないけど』と遥花が、自身が歩けなくなった辺りから耳に吐息を当て続けてくれていた。ゆっくり息を吐いても速く吐いても、息自体の温度は変わらない。それでも、侑哉は遥花の気遣いに暖まった。

 さらに、遥花も予想だにしていない方向でこの行為が作用した。一切の感情を切り捨てて進軍したかった侑哉だが、小説の主人公のように完璧に冷静にはなれなかった。

 『遥花からに耳に吐息を当てられている』という情報は、脳によってイメージに変換される。知らない女の子でも意識してしまうシチュエーションで、告白したい人にされているとなると、抑えようとしてもドキドキは抑えきれなくなる。身体が密着していたため、遥花にも心拍数が上がったのは感じ取れたはずだ。

 心拍数が速くなると、血流が増加する。冷たい血液が体内を循環しきるのも速くなるが、短期的には激しい運動をすることが出来る。距離が長ければ時限爆弾となるが、侑哉がそうなった時には既に山を抜けていたのが大きかった。

 そっと遥花の、ヒーターからの風に当たっていない方の腕に手を触れた。氷ではなく、冷房の効いた部屋にいたときのようなヒンヤリさだった。スース―と、寝息のような呼吸音も聞こえる。暖められていない方にこれだけの温度があれば、もう快方に向かうだろう。

 遥花の容体について気に掛ける必要のなくなった侑哉。今後についてのことまで頭が回るようになった。

(遥花が目を覚ましたら、どのタイミングで切り出そうか……)

 遥花が目覚めた直後だと、よく分からないままで終わってしまうかもしれない。やはり、会話の中で切り出すのが自然だろう。

 上手く伝達出来ないことを危惧した侑哉は、壁の隅に向かって練習することにした。小声では練習にならないので、ある程度声を張って、だ。

「遥花……。俺は、遥花が好きです。ずっとそばにいてください」

 『これからはいつでも頼って』『頑張り屋でしっかりしているところが好きです』……。遠回しに告白することもできた。が、侑哉は、単刀直入にアタックするシンプルなものを好んだ。ただでさえ回して、回して、回して……。安全で遠回りをして来た。そんな自分と、おさらばしたかったのだ。

(告白するときくらい、真っすぐ行かなくてどうする)

 何度も何度も、正座で壁と面に向かって想いをぶつけた。途中から、頭を下げることをやめた。視線を切るより、遥花の目をじっと見つめた方が、想いが伝わりやすいのではないかと思ったからだ。

 壁を遥花だと想像するだけで、緊張が高まる。水色の半ズボンにラフな白の薄着の遥花に相対することが、すでに難関としてのしかかっている。顔を合わせる事すら恥ずかしく、逸らしてしまいそうだ。

 侑哉にとって、遥花がクラスを仕切っているカッコよさやクールな対応は、憧れだった。侑哉だけに見せているであろう優しさと満面の笑みは、虜にさせるのには十分過ぎた。甘っぽい一面は、普段とのギャップが激しく、より一層可愛らしかった。そばにいるだけで、安心感があった。

(俺は好きだよ、遥花……)

 遥花の余韻に、侑哉はしばし浸っていた。

「侑哉、そんなところで何してるの? そっちはヒーター当たらないのに」

 振り返ると、遥花がちょこんと正座をしていた。

「もう大丈夫なのか? ずっと、起きてこなかったのに」
「それは遥花のセリフだよ! 遥花を背負って、ビチャビチャなのに……。無理し過ぎ」
「それはそうだな」

 人を一人背負ってキロ単位を移動するなど、無茶だったと今となっては思う。

「……生きててくれただけで、遥花は嬉しい。だって、また侑哉と会えるじゃん」
「俺も、また遥花のそんな笑顔が見られて嬉しい」
「そんなこと言われたら、照れちゃうー……」

 緩めに結んであった遥花の口が、ほどけた。こうなった遥花は最強だ。まともに直視が出来ない。

 早めに決着をつけなければ、遥花ペースで進んで終わってしまいそうだ。

「……遥花」

 侑哉は、勝負を先送りにした。

 かしこまって背筋をのばした侑哉を見て『何かある』と確信したのか、遥花が急に真剣な顔つきになった。

「遥花が好きです。ずっとそばにいてください」

 心臓のバクバク具合がとんでもなかったが、事前の言葉と同じようにすることが出来た。

 遥花は最初、キョトンとしていた。数秒遅れて、ラグが懸かっていたかのように、頬が真っ赤に染まった。いつもしっかりしている姿からは、似ても似つかない。

 双方ともに言葉を発せなくなった数瞬、侑哉の心は宙ぶらりんで、天にも地にもついていなかった。『案外、さらっと返答してくれるのではないか』という予想が裏切られたことに、驚きが隠せない。

(遥花……)

 うわべだけではない。中身も含めて、優しく、甘く、リーダーシップのある遥花が好きになった。ただ一方的な願いは、成就することはない。相手のOKサインが出なければ、片思いは片思いのまま成長せずに終わりを迎える。

 動悸が止まらない。固まって縮こまっている遥花など、見たことが無い。親友としてではなく、女子としての遥花が、侑哉の目のまえには居る。

 侑哉が、恋愛をどうすればいいか尋ねに行ったのは遥花だった。そして奇しくも、その遥花が好きになった。これを運命と言わずして、何を運命と言うのであろうか。

 遥花が、モジモジし始めた。両手で顔を覆い隠した。侑哉の明かされた想いに、興奮しているようだった。息も荒くなっている。

「侑哉の気持ち、よーく分かったよ。……はい、こちらこそ侑哉とずっと一緒に居させてください」

 遥花の目から、うれし涙がこぼれた。目元で、滴が光る。侑哉の心臓は、空高く跳ね上がった。心が、幸福感に包まれていく。まだ冷たい部分のあった体も、指先までホカホカになった。

「侑哉って、いつも裏方の仕事をしてる。『楽そうな仕事をしてるだけ。表に出る仕事はとてもじゃないけど出来ない』なんて言ってたけど、遥花にはそう見えなかった。侑哉なりに、出来る仕事を精一杯しようとしてた」
「それは、やるからにはってことで、積極的な動機じゃない」
「そこが、侑哉の悪いところ。必要ないのに自分の地位を下げて、相手を高くする。もっと自分に対して素直になって欲しいな」

 ただただ褒めるばかりではなく、注意すべきところは注意する。真の優しさとは、こういうことだ。

「それに、すっごく優しかった。相談内容が酷くても、どうでもいいことでも、親身になって一生懸命考えてくれた」

 遥花の上半身の力が抜けたのか、前へ倒れそうになった。侑哉が、正面で抱きかかえ、図らずハグする形になった。遥花の甘酸っぱいにおいが、鼻の中を突き抜けた。

「まだ、回復し切ってなかったのか」
「だってさ、侑哉と一秒でも早く話したかったんだもん」

 抱き着いている腕の締める力が、強くなった。

「遥花、『疲れたときは甘えてもいい』って聞いたよね? 『好きな時いつでも』も、加えて欲しいな」
「いいに決まってるだろ。どんどん、頼ってきてくれてもいいんだぞ」

 遥花は、小さく首を横に振った。

「甘えすぎると、今度は自分で何も出来なくなっちゃうから。でも」

 遥花が、上半身を戻してきた。侑哉と目が合った。

「今日は、いいよね……」

 遥花は、一人の可憐な女子高生として、侑哉に見てもらいたかったのだ。

「きす、してくれないかな……」

 普段の現実主義で冷静な侑哉なら、一旦頭を冷ました方がいいと、遥花を止めていただろう。だが、『遥花を、自分だけのものにしたい』という切なる願いでいっぱいだった侑哉に、雰囲気を壊してでも止めるという手はなかった。

 両者の唇が、ゆっくりと接近していく。遥花は目を閉じて、侑哉を待っていた。生まれて初めての、キス。親友であり恋人となった遥花への、愛情表現。理性が吹き飛びそうだった。

 とろけそうな、マシュマロのような柔らかい唇だった。軽く触れあっただけだったのだが、それを余りある充実感が押し寄せてきた。遥花もほぼ同じ感触だったようで、昇天するのではないかと心配してしまうくらい、幸せそうだった。

 いよいよ胸の高鳴りは最高潮を迎え、侑哉と遥花は。

「大好き」
「俺もだ」

 二人で歩んでいく道のりは、平坦では無いのかもしれない。もしかすると、険しい山を越えていかなければならないかもしれない。それでも、互いに補助し合って乗り越えていけるだろう。

 侑哉と遥花の青春は、始まったばかりだ。
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