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悲しきロボットは、今日も平常運転。

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 誰だ、中学校を卒業すれば受験勉強から解放されるとほざいたのは。高校に入れば、二年間は安泰だと虚像を見せていたのは。

「おいおい、これ、終わらないぞ……」

 机に高く積まれている教材は、学習塾と宿題とが対等になっている。バランスはどうであれ、とても教室から出るまでには消化できそうにない。

 末期のジェンガタワーのように、教科書の塔がぐらぐらしている。たった五冊なのだが。

 呑気に現実を見ない体育会系の掛け声が、窓から飛び込んできた。耳栓を付けていても忍び込んでくるのは、流石の肺活量と言ったところか。

 ……集中しないと、集中しないと……。

 羊を数えると却って眠れなくなるらしいが、尚史(なおふみ)も同じ現象に悩まされていた。勉強に使うべきスタックが、他の用途に使われては意味がない。

 額から汗が垂れ落ちて、机上のプリントにしみ込んだ。じわりと滲んで広がっていくそれは、心を見透かされているようだった。

 尚史を苦しめるものは、灼熱の太陽と無理難題だけではない。

「ねーえー! まだ終わらないのー?」

 トイレに行くヒマも惜しんでいるというのに、性懲りもなく腕を引っ張ってくるクラスメートだ。一度貼り付かれると、スライムのようにべとついて離れなくなる。

 赤ちゃんより態度の悪いこの駄々っ子ちゃんは、妃奈(ひな)である。乳幼児のころから人離れが悪かったようで、親から中々離れられなかったらしい。

 ほっぺたを風船にして、目が本気で自らを向いていないことへの抗議を示している。

「言っただろ、宿題が終わらないって……」
「そんなの、どうでもいい! さ、帰ろう、帰ろう!」

 そう言うなり、折角完璧な角度で積み上げることの出来た教材を彼女のバッグに詰め込もうとする。何とも、人の気持ちを考えられない奴だ。

 口で注意しても聞く耳を持たないのなら、これは実力行使せざるを得ない。

 ……勉強の方が、遊びより百倍も大事なのに……。

 チャックを閉めようとする妃奈の手を、真横にはたいた。床にぶつかって本が傷んでしまうが、盗まれそうになったことを考えれば悪い結果ではない。

 厳格な父親の制度が崩壊してから、もう数十年。弱腰になり続けてきた大人たちは、国際社会での競争力を失ってしまった。秀才軍団だった日本は、今や落ちぶれ先進国に成り下がってしまったのだ。

 能無しの同級生のせいで、十秒もロスしてしまった。一刻も早く、勉学に戻らなくてはならない。

「……今日こそは、何もせずに帰るって約束したじゃん!」
「そんなの、口約束だから無効に決まってるだろ!」

 絡みへの対処が鬱陶しかっただけだ。それ以外の何物でもない。

「……私は、尚史のことを思って……」
「……高校一年生から頑張らないと、いい大学に入れないんだ。努力しないと負け組になるんだ……」

 ……そういえば、中学校までは彼女とうつつを抜かして雑談をしてたな……。

 幼馴染だからと言って、情けは無用だ。悪は、切り捨てられて当然なのだ。

 他人と仲良くすることが、何のプラスになるのか。それでテストの点が一点でも上がるのなら喜ぶが、そうでないなら無用の長物というものだろう。

「……」

 厳しく諭してあげるような尚史の目に楔を打ち込まれて、ようやく厄介者が黙った。明日から、バッテンマークのマスクをつけてくれると尚嬉しいのだが。

 現代は、学歴社会だ。大学進学への努力は、一秒たりとも惜しんではならないのだ。道を一歩でも踏み外せば、負け組になって資本主義の犠牲になる。

 だから、仕方がない。幼馴染の異性は、嫌気が差して人生の橋を降りた軟弱者であるから、切り捨てられても文句を言う資格はない。

 ……最後に妃奈が笑ってたのは、いつだったっけな……。

 冷徹に物事を処理する脳に一滴の雨が落ちたのは、きっと気のせいだ。





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 金属で作られている重たい教室の扉が、閉まる直前に。

『……いつから、こんなことに……』

 瞳を青く落ち込ませた少女がいたことを、尚史が知る由は無かった。
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