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第1話 静かな求人
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離婚して一年。
結城紬は仕事に戻ったが、数字は戻らなかった。
フリーライター。書けば書くほど、締切は増える。
でも、家賃も給食費も、待ってはくれない。
向かいで澪が宿題をしている。
小学校二年生。鉛筆の音が細い。
「ママ、これ、どっち?」
「……こっち」
紬は丸をつけて返した。
澪がうなずき、また鉛筆を動かす。
その音を聞きながら、紬はスマホを開いた。
タイミーの通知が一つ光っている。
《遺品整理/見積り補助(写真・メモ)/3時間/即日》
指が止まる。
「遺品整理」という字だけが、少し重い。
澪が消しゴムを落とした。
コトン、と小さな音。
紬はその音で、決めた。
応募、を押す。
集合場所は、駅から少し歩いた雑居ビルの一階だった。
ガラス扉に、控えめなステッカー。
SILENT CARE
中に入ると、電話の声が聞こえた。
「はい。お時間の件、承知しました。ご無理のない範囲で大丈夫です」
受付にいた女性が、紬に気づいて会釈した。
目元が柔らかい。
「今日のタイミーの方ですね。結城さん?」
「はい。結城です」
「三輪です。名札だけお願いします」
名札を受け取る手が、自然に落ち着いた。
奥から男性が出てきた。背が高く、手にクリップボード。
「相馬です。今日の内容だけ説明します」
相馬は淡々と言う。
「今日は見積りと記録です。作業はしません。入るのは最小限。写真とメモだけ」
「はい」
そこへ、若い女性が顔を出した。
「こんにちは! 今日の人?」
「はい。結城です」
「私、春日こころです!」
相馬が言う。
「こころちゃん、名札」
「はーい」
紬が名札をつけていると、扉の奥からもう一人出てきた。
黒に近い、地味な服。喪服ほど固くないが、派手さはない。
「榊󠄀です。よろしくお願いいたします」
声は低い。丁寧で、距離が一定。
榊󠄀は相馬に向けて言った。
「相馬さん、現地は私と結城さんで伺います」
「了解です」
榊󠄀はこころを見る。
「春日さん、ありがとうございました」
「え、はい!」
こころが少しだけ背筋を伸ばした。
紬はそれを見て、理由の分からない“差”を覚えた。
現場は、古いアパートの二階だった。
階段が狭い。壁に生活の擦れた跡がある。
部屋の前に、依頼主の女性が立っていた。三十代くらい。
腕に抱えた書類が、少し震えている。
「今日は、よろしくお願いします」
榊󠄀が先に頭を下げた。
「株式会社SILENT CAREの榊󠄀と申します。本日は見積りと記録で伺いました。こちら、結城さんです」
「……お願いします。叔父の部屋で……」
鍵が回る。
扉が開いた瞬間、紬は息を飲みかけて、やめた。
汚れてはいない。
散らかってもいない。
でも、生活の匂いだけが残っている。
洗剤と、少し古い布の匂い。
「全体を撮ります」
紬はスマホを構えた。四隅から部屋を写す。
榊󠄀は部屋を歩き、目線だけで確認していく。足音が小さい。
依頼主が言った。
「……捨てるだけなのに、手が止まって」
言葉が途中で切れた。
榊󠄀は急がせなかった。
少しだけ、うなずく。
「捨てる必要はありません」
榊󠄀の声は淡い。
「終われる形に整えるだけで、十分な場合もあります」
依頼主が小さく笑った。笑い方が苦い。
「終われる形……」
「はい」
榊󠄀は棚を指さした。
「貴重品の確認だけ、よろしいですか。触れるのがつらい物は無理に開けません」
依頼主がうなずく。
紬はメモを取った。
普段の取材メモと同じ動き。
でも今日は、文字が少しだけ重い。
引き出しの中に、小さなケースがあった。
依頼主がそれを見て固まる。
「……これ、叔父が」
指が止まる。
榊󠄀が言った。
「今日は、決めなくて大丈夫です」
「……すみません」
「いえ。今日は、ここまでで十分です」
その瞬間、部屋が少しだけ静かになった気がした。
紬はスマホを下ろして、息を吐く。
自分が肩に力を入れていたことに、今気づいた。
榊󠄀が紬に向き直る。
「結城さん、記録、助かりました。ありがとうございます」
「いえ……こちらこそ」
事務所に戻ると、三輪が温かいお茶を出してくれた。
紙コップなのに、湯気がちゃんと落ち着く。
「お疲れさまでした。初回は緊張しますよね」
「はい。でも、思ってたより……」
「思ってたより、普通でしょう」
三輪が笑う。
紬も、少しだけ口元がほどけた。
榊󠄀が言う。
「結城さん。もしよろしければ、次もお願いできますか」
「……単発じゃなくて、ですか」
「はい。無理のない範囲で」
紬は即答しなかった。
名刺を受け取り、財布に入れる。
「検討します」
「はい。ありがとうございます」
帰り道、夕方のスーパーで半額の惣菜を買った。
家に着くと、澪が玄関まで来た。
「ママ、おかえり」
「ただいま」
澪は紬の顔を見上げて、少しだけ首を傾けた。
「今日、いつもと違う?」
「……そう?」
「うん。疲れてる」
紬は笑って、靴をそろえた。
いつも通りの動作に戻す。
「うん。ちょっとだけ」
「大丈夫?」
「大丈夫。まず手、洗おう」
澪が「はーい」と返事をして、先に洗面所へ走った。
紬はその背中を見て、息を整えた。
今日の部屋の静けさが、まだ胸に残っている。
嫌じゃなかった。
たぶん、また行ける。
結城紬は仕事に戻ったが、数字は戻らなかった。
フリーライター。書けば書くほど、締切は増える。
でも、家賃も給食費も、待ってはくれない。
向かいで澪が宿題をしている。
小学校二年生。鉛筆の音が細い。
「ママ、これ、どっち?」
「……こっち」
紬は丸をつけて返した。
澪がうなずき、また鉛筆を動かす。
その音を聞きながら、紬はスマホを開いた。
タイミーの通知が一つ光っている。
《遺品整理/見積り補助(写真・メモ)/3時間/即日》
指が止まる。
「遺品整理」という字だけが、少し重い。
澪が消しゴムを落とした。
コトン、と小さな音。
紬はその音で、決めた。
応募、を押す。
集合場所は、駅から少し歩いた雑居ビルの一階だった。
ガラス扉に、控えめなステッカー。
SILENT CARE
中に入ると、電話の声が聞こえた。
「はい。お時間の件、承知しました。ご無理のない範囲で大丈夫です」
受付にいた女性が、紬に気づいて会釈した。
目元が柔らかい。
「今日のタイミーの方ですね。結城さん?」
「はい。結城です」
「三輪です。名札だけお願いします」
名札を受け取る手が、自然に落ち着いた。
奥から男性が出てきた。背が高く、手にクリップボード。
「相馬です。今日の内容だけ説明します」
相馬は淡々と言う。
「今日は見積りと記録です。作業はしません。入るのは最小限。写真とメモだけ」
「はい」
そこへ、若い女性が顔を出した。
「こんにちは! 今日の人?」
「はい。結城です」
「私、春日こころです!」
相馬が言う。
「こころちゃん、名札」
「はーい」
紬が名札をつけていると、扉の奥からもう一人出てきた。
黒に近い、地味な服。喪服ほど固くないが、派手さはない。
「榊󠄀です。よろしくお願いいたします」
声は低い。丁寧で、距離が一定。
榊󠄀は相馬に向けて言った。
「相馬さん、現地は私と結城さんで伺います」
「了解です」
榊󠄀はこころを見る。
「春日さん、ありがとうございました」
「え、はい!」
こころが少しだけ背筋を伸ばした。
紬はそれを見て、理由の分からない“差”を覚えた。
現場は、古いアパートの二階だった。
階段が狭い。壁に生活の擦れた跡がある。
部屋の前に、依頼主の女性が立っていた。三十代くらい。
腕に抱えた書類が、少し震えている。
「今日は、よろしくお願いします」
榊󠄀が先に頭を下げた。
「株式会社SILENT CAREの榊󠄀と申します。本日は見積りと記録で伺いました。こちら、結城さんです」
「……お願いします。叔父の部屋で……」
鍵が回る。
扉が開いた瞬間、紬は息を飲みかけて、やめた。
汚れてはいない。
散らかってもいない。
でも、生活の匂いだけが残っている。
洗剤と、少し古い布の匂い。
「全体を撮ります」
紬はスマホを構えた。四隅から部屋を写す。
榊󠄀は部屋を歩き、目線だけで確認していく。足音が小さい。
依頼主が言った。
「……捨てるだけなのに、手が止まって」
言葉が途中で切れた。
榊󠄀は急がせなかった。
少しだけ、うなずく。
「捨てる必要はありません」
榊󠄀の声は淡い。
「終われる形に整えるだけで、十分な場合もあります」
依頼主が小さく笑った。笑い方が苦い。
「終われる形……」
「はい」
榊󠄀は棚を指さした。
「貴重品の確認だけ、よろしいですか。触れるのがつらい物は無理に開けません」
依頼主がうなずく。
紬はメモを取った。
普段の取材メモと同じ動き。
でも今日は、文字が少しだけ重い。
引き出しの中に、小さなケースがあった。
依頼主がそれを見て固まる。
「……これ、叔父が」
指が止まる。
榊󠄀が言った。
「今日は、決めなくて大丈夫です」
「……すみません」
「いえ。今日は、ここまでで十分です」
その瞬間、部屋が少しだけ静かになった気がした。
紬はスマホを下ろして、息を吐く。
自分が肩に力を入れていたことに、今気づいた。
榊󠄀が紬に向き直る。
「結城さん、記録、助かりました。ありがとうございます」
「いえ……こちらこそ」
事務所に戻ると、三輪が温かいお茶を出してくれた。
紙コップなのに、湯気がちゃんと落ち着く。
「お疲れさまでした。初回は緊張しますよね」
「はい。でも、思ってたより……」
「思ってたより、普通でしょう」
三輪が笑う。
紬も、少しだけ口元がほどけた。
榊󠄀が言う。
「結城さん。もしよろしければ、次もお願いできますか」
「……単発じゃなくて、ですか」
「はい。無理のない範囲で」
紬は即答しなかった。
名刺を受け取り、財布に入れる。
「検討します」
「はい。ありがとうございます」
帰り道、夕方のスーパーで半額の惣菜を買った。
家に着くと、澪が玄関まで来た。
「ママ、おかえり」
「ただいま」
澪は紬の顔を見上げて、少しだけ首を傾けた。
「今日、いつもと違う?」
「……そう?」
「うん。疲れてる」
紬は笑って、靴をそろえた。
いつも通りの動作に戻す。
「うん。ちょっとだけ」
「大丈夫?」
「大丈夫。まず手、洗おう」
澪が「はーい」と返事をして、先に洗面所へ走った。
紬はその背中を見て、息を整えた。
今日の部屋の静けさが、まだ胸に残っている。
嫌じゃなかった。
たぶん、また行ける。
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