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16話 凶暴化


 それでもすごい。契約って、本当に何でもできるんだ。

「物の記憶って、すごいんですね。こんなに何でも分かるなんて」
「何でもではありませんよ。組紐の記憶としてお話をした『獣を討伐した際に穢れが乗り移ろうとした』という部分は、私が使用者から聞いた状況に基づいて補完したものです。実際の記憶は花様の手によって作られ、穢れが来たので弾いた。これだけです」

 な、なるほど。物の記憶は完璧じゃないのか。分かるのは、その物に直接的に関することだけみたい。

「それでも、対価以上の価値はありますけどね」
「対価ですか?」
「えぇ。私はこの目を手に入れるのに、左目の視力を失いました。右目が見えているので、普通の生活に支障はありませんが」

 その話に、白樹を見る。確か、白樹は百を越える契約をしていると言っていた。一体、何を犠牲にしてしまったのだろう。


「この扉の向こうになります。覚悟はいいですか?」

 階段下まで来ると、施錠された鉄製の扉を見詰めながら、輪さんは聞いた。
 呻き声は大きく、ガリガリと引っ掻く音、ゴッゴッとぶつかる音が扉の向こう側からひっきりなしに聞こえてくる。

 私が頷けば、輪さんは解錠かいじょうした。開かれた扉の先は、私の想像を遥かに越える地獄絵図という言葉がピッタリな光景だった。

「花、帰ろう」

 声も出せず、動けない私の目を塞ぎ、白樹が言う。返事をしなくては……と思うのに、少しでも声を発せれば吐いてしまいそうで、それもできない。

 正直、甘くみいていた。凶暴化すると言っても、人や動物を襲うだけだろうと思い込んでいた。

 今見たものは何だ? この鼻の奥が痛くなる腐敗した臭いは?
 一つ一つの独房のような鉄格子のなかで、石の壁に頭から突進していた。石の床を引っ掻いていた。鉄格子に噛みついていた。あちこちに血痕があった。腕が変な方向に曲がっていた。
 血が流れているのにも関わらず、怪我をしているにも関わらす、いつまでも同じことを繰り返していた?
 だから、ピクリとも動かない人だった何かがいたの?

 目は塞いでくれたから見えないけれど、鈍い音や何かが折れる音、壊れる音が止むことはない。

 この空間におぞましいほどにいる黒い何かが笑っている気がする。甲高く、愉快そうに、歌うかのように。


「もういいから、帰るぞ」

 そう言って、白樹が私を抱き上げる。何も見なくて済むようにまでしてくれている。
 輪さんは何も言わなかった。着いてきてくれた善くんと悪くんあっくんも。

 このまま頷けば、温かい屋敷に帰れる。頷いたところで、誰も私を責めないだろう。

 本当はこのまま帰りたい。帰ってしまいたい。覚悟なんかできていなかったのだ。
 私の頭のなかは、きちんと理解できていなかった。白樹が私を討伐に連れて行かないのは当然だ。想像と現実がこんなにもかけ離れていたのだから。


「……大丈夫。ちゃんと見る」

 本当はお礼を言わなければならないが、余裕がない。話すことも苦しい。逃げてしまいたい。
 だけど、逃げてはだめだ。この場で逃げれば、私はどこまで行っても守られる側だ。そうなれば、とてもらくだろう。
 後悔はするかもしれないけれど、こういう風に苦しむことはないはずだ。それでも──。

 降りるという意思を込めて、白樹の胸を軽く押す。金の瞳が心配そうに私を見ている。本当は止めたいのだと言っている。
 ありがとう。私はこんなにもあなたに守られている。
 強くなりたい。ならなければ。私もあなたを守りたいと望むなら。


 白樹の目を真っ直ぐに見詰め、意識して口角を上げる。きっと情けない、不格好な笑みだろう。もしかしたら、笑えていないかもしれない。

「ありがとう。もう大丈夫」

 石の床に足をつけ、鉄格子の方を振り替える。
 見える景色は変わらずの地獄絵図。気を弛めたら、吐いてしまいそうのことも変わらない。

 けれど、落ち着いた今はハッキリと見える。凶暴化した人の上を蛇のように這い回る、黒い何かが。
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