未来の死神、過去に哭く

DANDY

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第三章 人は他者を自身の物差しでしか測れない 1

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 あっという間だった。
 俺がピアノの音が聞こえないという情報は、あっという間にプロダクション関係者のあいだに広まった。
 医師会に話をすると言った時点で、ある程度予想はついていたがここまで早いと思わなかった。
 まだ三日しか経っていないというのに、マネージャーから確認の連絡が入った。
 話してもすぐには信じてくれなかったが、俺の真剣な様子から嘘ではないと信じてくれた。

「必ず治療法はあるはずです。だからあまり気を落とさずに休んでいてください」

 電話越しにマネージャーはそう言っていた。

 もちろん言われた通りに休んでいる。
 仕事もピアノを弾くような内容はキャンセルして、学校にも行かなかった。
 俺も一応高校に在籍している。
 なんなら部活も入っている。
 仕事の関係でほとんど行けていないが、天音と同じ吹奏楽部だ。

「ねえ真希人。そろそろ出る時間よ」

 ドア越しに母さんの声が聞こえる。
 いつもと同じ声のかけ方。
 母さんはこの三日間で落ち着きを取り戻し、いま自分にできることは何かを考えた結果、普段通りに振舞うことにしたらしい。
 俺のためもあるだろうが、おそらくは自己防衛のためだろう。
 いつも通り振舞うことで、自分自身を騙しているのだ。
 
 
 別に俺はそれで良いと思う。
 それで母さんが自分を保てるというのなら、俺は全然かまわない。

「今行く!」

 俺は努めて明るく返事をし、身支度をする。
 今日はテレビの収録だ。
 ピアノの演奏はなく、ただ今までの自分の人生を年表とともに振り返るというもの。
 さぞかし輝かしく見える年表になるだろう。
 俺からすれば普通だが、他人から見たらそう見える。
 全てが上手くいっている天才ピアニスト。

 世間の評価は変わらない。
 しかしこの年表の最新の所に、音楽を失うと記載されたらどうだろう?
 よりバラエティーに富んだ年表になる。
 実にテレビ的に喜ばしい年表だ。
 彼らは成功者の挫折する姿が大好きなのだ。

「行ってきます」

 俺が家を出ると、マネージャーの黒井さんが車で俺の迎えに来ていた。

「真希人さん。おはようございます」

 マネージャーの黒井さんは、俺よりはるかに年上の今年四〇歳になろうとしている男性だ。

 ここまでお堅い人間を見たことがない。
 子供ぐらいの年齢の俺にさえ、常にさん付け。
 フリートークはほとんどしないし、黒井さん自身の話も何もない。
 いつもぼんやりと後部座席から、運転する黒井さんの後頭部を眺めているだけだ。

「おはようございます」

 俺は挨拶だけしていつも通り車に乗り込む。
 音のことは一切触れない。
 俺も黒井さんもその話題には触れない。
 黒井さんは黒井さんで気を使っているのだろうし、俺は俺で気を使った結果だ。
 いまその話題を出したところで、この生真面目なマネージャーは言葉を失うだろう。

 ……後頭部、ハゲてきたな。

 仕事に疲れているのか、気を使いすぎているのか、去年くらいから見事に髪の毛たちがいなくなっている。
 前の方はわりとフサフサなのに、後ろの方がいなくなり始めている。
 髪の毛というものは、基本的に前の方から去っていくと思っていた。
 それか頭頂部らへんから撤退を始めると、そう信じていたのだが、どうもそれだけではないらしい。

 まだまだ四〇歳なのに、後頭部から撤退が始まっている。
 たぶん黒井さんは気づいていない。
 自分のことを話さない黒井さんに、奥さんがいるかどうかは分からないが、この堅物と結婚する人間などいやしないと、随分と失礼な予想を立てる。
 指摘してくれる人がいない黒井さんは、自身の後頭部の戦力が減っていることをまだ知らないのだ。

 堅物の黒井さんにそのことを指摘しづらい。
 現に俺だってここ一年ぐらいの間、指摘できないでいる。

 そんなどうでも良いことを考えているうちにテレビ局に到着した俺は、そのままテレビの収録へ。

 収録は他にゲストのいない、インタビュアーとの一対一の番組。
 年表に沿って、話を進めていく。

 案の定の展開というか、天才と言われてきた経歴をさんざん褒めたたえたあと、父親の他界によって悲劇の主人公に仕立て上げられ、現在に至るまでの栄光のストーリーを面白おかしく話された。

 別に構わない。
 こうなると予想はしていたし、結局メディアは俺自身は必要としていない。
 それは十分すぎるほど分かっていた。
 メディアが欲しいのは、悲劇の天才ピアニストという肩書だけ。
 さらに俺自身背丈もそこそこあるし、顔も別に悪くないだけに、メディアとしては扱いやすくて仕方がない。

「ありがとうございました」

 収録を終えた俺は、楽屋に戻って帰り支度を始める。
 さっきのような番組に次に出る時は、ピアノの音が聞こえなくなるという状態を、面白おかしくネタにされるのかな?
 そう考えると吐き気がする。
 眩暈がしそうだ。

「やめだ。無駄に考えると考えが悪い方向に傾く」

 これはよくない。
 そう思った矢先、番組のプロデューサーが楽屋にやって来た。

「どうしました?」

 俺は尋ねる。
 いろいろとテレビにも出てきた分だけ、そのプロデューサーの特徴も分かっている。
 このプロデューサーは、収録後の楽屋には来ないタイプだったはずだけど……。

「ちょっと小耳に挟んだんだけど、ピアノの音だけが聞こえないって本当かい?」

 この小太りのプロデューサーは、如何にも心配してますと言わんばかりの声色で尋ねてくる。
 しかし虚しいかな、その表情からは一切の心配が窺えない。
 おいしいネタを見つけた時に良く見せる表情だ。
 この業界の人間特有の……。

 人をネタにしか思わない人間の下品な視線。
 絡みつく厭らしい視線。
 頭の中では他人の不幸を数字としか見ていない者が放つ、独特なオーラ。

 知っていた。
 分かっていた。
 彼らがこういう人種だってことは分かっていた。

「そう……ですけど」

 俺は辛うじて答える。

 気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪い!

 こういう自分の欲望を、善意で隠して近づいてくる連中に嫌気がさす。
 吐き気がする。
 しかもこのプロデューサーとは、何度も仕事を一緒にしている。
 この業界の中ではよく話す方だし、比較的マシな部類の人間だ。
 そう思っていたのに……。
 少しは信じていたのに……。
 やっぱり変わらないのか。

 お前も他の奴らと何も変わらない。
 人の不幸で金儲けをする愚者たちと何も変わらない!

「今度その話をやらないかい? けっこう盛り上がると思うんだよね」

 プロデューサーから放たれたその一言を聞いた瞬間、俺の全身が熱くなる。

 そのまま体が熱くなっていった結果、彼の声は俺の耳に一切届かなくなった。

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