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診療所の医者

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 雲島滞在 四日目——

 遥と涼子は、六時半発のフェリーに乗り込み本島へと向かった。びいどろをチェックアウトすると亮二が面倒なので、同日本島から出る十七時のフェリーでまた戻る予定だ。
 
 フェリーには、子供たちと一緒に真由美が乗っていた。
 
「あ、遥ちゃん! 匠さんのガラスはどうだった? どれも素敵だったでしょう」
 
 親しげに話す遥と真由美を見て涼子はあからさまに咳払いをするが、二人は気にもしない。涼子は二人の見える距離でうろうろするも、そのうち諦めて船の後方から離れて行く雲島を眺めていた。
 
 撫子村に初めて上陸した時に見たあの門も、遠くになるとぽかんと口を開けているように見えて何だかおかしく見える。
 
 涼子はスマートフォンを確認した。仕事用は雲島にいる間も何度か見ていて、特に滞っている案件もない。

 問題はプライベート用の方だ。

 いくつか着信履歴や未読のメッセージが溜まっているが、どれも見る気にはなれない。ショッピングやランチの誘い、ワインの試飲会、ブランド新作発表会。

 全然ワクワクしない。ときめかない。

 今までそんなことはなかっただけに、涼子はどうしたものかと頬に手を当てる。画面をスクロールしながら、涼子は最近の自分について考えた。

 涼子は出かけることが好きだ。そのためにどんなにお金がかかろうと特に気にしたことはない。だが遥と出会ってから、涼子は自然と家にいる時間が増えた。壁書村に出発する前も遥の持ち物リストを作り、青池の紹介とはいえ敢えて玻璃村の旅館ではなく工房兼民宿を選んだのは、そちらの方が遥の好みだと思ったからだ。

 不老不死から始まった壁書村での出会い、ひとつずつ解けていく謎。もうこの『事件』を解決するのに涼子は夢中だった。
 
「こんなところにいたんですか」
 
 振り返ると、そこには遥。
 
「あら。お友達との談笑はお済みで?」
「何へそ曲げてんですか」
 
 涼子は心にもない態度をとってしまう自分に後悔するが、もう止まらない。
 
「だって、あたしのことなんて居ないみたいにするもんだから」
「はいはい、拗ねないでくださいよ。これあげますから」
 
 そう言って、遥は涼子の手のひらに何かを置いた。
 
「匠さんの所で買ったんです。なんか涼子さんっぽいなって思って」
 
 見ると、それはうさぎをモチーフにした夕日のように濃いオレンジ色の硝子細工だった。
 
「これが、あたしに似てるの?」
「まあ」
「どの辺があたしなの?」
「ああもう、細かいことはいいでしょう」
 
 涼子はガラスを見てまだ何かブツブツ言っていたが、その満足そうな表情を横目に遥は静かに笑った。
 
佐竹さたけクリニック。行けば何かわかりますかね」
「清さんから聞いたのは『佐竹診療所さたけしんりょうしょ』だったけれど、名前が変わったみたいね」
 
 佐竹クリニック。医院長の名は佐竹篤宏さたけあつひろ、現在二十七歳。ホームページを確認すると、一九八四年八月に父親である佐竹春彦さたけはるひこが開業したが、今から一年ほど前に代替わりをして息子の篤宏が継いでいるとのこと。それ以前の情報は載ってはいなかった。

 この診療所もたくみの工房と同じく、健司の火事の後すぐに壁書村から本島に移っている。
 
 清八からの情報で、壁書村に唯一あった診療所の医者は佐竹充さたけみつるだと分かった。充は正和と親しくしていたといい、火事の際の処理に携わったのもおそらく充だろうと言っていた。
 
「引っ掛かるのは火事の件だけじゃありません。清八さんたちの不老不死は、元々あった呪いの話に尾ひれをつけた程度。この呪いは最初に痣を持って生まれた男の子、栄介くんの死によって始まりました。ですが、壁張蔵で洋平さんが読み取ったのは『八歳になると痣は備わった治癒力とともに消える』それだけです。そもそも呪いはないのですから、栄介くんの死自体がおかしいことになる。両親やリンちゃん、田中晶子たなかあきこという女性。こんなに人が亡くなったのには必ず裏があるはずなんです」
「栄介くんの死の時に駆けつけた医者も佐竹充。佐竹クリニックの先代の医院長で、春彦さんのお父様だったわよね」
「はい。クリニックに行ってその当時の話が聞けたらいいんですけど……難しい、ですかね」
 
 どう切り出そうかと迷っていると、遥のスマートフォンが鳴った。
 
「はい」
「ああ、やっと繋がった。先輩今どこですか?」
 
 昨日、奈々の誕生日が書かれたメッセージを確認した後でまた翔太に電話をかけ直し、雲島での出来事を一通り説明した。

 松永邸の家政婦である初枝が佳奈の母親だと聞いて翔太は驚いていた。佳奈の方は奈々の習い事での外出が大半で、蔵田にも特に動きはないという。
 
「まだフェリーの上、もう少しで着くよ。それより白群びゃくぐんの伝説の件、アンクやカエルレアの花ってキーワードについて、何か分かれば助かるかも」
「了解です。これから調べるんで、何かわかったら連絡しますね。あ、今日スマホ充電し忘れちゃって、もしかしたら電源が切れちゃうかもしれないっす。すいません」
 
 今日はクリーニング屋のアルバイトは休みだと翔太は言った。

 ここ数日、バイトやその後の佳奈の見張りで翔太にはほとんど休みがなかった。たまには休むようにと遥は言ったが、翔太が何かできることをしたいと言うので調べ物をお願いしていた。

 電話を切った後、涼子が遥に言う。
 
「白井くんって遥のことが好きなのかしら。遥にその気があるならあたし、手を引くわよ」
 
 涼子のこの手の話は面倒だ。だが同時に、翔太について今まで考えたこともなかったなと遥は思う。
 
 初めてクリーニング屋にバイトに来た日、翔太はあの軽い調子で『名前で呼んでください』と挨拶した。人柄は良いが仕事面はポンコツ。アイロンは下手だし道は間違えるし、涼子が代名詞だと言った甘い香水の匂いも、正直最初は苦手だった。
 
(いつからあんなに仲良くなったんだっけな)
 
 遥は記憶を巡らせるが、どこか靄がかって……あまりよく思い出せなかった。
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