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第二部
黄泉
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朝露に 映射煌めく 藤波の
水面を揺らす 鯉模様かな
意識をとり戻した遥が最初に見たものは、天だった。散り散りに浮かぶ雲。パールみたいに輝く太陽。果たして認識しているものがそれらかは自信がなかったが、自分の知識の引き出しから表現するにはそれが一番妥当だと遥は考えていた。
(身体は……揺れている。いや、流されている。着衣は最後に着ていたものと同じ、白の作務衣。水のせせらぐ音が聞こえる辺り、ここは川の中。だが身体が濡れているような感覚はない)
淡々と。状況を把握するために思考を動かす。
(涼子さんはどこだろう。あの煙、窒息感。おそらく、私と涼子さんは死んだ。とすれば、ここは死後の世界。黄泉? 冥界? こんなとっぴな形で訪れることになるなんて。翔太は私たちの状況を、どこまで知っているだろうか)
脳裏に浮かんだ翔太のカラッとした笑顔に、思わず口元が緩んだ。
(これで良かったのかもしれない。私が死ねば、賭けはイシスの勝ち。オシリスがマウトから解放されれば、アンクもマウトの手綱を握りやすくなる。これで全て丸く収まったんだ。元々、私は存在自体が異種だった。そうでしょう? お母さん)
母の顔貌が脳裏に浮かびかけた、その時。遥の目の端に黒い影が横切った。
「は、ハル様!? ようやくお帰りに! ですが何故そんなところでお戯れを? もうすぐナミ様が御所にいらっしゃいます、ご挨拶の準備をなさいませんと」
「ナミ……様」
「近頃、妖の森の統治が杜撰になっておりまする。森の権力者であった妖蜘蛛が消えて数千年、新たな精霊の誕生がありません。本日はその件について話し合いをと……いや、それよりもまずは、お帰りをご報告なされるのが先か」
男は、流される遥を川縁を歩きながら懸命に追いかける。
「とにかく、今すぐそこから出ませんと。このまま流されるままに居りますと、狐横丁に真っ逆さま。いくらハル様とて、なかなかに面倒なことになりまする」
男の言葉を聞きつつ、遥は自身の手先足先に力を込めると、くいっと指が動いた。
身体は動く。遥は仰向けからうつ伏せへと身体をひっくり返すと、男の待つ川縁へ向かって水を掻いた。
遥が側までくれば、男は手を差し伸べ遥を川から引き上げる。彼がいなければ、遥はこの川から這い出ることは叶わなかっただろう。
「すみませんが、少々頭を打ったようで。あなたの名前、なんでしたっけ」
「なんと頭を! 私の名は玉明。月夜見尊様の側役にございます。ずっとハル様の帰りをお待ちしておりました」
「月夜見尊……」
遥は自分がハルという別人に誤認されている状況を好機と受け入れた。
(月夜見尊の名前が出た以上、ここは黄泉の国。そして側役である玉明が私に敬語を使うあたり、ハルという人間は相当に位が高いはず。うまくいけば、もう一度現世に戻る方法が見つかるかも)
そこまで考えて、遥はふと我に返る。
執着。生きることに対して、自分がここまでの思いを抱えていたことに遥は心底驚いたのだ。
遥は自分の人生に、他人ほどの価値を見出せずにいた。守りたいものも大切にしたいものも特別なく生きてきた。四年前、アクビスの里でマウトから知らされた自分の出生の秘密。道理で自分には感情の機微が抜け落ちているわけだと、遥は妙に納得していた。
“悲しみの隣には、いつも愛がある”
これは写真家である遥の母の口癖。遥の母は、この言葉を旅先で出会った少女から学んだという。
ずっと分からなかったこの言葉の意味に、今なら気づけそうな気がして。遥は消えかけた母の顔を、今度ははっきりとその脳裏に思い浮かべた。
揺れる、両耳のピアス。
「——さま、ハル様?」
玉明の呼びかけで、遥は現状に引き戻される。
「あ、えっと、ナミ様の御所に行くって?」
「左様にございます。ですが急なことですし、体調が優れなければ本日は欠席になる旨、私からナミ様にお伝え致しましょうか?」
「いや、問題ありません。案内して頂けますか」
「そんな、ご丁寧に……言葉遣いや妙な御召し物。やはり頭を強く打たれた影響で記憶が混濁しているのですね」
「へ? あ、ああ。そう……だと思……う」
「お気になさらぬよう。ナミ様に願えば、直ぐに頭中は晴れまする」
憐れむような玉明の目を直視できぬまま。遥は立ち上がると、己の服を整えた。
遥はハルを知らない。だがとりあえず、敬語を使うのはやめにするのが穏当だろうと、その後は言葉遣いを改めたのだった。
水面を揺らす 鯉模様かな
意識をとり戻した遥が最初に見たものは、天だった。散り散りに浮かぶ雲。パールみたいに輝く太陽。果たして認識しているものがそれらかは自信がなかったが、自分の知識の引き出しから表現するにはそれが一番妥当だと遥は考えていた。
(身体は……揺れている。いや、流されている。着衣は最後に着ていたものと同じ、白の作務衣。水のせせらぐ音が聞こえる辺り、ここは川の中。だが身体が濡れているような感覚はない)
淡々と。状況を把握するために思考を動かす。
(涼子さんはどこだろう。あの煙、窒息感。おそらく、私と涼子さんは死んだ。とすれば、ここは死後の世界。黄泉? 冥界? こんなとっぴな形で訪れることになるなんて。翔太は私たちの状況を、どこまで知っているだろうか)
脳裏に浮かんだ翔太のカラッとした笑顔に、思わず口元が緩んだ。
(これで良かったのかもしれない。私が死ねば、賭けはイシスの勝ち。オシリスがマウトから解放されれば、アンクもマウトの手綱を握りやすくなる。これで全て丸く収まったんだ。元々、私は存在自体が異種だった。そうでしょう? お母さん)
母の顔貌が脳裏に浮かびかけた、その時。遥の目の端に黒い影が横切った。
「は、ハル様!? ようやくお帰りに! ですが何故そんなところでお戯れを? もうすぐナミ様が御所にいらっしゃいます、ご挨拶の準備をなさいませんと」
「ナミ……様」
「近頃、妖の森の統治が杜撰になっておりまする。森の権力者であった妖蜘蛛が消えて数千年、新たな精霊の誕生がありません。本日はその件について話し合いをと……いや、それよりもまずは、お帰りをご報告なされるのが先か」
男は、流される遥を川縁を歩きながら懸命に追いかける。
「とにかく、今すぐそこから出ませんと。このまま流されるままに居りますと、狐横丁に真っ逆さま。いくらハル様とて、なかなかに面倒なことになりまする」
男の言葉を聞きつつ、遥は自身の手先足先に力を込めると、くいっと指が動いた。
身体は動く。遥は仰向けからうつ伏せへと身体をひっくり返すと、男の待つ川縁へ向かって水を掻いた。
遥が側までくれば、男は手を差し伸べ遥を川から引き上げる。彼がいなければ、遥はこの川から這い出ることは叶わなかっただろう。
「すみませんが、少々頭を打ったようで。あなたの名前、なんでしたっけ」
「なんと頭を! 私の名は玉明。月夜見尊様の側役にございます。ずっとハル様の帰りをお待ちしておりました」
「月夜見尊……」
遥は自分がハルという別人に誤認されている状況を好機と受け入れた。
(月夜見尊の名前が出た以上、ここは黄泉の国。そして側役である玉明が私に敬語を使うあたり、ハルという人間は相当に位が高いはず。うまくいけば、もう一度現世に戻る方法が見つかるかも)
そこまで考えて、遥はふと我に返る。
執着。生きることに対して、自分がここまでの思いを抱えていたことに遥は心底驚いたのだ。
遥は自分の人生に、他人ほどの価値を見出せずにいた。守りたいものも大切にしたいものも特別なく生きてきた。四年前、アクビスの里でマウトから知らされた自分の出生の秘密。道理で自分には感情の機微が抜け落ちているわけだと、遥は妙に納得していた。
“悲しみの隣には、いつも愛がある”
これは写真家である遥の母の口癖。遥の母は、この言葉を旅先で出会った少女から学んだという。
ずっと分からなかったこの言葉の意味に、今なら気づけそうな気がして。遥は消えかけた母の顔を、今度ははっきりとその脳裏に思い浮かべた。
揺れる、両耳のピアス。
「——さま、ハル様?」
玉明の呼びかけで、遥は現状に引き戻される。
「あ、えっと、ナミ様の御所に行くって?」
「左様にございます。ですが急なことですし、体調が優れなければ本日は欠席になる旨、私からナミ様にお伝え致しましょうか?」
「いや、問題ありません。案内して頂けますか」
「そんな、ご丁寧に……言葉遣いや妙な御召し物。やはり頭を強く打たれた影響で記憶が混濁しているのですね」
「へ? あ、ああ。そう……だと思……う」
「お気になさらぬよう。ナミ様に願えば、直ぐに頭中は晴れまする」
憐れむような玉明の目を直視できぬまま。遥は立ち上がると、己の服を整えた。
遥はハルを知らない。だがとりあえず、敬語を使うのはやめにするのが穏当だろうと、その後は言葉遣いを改めたのだった。
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