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ある日、ある蕎麦屋にて
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立ち食い蕎麦は庶民の味である。庶民とは言っても、主にサラリーマン、しかも殆どは男なのだが。
まあ、無理もない。狭い店内に男がひしめき合って蕎麦をすすっているのである。その状況に女性が割り込むのはなかなか難しい。
このカウンターにしても奥行きが三十センチぐらいしかない。しかも七味や箸入れが置いてある。実際はもっと狭い。
隣の席との間隔だって狭い。昼時ともなれば、ギュウギュウになることもある。
俺は男なので、全く気にしない。それよりも蕎麦が食いたい気持ちが勝る。例えばこの春菊天そば。実に良い。
俺は目の前の蕎麦をすすった。
春菊天のパリパリとした食感。少しの苦味。衣は甘く、塩辛いつゆと交わると何とも旨い。
器の湯気の立ち上る中、俺は一心不乱に蕎麦をすすった。美味い。
「ごちそうさま」
「ありがとうございましたー」
いつものように器を下げ、俺は満足な気分で店を出た。
◇
ある日の昼時、俺はいつものように蕎麦を求めていた。しかし、その日は用事で見知らぬ場所に来ていた。まるで土地勘が無い。
駅前に行けば蕎麦屋はあるだろうと踏んで、しばらく駅前を右往左往していたが、見つからなかった。俺は途方に暮れた。
いっそ今日は蕎麦以外にしようか。うどんのチェーン店ならあるのを見かけた。あそこでいいじゃないか。そう思いながらトボトボと歩いていた。
ふと、小路から出汁の香るいい匂いがしてきた。醤油の香りなので、和風の店なのは間違いがない。俺の足はいつの間にかその小路の中へと進んだ。
店があった。看板に、うねった文字で蕎麦と書いてある。
中はすりガラスで見えず、店内の様子は分からない。
店構えから見るに、立ち食いでは無さそうだが、蕎麦ならこの際構わない。値段は高いかもしれないが、今の俺は蕎麦が食いたいんだ。
入ろうか。でも値段がバカ高かったらどうしようか。しかし周囲を見回しても他に店はあまり見当たらないし、住宅地の小路だし、破格と言うことはあるまい。
そう思って、意を決して引き戸を開いた。
「いらっしゃい」
そう声をかけられた。
「お一人様で?」
「ええ」
「空いてますんで、お好きな席へどうぞ」
見回すと、テーブル席が6席ぐらい。カウンターもある。小綺麗な店だ。俺は角のテーブル席へ着いた。
「メニューはこちらになります」
「どうも」
メニューを開いた。……何のことはない。せいぜい千円台だ。普通だ。
俺はホッとし、品定めを始めた。
「決まりましたら、お声をかけて下さい」
店主はそう言うと、厨房へと消えて行った。
さて、何にしようか。いつもの立ち食い蕎麦屋とは違う、それなりに本格的な蕎麦屋だ。ここはいっちょ、高いやつにしようか。
俺はそう思い、メニューのページをめくった。
「チョコ……」
そんな文字が目に入った。デザートかな?
「アイス……」
そんな文字も目に入った。……おかしいな。いや、デザートならあってもおかしくは無いが。
「……チョコレート天……」
おかしいな。寝ぼけているのかな俺は。しかし、それは夢でも幻でも無かった。チョコレート天そば。そう書いてある。アイスもアイス天だった。
「……」
他にもクッキー天、ナポリタン天、饅頭天などがあった。
「お決まりですか?」
気がつくと店主が傍らに立っていた。
「あの……けっこう変わったメニューがありますね。他ではあまり見ない」
「そうでしょう!良く言われるんですよ」
やけに嬉しそうだ。
「この……チョコレート天と言うのは……チョコを揚げたやつですか?」
「ええ!」
目眩がした。どうしてくれようか。いや、ここはいっそ頼んでみると言うのも一興……いやいや。
「も、もう少し選びたいので!」
「分かりました!」
店主はまた厨房へと消えて行った。
「……」
困ったぞ。
メニューをめくる。普通のメニューを探す。パラハとめくると、海老天、春菊天があった。うん、普通だ。
「あの……」
手を上げて、店主に春菊天を頼もうと思ったその瞬間、壁に貼ってあった「おすすめ!チョコレート天」の文字が目に入った。思わず手を下ろした。
どうしようか……もしかして美味いんだろうか?これはチャンスなのか?もしかして甘くないチョコレートとか。春菊天もどちらかと言うと苦味が入っているから、同じ苦味の原理で美味いのかもしれない。そう思った。
丁度よく傍らを通りかかった店主に聞いてみた。
「あの……このチョコレート天と言うのは……」
「おお、お客さんお目が高い。それおすすめですよ!」
……聞きにくい。が、聞かねばならぬ。
「その……チョコと言うのはカカオと言うことで?」
「……ええ、まあそうですね」
「カカオを使った特殊な天ぷらと言う事ですか?」
「特殊……いえ、普通の板チョコですけれど」
「……お店で売ってる?」
「ええ、買ってますね」
「甘い?」
「いちおうブラックを選んでいますが。あ、ミルクチョコレートも何なら出来ますよ?」
「……あ、もう少し考えます」
「そうですか。何か聞きたいことがあったら、遠慮なく聞いてくださいね」
そう言うと、店主は店の外へと消えて行った。掃除だろうか。まあそれはいい。
さて、困ったぞ。聞きたいことは、「何ですかコレ?」なのだが、流石にそれは聞けない。ここはいっそチョコレート天の事は忘れて、正統派の春菊天とかにしよう。
そう考えた瞬間、店の外で声がした。
「あ、いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
「うむ、世話になる」
誰か来たようだ。
入口の戸を開けて入って来たのは、恰幅のいい和服の男だった。見るからに美食家と言う感じがした。男は俺から遠い席へ座ると、店主を呼んだ。
「あれをくれ。いつものやつを」
「かしこまりました」
店主はいそいそと厨房へ入って行った。しばらく蕎麦を煮る音や揚げ物を揚げる音がした後、店主が蕎麦を持って出て来た。
「どうぞ」
「うむ」
男は蕎麦をズゾゾとすすり、乗っかっていた天ぷらをハフハフと熱そうにほうばると、汁まで飲んで満足そうに一息ついた。
「お茶です」
「うむ」
男は食後のお茶を飲むと勘定をして立ち去った。実に美味そうだった。
「あの……!」
「はい」
「今のお客さん、常連さんですか?」
「ええ、贔屓にして頂いております」
「……あの!何を注文されました?」
「チョコレート天そばですね。特製のミルクチョコレートのやつです」
俺は考えた。ここは一発勝負に出るしか!
そして俺は特製チョコレート天蕎麦を注文し、食べた。
(まずい……)
俺は心で泣いた。八百八十円だった。
まあ、無理もない。狭い店内に男がひしめき合って蕎麦をすすっているのである。その状況に女性が割り込むのはなかなか難しい。
このカウンターにしても奥行きが三十センチぐらいしかない。しかも七味や箸入れが置いてある。実際はもっと狭い。
隣の席との間隔だって狭い。昼時ともなれば、ギュウギュウになることもある。
俺は男なので、全く気にしない。それよりも蕎麦が食いたい気持ちが勝る。例えばこの春菊天そば。実に良い。
俺は目の前の蕎麦をすすった。
春菊天のパリパリとした食感。少しの苦味。衣は甘く、塩辛いつゆと交わると何とも旨い。
器の湯気の立ち上る中、俺は一心不乱に蕎麦をすすった。美味い。
「ごちそうさま」
「ありがとうございましたー」
いつものように器を下げ、俺は満足な気分で店を出た。
◇
ある日の昼時、俺はいつものように蕎麦を求めていた。しかし、その日は用事で見知らぬ場所に来ていた。まるで土地勘が無い。
駅前に行けば蕎麦屋はあるだろうと踏んで、しばらく駅前を右往左往していたが、見つからなかった。俺は途方に暮れた。
いっそ今日は蕎麦以外にしようか。うどんのチェーン店ならあるのを見かけた。あそこでいいじゃないか。そう思いながらトボトボと歩いていた。
ふと、小路から出汁の香るいい匂いがしてきた。醤油の香りなので、和風の店なのは間違いがない。俺の足はいつの間にかその小路の中へと進んだ。
店があった。看板に、うねった文字で蕎麦と書いてある。
中はすりガラスで見えず、店内の様子は分からない。
店構えから見るに、立ち食いでは無さそうだが、蕎麦ならこの際構わない。値段は高いかもしれないが、今の俺は蕎麦が食いたいんだ。
入ろうか。でも値段がバカ高かったらどうしようか。しかし周囲を見回しても他に店はあまり見当たらないし、住宅地の小路だし、破格と言うことはあるまい。
そう思って、意を決して引き戸を開いた。
「いらっしゃい」
そう声をかけられた。
「お一人様で?」
「ええ」
「空いてますんで、お好きな席へどうぞ」
見回すと、テーブル席が6席ぐらい。カウンターもある。小綺麗な店だ。俺は角のテーブル席へ着いた。
「メニューはこちらになります」
「どうも」
メニューを開いた。……何のことはない。せいぜい千円台だ。普通だ。
俺はホッとし、品定めを始めた。
「決まりましたら、お声をかけて下さい」
店主はそう言うと、厨房へと消えて行った。
さて、何にしようか。いつもの立ち食い蕎麦屋とは違う、それなりに本格的な蕎麦屋だ。ここはいっちょ、高いやつにしようか。
俺はそう思い、メニューのページをめくった。
「チョコ……」
そんな文字が目に入った。デザートかな?
「アイス……」
そんな文字も目に入った。……おかしいな。いや、デザートならあってもおかしくは無いが。
「……チョコレート天……」
おかしいな。寝ぼけているのかな俺は。しかし、それは夢でも幻でも無かった。チョコレート天そば。そう書いてある。アイスもアイス天だった。
「……」
他にもクッキー天、ナポリタン天、饅頭天などがあった。
「お決まりですか?」
気がつくと店主が傍らに立っていた。
「あの……けっこう変わったメニューがありますね。他ではあまり見ない」
「そうでしょう!良く言われるんですよ」
やけに嬉しそうだ。
「この……チョコレート天と言うのは……チョコを揚げたやつですか?」
「ええ!」
目眩がした。どうしてくれようか。いや、ここはいっそ頼んでみると言うのも一興……いやいや。
「も、もう少し選びたいので!」
「分かりました!」
店主はまた厨房へと消えて行った。
「……」
困ったぞ。
メニューをめくる。普通のメニューを探す。パラハとめくると、海老天、春菊天があった。うん、普通だ。
「あの……」
手を上げて、店主に春菊天を頼もうと思ったその瞬間、壁に貼ってあった「おすすめ!チョコレート天」の文字が目に入った。思わず手を下ろした。
どうしようか……もしかして美味いんだろうか?これはチャンスなのか?もしかして甘くないチョコレートとか。春菊天もどちらかと言うと苦味が入っているから、同じ苦味の原理で美味いのかもしれない。そう思った。
丁度よく傍らを通りかかった店主に聞いてみた。
「あの……このチョコレート天と言うのは……」
「おお、お客さんお目が高い。それおすすめですよ!」
……聞きにくい。が、聞かねばならぬ。
「その……チョコと言うのはカカオと言うことで?」
「……ええ、まあそうですね」
「カカオを使った特殊な天ぷらと言う事ですか?」
「特殊……いえ、普通の板チョコですけれど」
「……お店で売ってる?」
「ええ、買ってますね」
「甘い?」
「いちおうブラックを選んでいますが。あ、ミルクチョコレートも何なら出来ますよ?」
「……あ、もう少し考えます」
「そうですか。何か聞きたいことがあったら、遠慮なく聞いてくださいね」
そう言うと、店主は店の外へと消えて行った。掃除だろうか。まあそれはいい。
さて、困ったぞ。聞きたいことは、「何ですかコレ?」なのだが、流石にそれは聞けない。ここはいっそチョコレート天の事は忘れて、正統派の春菊天とかにしよう。
そう考えた瞬間、店の外で声がした。
「あ、いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
「うむ、世話になる」
誰か来たようだ。
入口の戸を開けて入って来たのは、恰幅のいい和服の男だった。見るからに美食家と言う感じがした。男は俺から遠い席へ座ると、店主を呼んだ。
「あれをくれ。いつものやつを」
「かしこまりました」
店主はいそいそと厨房へ入って行った。しばらく蕎麦を煮る音や揚げ物を揚げる音がした後、店主が蕎麦を持って出て来た。
「どうぞ」
「うむ」
男は蕎麦をズゾゾとすすり、乗っかっていた天ぷらをハフハフと熱そうにほうばると、汁まで飲んで満足そうに一息ついた。
「お茶です」
「うむ」
男は食後のお茶を飲むと勘定をして立ち去った。実に美味そうだった。
「あの……!」
「はい」
「今のお客さん、常連さんですか?」
「ええ、贔屓にして頂いております」
「……あの!何を注文されました?」
「チョコレート天そばですね。特製のミルクチョコレートのやつです」
俺は考えた。ここは一発勝負に出るしか!
そして俺は特製チョコレート天蕎麦を注文し、食べた。
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