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帰宅

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 ナタンたちを乗せた車両は、やがて、エトワール家宅の前に到着した。
 実家の屋敷が変わらずに建っている様を見て、ナタンは、何とはなしに安堵した。
 しかし、その中には両親が待ち構えているのだと思うと、彼は少し気分が重くなった。
「ささ、どうぞ、ご両親に、お顔を見せて差し上げてください」
 執事のジャンが玄関の扉を開けた。
 玄関ホールには、ナタンの父ヴァンと、母のイルマが硬い表情で立っている。
 ナタンと同じ、ヴァンの燃えるような赤い頭髪には、白いものが増えているように見えた。
 年齢の割に若々しく美しいイルマも、どこか疲れた雰囲気を感じさせる。
「やっと帰ったか。待ちきれなくて、ここで待機していたんだ」
 ナタンの顔を見たヴァンの表情が緩んだ。
「た、ただいま……」
 両親の顔を見て何も言えなくなったナタンは、ゆっくりと二人に歩み寄った。
「……少し、背が伸びたわね」
 イルマが、そう言って目頭を押さえた。
 と、ナタンは鼻先を捻じられるような痛みに、思わず声をあげた。
 ヴァンが、指先でナタンの鼻を思い切り摘まみ上げたのだ。
「たしかに、私も勢いで勘当すると言ってしまったが、本気にする者があるか!」
 涙声で言う父の顔を見て、ナタンも目の奥が熱くなるのを感じた。
 外の世界では優れた政治家として尊敬されているヴァンも、ここでは息子を心配する一人の父親に過ぎないのだ。
「ご、ごめんなさい……心配かけて、ごめんなさい……!」
 ナタンも、ぽろぽろと涙をこぼしかけたが、傍らに立っているリリエの驚いた顔を見て、慌てて言った。
「あ、あの、彼女を紹介したいんだけど……!」
「あら、やかましくて、ごめんなさいね」
 母のイルマが、リリエに微笑みかけた。
「我が家は、いつも、こんな感じなのよ。さ、こんなところで立ち話では落ち着かないし、居間に行きましょう」
 イルマに促され、一同は居間へと移動した。
「ナタンさん、ひとつ聞いていいですか?」
 歩きながら、リリエがナタンに囁きかけてきた。
「ナタンさんのお父様も、『戦士型の異能』なんでしょうか?」
「いや、家族で『戦士型の異能』は俺だけだよ」
「そうなんですね。鼻を摘ままれた時、ナタンさんが避けられなかったのを見て、てっきり、お父様も『異能』かと思ったのですが」
「子供の頃から、ああやって怒られてたんだけど、たぶん、俺が父さんを全く警戒していないからだと思うよ」
 ナタンが答えると、リリエは、何か納得した様子で微笑んだ。
 居間に入ったナタンは、リリエと並んで長椅子ソファに腰掛けた。
 卓子ローテーブルを挟んで向かい合ったヴァンとイルマを前に、リリエが緊張しているのを、ナタンは感じ取った。
「聞きたいことは山ほどあるが、今まで、どうしていたんだ? まさか、リリエさんと言ったか、そのお嬢さんに養ってもらっていたのか?」
 ヴァンが、ナタンの目を見据えて言った。
「あ、当たらずとも遠からず……かな」
 ナタンは頭を掻きながら、家を出た後、「無法の街ロウレス」でリリエの護衛をしていたこと、そして、彼女と将来を共にしたいと思っていることを説明した。
 母のイルマは、リリエの経歴に興味を持った様子だった。
「リリエさんは、魔法技術の研究者なのね。その若さで、素晴らしいわ。私も、現場を離れてずいぶん経つけど、以前は魔法管理省で働いていたのよ。『帝国時代の魔導絡繰まどうからくり』の話、是非聞かせてもらえるかしら」
「は、はい、私で分かることなら……」
 ナタンの両親を前に緊張していたリリエだったが、イルマから魔法に関する話題を振られた途端、生き生きと話し始めた。
 あっという間に専門家でなければ理解できない領域へと向かっていく二人の会話に、ナタンはヴァンと共に、少しの間、呆気に取られていた。
「……イルマと対等以上に話せるだけで、リリエさんが優秀な子というのは分かるな」
「そうだろ? リリエは、すごいんだ」
 ヴァンの言葉に、ナタンは力強く頷いた。
「……それで、父さんに頼みがあるんだ。俺、やりたいことがあって、その為には色々なことを勉強しなけりゃならないって気付いた……くやしいけど、父さんたちが言った通りだよ。大学で、政治や経済を学びたいから、学費を貸して欲しいのと、その間、家に置いて欲しい。学費も生活費も、後で返済するから……」
 ナタンは、父に向かって頭を下げた。誰の力を借りずとも生きていけると思っていた頃の自分は本当に愚かで、つまらない見栄を張っていたのだと、彼は身に沁みて感じていた。
「ふん、何を言うかと思えば……学費を貸して家に住まわせろだと?」
 肩を竦めるヴァンを見て、ナタンは思わず身を縮めた。
「私にだって、それくらいの甲斐性はある。子供が勉強したいと言うなら、させてやるのが親の務めだ。つまらん心配なんぞしないで、さっさと手続きをするんだな」
 何を言われるのかと緊張していたナタンは、思わず脱力した。
「ナタンが大学に行っている間、リリエさんは、どうするつもり?」
 イルマが口を挟んできた。
「私は……論文を書いたり、魔法技術の研究を続けたいと思っています。普通に生活するだけなら、問題ないくらいの収入はあるので……」
 リリエによれば、親類から相続した遺産は、銀行預金以外にも、賃貸物件や大企業の株などがあり、賃料と配当金だけでも十分に生活できるとのことだった。
「いずれ結婚するつもりなら、うちに住んだらどうかしら。私の伝手つてで、魔法大学の研究室が使える仕事も紹介できるし。ねぇ、いいでしょう、あなた」
 目を輝かせながら、イルマが言った。どうやら、リリエと話しているうちに、彼女を気に入ったようだ。
「私としても別に構わないが、本人たちは、どうなんだ?」
「そうだったら、俺も嬉しいけど……リリエは、研究をするならモントリヒトに戻りたいとかじゃないかな?」
 ヴァンに問われ、ナタンはリリエを見た。
「ゆ、許していただけるなら、私も、こちらでお世話になりたいと思います。もちろん、生活費は払います……!」
 リリエが、耳まで赤くなりながら何度も頷いた。
「じゃあ、決まりね。私、女の子も欲しかったから、こんな可愛い娘ができるなんて、幸せよ」
「少し、落ち着きなさい。あまり構い過ぎるとリリエさんも却って気を遣うだろうし、程々にするんだぞ。――ああ、生活費なんて気にしなくていいから、何か困ったことがあれば、遠慮なく言いなさい」
 すっかり上機嫌になった両親の様子に、ナタンは安堵した。
「ナタンさんのご両親が優しい方たちで、安心しました」
 ほっと息をついているリリエの肩に、ナタンは、そっと腕を回した。

 大学入学資格を既に取得していたナタンは、大学に入学し、自分が興そうとしている事業に必要な知識を学び始めた。リリエとは、大学を卒業した後に婚姻の手続きをすることになっている。
 リリエは、ナタンの母イルマの伝手で魔法大学の助手の肩書を得て、研究室を自由に使えることになった。
 本当は、講師にという話もあったらしいが、本人が人前で話すのが苦手という理由で断ったのだという。
 勉学や研究に、それぞれが忙しい日々を送るうち、月日は矢の如く過ぎ去っていった。
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