上 下
33 / 116

位高ければ徳高きを要す

しおりを挟む
 再び歩き出したフェリクスたちの背後で、女の悲鳴が上がった。
 彼らが振り向いた先では、小さな子供を抱きかかえた、母親らしき女が半狂乱になってわめいている。
 どうやら、食料を奪い合う大人たちの揉み合いに巻き込まれた子供が、弾みで突き飛ばされたようだ。運悪く地面に突き出ていた石に、額を打ちつけてしまったらしい。
 母親の腕の中で、わぁわぁと泣く子供の額には大きな傷が開いており、かなり出血している。
「そのガキが、勝手に転んだんだろ!俺は知らねぇ!」
 食料を奪い合っていた者のうち、数人が、あたふたと走り去った。
「だ、誰か……助けて……!」
 母親の悲痛な声に、周囲にいる者たちも右往左往するばかりだった。
 薬も医療器具も無い状況下で、できることなど無きに等しいのだ。
 その様子を見たセレスティアが、きつく目を瞑り、何かをこらえるような表情をしているのに、フェリクスは気付いた。
 血を見て気分が悪くなったのだろうか――と、フェリクスが声をかけるより先に、セレスティアが、小走りで母子おやこの元へ向かった。
 フェリクスとアーブルも、慌てて彼女の後を追う。
 止血しようとしているのだろう、手のひらで子供の額の傷を押さえている母親に、セレスティアが声をかけた。
「私に、任せてください」
 彼女は、母子おやこの傍にひざまずくと、子供の額に右手をかざし、精神を集中するかのように、目を閉じた。
「な、何をするんだい?!」
 母親は、一瞬警戒する素振りを見せたが、セレスティアの右手が淡い光を放ち始めたのを目にして、言葉を失った。
 子供の額に、ぱっくりと開いていた筈の傷が、見る間に塞がっていく。
 フェリクスとアーブルは、セレスティアの予想だにしなかった行動を前に、ただ立ち尽くしていた。
「……いたく、ないよ?」
 母親の腕の中で、子供が不思議そうに呟いた。
 傷は、跡形も無く治っている。
「あ、ありがとうございます……!」
 母親は子供を抱いたまま、涙を流しながら、セレスティアに何度も頭を下げた。
 いつの間にか、周囲に人だかりができていた。
異能いのうか……」
異能いのう……癒しの力の……」
 人々は、セレスティアを見て、ざわついている。
「あの……」
 人だかりの中から、一組の若い男女が進み出てきた。
 男の方は、女に支えられながら、よろよろと歩いている。片方の脚に添え木が括りつけられているところから、骨折しているであろうことが見て取れた。
「この人の脚も、治せますか? 私たちの街が帝国軍に攻撃された時に……」
 女が、セレスティアを縋るような目で見た。
「分かりました。では、そこに座ってください」
 言って、セレスティアは、男を地面に座らせた。
「うちの子も……」
「母ちゃんの火傷やけどが、何日も治らなくてよぅ……」
 その様子を見ていた人々の中から、更に、傷の治療を望む者たちが現れ始める。
「セレスティア、大丈夫なのか?」
 フェリクスは、ようやくセレスティアに声をかけた。
「心配ありません。治療を望む方たちを、私の周りに集めてもらえますか」
 セレスティアの指示に従って、フェリクスとアーブルは、治療を望む怪我人たちを彼女の周囲に運んだ。
 怪我人たちの中心に立ったセレスティアは、祈るように胸の前で両手を組み合わせ、目を閉じた。
 やがて、彼女の全身が淡く輝きだす。すると、周囲の怪我人たちから、驚きの声が上がり始めた。
「傷が……治っていくぞ?!」
「あぁ……あんなに痛かったのに……嘘みたいだ」
 セレスティアの傍にいるフェリクスも、彼女の「力」を感じた。
 それは、何か暖かく柔らかなもので包まれているかのような、心地良い感覚だった。
 やがて、治療が一段落つき、回復した怪我人たちが、それぞれの家族の元に戻っていく。
 子連れの男が、セレスティアに近付いてきた。
「息子を助けてくれた礼だ……受け取ってくれ」
 男が差し出したのは、繊細な細工の施された首飾りだった。
 素人目にも、結構な価値があるものに見える。
「これしか、渡せるものがねぇんだ。もう、身につけてくれる奴もいないしな」
「お気持ちだけで十分です」
 セレスティアが、優しく微笑んで言った。
「それは、あなたの大切な方のものではありませんか?どうか、大事にお持ちください」
 彼女の言葉に、男は目頭を押さえながら、子供の手を引いて去っていった。
しおりを挟む

処理中です...