仮面の戦士 ホーン

忍 嶺胤

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一章 ソーラーホーン

2.記憶の湖(うみ)

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 疾走している。
 軽いジョギングと呼べるレベルの走りとはまるでかけ離れた足は、路面を、大地を力強く蹴って、前方へ細い躯体を押し出し、着地した反対の足を軸に再び前方へ跳躍する。
 空気という纏い付く幕布を振り払うかのように両腕を振り、疾駆を続ける。
 冬の冷たい空気が一度に大量に肺に入ってくるのが痛い。
 大きな池に寄り添う自然林を公共施設として利用すべく整備した、周辺住民に三角公園の名で呼ばれる公園は、遊具等は一切設置せず、最小限のベンチや水飲み場があるだけで、花が咲き、鳥が鳴く、ランニング愛好家に人気の場所であった。舗道を外れれば起伏の緩やかなカントリーランも楽しめるが、すっかり葉の落ちた樹々の間を縫って走る人は、それほど多くはない。
 そんな中、自らの肉体を苛めるように激しく走り続けているのは、月崎美那斗だ。
 父親の拉致事件からおよそ半年が過ぎている。
 将来の夢のために必修と考えて選び、篤学に励んでいた大学を休学し、一日のほとんどの時間を鍛錬に費し、肉体の改造を続けている。自宅にはウェイトトレーニング用の機器が幾つも並び、格闘ジムに通い、合間を見ては走る。食卓は楽しむものではなく、単なる栄養補給の場になった。
 上り傾斜を走り越え、下りで脚が追いつかず、もつれて転倒する。前のめりに地面に着くとゴロゴロと転がり、全身を土に塗れさせて漸く停止する。仰向けのまま暫時天を向き、荒い呼吸を繰り返す。白い息が断続的に放たれては消えていく空の遥な高見に、幾分もやった黄色い太陽が、さして眩しくもなく彼女の瞳を射る。天空の円盤を挑むように睨みつけると立ち上がる。ショートパンツから伸びる二本の脚が土や枯葉で汚されるままに、バタフライパターンの描かれた白いランニングウェアのポケットから、直径十二、三センチ程のメダルに似た円形の金属片を取り出すと、握った片手を太陽に翳すように突き上げる。
 陽光を浴びたメダルが閃き始める。太陽の光を反射しているのではない。自らが太陽光をエネルギー源として力を発動させ、増幅されたパワーが溢れ、零れるように光を放出しているのだ。細く長い指の隙間から線状に光が拡散すると、美那斗は次にそのメダルを臍から指三、四本分下の辺り、いわゆる丹田に押し当てる。
 そのまま数秒が経過すると、メダルの輝きは収束へ向かい、程なく光は失せるのだろう。
 全ての様を見届けるまでもなく、再びポケットの内側にメダルを戻すと、ファスナーを閉め、渋い表情を見せたのも束の間、再び走り出す。
 山野に食料が失くなる冬には野鳥が街へ下りてくる。カカカッと火打ち石を鳴らすような声が聞こえているが、これはジョウビタキだ。他にキビタキやシジュウカラも時折三角公園に姿を現す。乾いた風が肌に刺さるが、冷たいとは感じない。小鳥の声も心を和ませはしない。美那斗はひたすらストイックに訓練に明け暮れるのだった。
 メダルのことはコアと呼んでいた。
 左右の脚を激しく抽送しながら、二体目の怪人が自宅に襲来した日のことを思い浮かべている。姿こそ全く違えども、紛れも無く護が変異した怪人が研究室に立てこもった。研究チームのスタッフ一同、執事の辺見にも、無論娘である美那斗にも為す術がなかった。
 室が内側からロックされていて侵入できないというのも勿論その理由ではあるが、仮に解除したとして、怪人をどう扱っていいのか、扱うべきなのか、誰にも判断がつかなかった。警察へ通報という案の提示もあったが、娘の気持ちを思えば実行に移すのもはばかられた。
 不気味な容姿に変わり果てた父親を差し出すに忍びない、そう思うのは当然だが、美那斗の気持ちはもっと複雑で、一言でも二言でも言い表すことは困難だった。いや、本人も気持ちなど理解は出来ていなかったろう。
 醜悪な怪人になった父親。可哀想で、憐れで、恨めしく、恥ずかしく、汚らしい。負の感情が嫌という程湧き上がる一方で、こんな怪人になってまで何故家へ戻ってきて、わざわざ姿を晒すのかと強い憤りや怒りを覚え、純粋な恐怖は無論最たるものとして、様々な想いがいくつも何度も入れ替わっていく。
 部屋の中を映すモニターの前から離れることが出来ず、椅子の上で膝を抱え、零れ落ちる涙を頬から脚へと伝わらせた。周りから見れば彼女は悲壮感に蝕まれていたが、本人としてはそればかりでもなかった。想いは次第に父が何をしようとしているのか、何か目的があって帰ってきたのか、という事を考えるようになっていった。
 脳波を収集しようと頭部に貼ったパッドが、うまい具合に機能しないと判断した怪人は、別の手段を講じていく。電極を直接脳幹に差し込むことを意図しているのであろう。頭部や項など部位を探って突き立てるが、外皮というか甲殻と呼ぶのかは不明だが、体を覆う組織が硬く、刺すことが出来ない様子だ。医療用のメスやドリルを使って、まずは穴を穿とうとするも、全く歯がたたない。事象に対して策を講じ、実践し、検証する。作業は不可解でぞっとさせられる行為だが、実行している内容は研究者の生業を想起させるに充分であった。電極を自らに取り付ける事が、いかなる理由から必要なのかはやがて判明するが、怪人はその手段を試行錯誤している風に見えた。怪人の動きが長時間停滞した後、やがて硬いはずの頭部に一本電極を突き刺すことに成功した。
 どうやったのか、若干荒く見辛い画像を、皆が身を乗り出して見入っていた。
 研究室のドアがロックされてから、監視室には美那斗と辺見の他に、チームスタッフが交替で様子を見続けている。電極が刺し込まれた所に立ち会っていた研究スタッフの名を挙げると、初老で白髪の清水高(しみずこう)と護の後継者として護の信任厚い天才肌の向浜紙戯(むかいはましぎ)。向浜は二本目の電極が取り付けられた時、その方法を解明してみせた。
「成程、そういう事か。だとしたら…」
 ブツブツつぶやき出すのは彼女の思考がめまぐるしく回転している時で、よく知るスタッフは邪魔にならぬよう気を配るのが常であるが、彼女と親しい美那斗は遠慮無く問いかける。
「紙戯さん、何か解ったの?」
 考えを遮られたことを怒る風でもないが、美那斗の方を振り返るでもなく画像を見つめながら、腕組みしたまま問いかけに応じていく。ボタンを外した白衣の下には山吹色のニットの長袖の上に、虹色のマキシ丈スカートを胸の上まで引き上げて膝丈にして履いている。身だしなみに無頓着なのはいつものことで、注意する者は誰もいなかったし、されたとしても本人はどうでもいいことと一蹴するだけだろう。
「よく見て。頭部が開くのよ」
「えっ」「そんなバカな」「まさか」異口から同義の言葉が漏れる中、モニターには三本目の電極を刺そうとしている怪人がいて、皆食い入るようにそれを見つめる。「バカ」という一言にこめかみの辺りをひくつかせる紙戯。怪人の頭に新たな電極が突き刺さる。
「良く解らないな」清水が目頭を指で摘まみながら呟く。
「私も解らなかったけど、紙戯さん!?」
「肉体を変化させられる。それも瞬時に。そんな能力が元々備わっていたと考えるよりは、潜在能力が著しく強化されていると考えたほうが良いのだろうな。画像は記録してある。遠流くんが出てきたら処理してもらうと良いわ。チーフの意図する所がそうだとしたら、次はどうするか…。えっ、何っ、まだ判らないの? だから、画像を鮮明にして拡大すれば電極が入った理由が見えるように出来るからと言ってるの」
 言いながら辺りをキョロキョロと見回し、めぼしい物がないと判ると、片方の靴下を脱ぎ、口に咥える。長い髪を頭頂部で雑に束ねるとその靴下で結わえていく。
「全く、暑いったらないわ。これだから夏は嫌いなのよ」
 (冬用のニットを着ているくせに)、そんな反論を喉の奥に飲み込み、代わりに目を大きく見開いて、全員が同じように紙戯の言動に驚きを表す。それに気づいてはいないだろうが、紙戯はそのまま監視室を後にしてしまった。
 程なく入室してきた広面に事を伝えると、すぐに作業に取りかかった。怪人は全ての電極棒をセットし終えたのか、次の工程に移ったていた。
「では、見てみましょう」
 広面がPCのキーを叩くと、画像処理された先程のシーンが映る。
 そこにはまさしく、丸い穴が開いていく頭部が映し出されていた。つまり、怪人は硬い外皮を突き破る代わりに、そこに自らの意志で穴を開け、自らの意志で形を変え、電極を突き刺したのだ。
「しかも、ご丁寧に穴が窄まっている。電極が抜け落ちないようにする処理なのでしょうが、怪人にはこんな能力が備わっているのですね」
「いや、最初は刺そうとしていた。今、短時間でできるようになったんだ」
「そうなんですか」
 広面と清水のやり取りを聞きながら、なおも美那斗は画面を見続けた。
 監視室を出た紙戯が秘かにデータ解析室の怪人の意図を汲んでサポートを開始したこと。辺見がこの間も日課を忘れず、館の管理や皆の食事の用意を整えていること。怪人が館内にとどまり続けている恐慌に耐え切れず、研究スタッフの中に離脱者が増えていること。など、周辺の出来事に気付くことなく、美那斗は監視室に居続ける。
 その様子は、あたかも何かを待つかのようであった。
 脳から幾筋か伸びる配線はコンピュータに接続され、初期設定のためのキーボード操作をした後は、怪人はそのまま動かなくなった。立ち続けることも疲労を呼びはせず、座ることもなく、まるで武蔵坊弁慶の如くであった。
 そして、時間が流れる。あまりにも動かないため、このまま監視を続ける意義があるのかと問う声が上がったが、紙戯が制止した。研究棟にはスーパーコンピュータ級の巨大な電脳設備があるが、研究が停止してしまっている今現在もかなりな稼働率になっており、また記録媒体の容量も逼迫してきているという。
「あの怪人は記録を、膨大な量の記録を保存しようとしている。あの怪人だの最初の怪人だの紛らわしいったらないけど、ともかく怪人と言っても同じ括りに分けられないことは明白だし、二番目のがチーフだとしたら、いや私とした事が仮定の言葉を口にするというのも信じ難いという感情が働いている証拠ね。半月前の事件から怪人も以前は人間なのは確定なのだから、最初の怪人も、ほらっ、言ってて区別しづらい。ナンバリングかネーミングが必要だわ。ともかく、先の奴も元は人間だっていう可能性がある。というより、ほぼ間違いない以上、怪人にも性格というか、行動規範や行動基準が在るようだわ」
 紙戯の独語だけが美那斗へ届くほとんど全ての報告で、更に手を出せない時間が増えていったが、それも遂に終わる時を迎えたようだ。
 怪人が電極を引き抜く。その後部屋を移動し、手に触れ始めたのは、かつて護が研究し、作り上げたエネルギー変換装置と、その増幅のためのブースター、小型制御装置とそのプログラミング及びユーティリティ関連装置であった。装置のエネルギー源は勿論太陽光を想定したもので、屋外に在る発電用のソーラーパネルとケーブルでつながっている。室内にある装置だけなら一抱えほどのコンパクトなもので、怪人はそれらの機械を慈しむ様子で抱きしめた。怪異な形状の躰や相貌から感情を読み解くことは不可能であるが、何かを訴えかけるような仕草で、監視カメラをじっと見つめた。
 時間で言うと、十秒、二十秒、そして三十秒程流れた。
 不意に、モニター画面が急に白光に飲まれた。
 しばし後、光が減却すると、そこに怪人の姿はなかった。
 残されたのは、二つのコアであった。


 一時間余り走って、脚力アップを狙った訓練からそのまま向かうのは格闘技ジムだ。幾つものビルが立ち並ぶ街の大通りからは離れた裏側に、車一台がやっと通れる狭い道路沿いに、古いがそれでも十階建てのビルがまるで左右のビルに支えられて何とか立てているように伺える賃貸物件がある。貸しビルの一階から三階は埋っているが、それ以外は閑散として、冬の空気は冷たく建屋全体を寒々しくしている。
 道路に面した側に横一列に嵌めこまれたガラス窓には一枚につき一文字描かれた紙が貼られ、安上がりな看板が「弁天格闘ジム」と示しているのは三階だ。上りと下りで人が擦れ違う際は互いに身を捻らせねばならない程狭隘な階段は、ジムに通う大柄な男共には酷く不評判で、鉢合わせになった際には、どちらかがいずれかの階のフロアか踊り場に戻らなくてはならないが、屈強な格闘家が退けるものかとくだらない意地の張り合いや小競り合いになるのが常であった。その階段を駆け上がると、仕切りの全くないフロアに熱気が溢れている。また、怒声や物体や肉体がぶつかる音が絶え間ない。
 トレーニングをしている者、コーチしている者、ざっと十名程度であろうか。この人数は少ない方らしく、夕方や週末にはボクササイズをする女性で賑わうのだとオーナーは語るが、美那斗は自分以外の同姓の姿を一度も見たことがないし、ビルやジムの雰囲気からはなかなか信じ難いものがある。
 実戦のトレーニングとして彼女がここを選択したのは、単なるダイエット目的ではない会員が通い詰めていると思えたからで、女性気がない方が有り難い。サンドバッグを叩き、蹴り、躰を絞り、スパーリングをする。とはいえ、始めた頃は相手をさせてもらえなかった。パンチ一つまともに打てなかったのだから当然だが、この所やらせてもいいとオーナーが判断を下した。
 今日の相手は土南学(どなんまなぶ)という二十代後半のフリーターで、時折プロレスの前座の代役に呼ばれることを鼻にかけている。四六時中ニヤついているような顔が癇に障り、あまり他人に好かれるタイプではないが、そんなことは美那斗には関係がない。なんであろうと実戦を重ね、肉体を鍛え上げ、強くならなければならないのだから。
 壁際に無造作に並べられたビニール張りの安い丸椅子にジョギングウェアを脱いで小さく折り畳んで乗せると、黒いタンクトップとホットパンツ姿になる。編み込みのショートブーツを脱ぎ、甲の辺りにクッション材の付いたサポーターに足を通す。手に装着するのはオープンフィンガーグローブだ。総合格闘技はボクシングのような打撃系の攻撃の他に組手もあるので、こうした指が使えるグローブを嵌めて行う。他に膝当て、肘当てをつけて準備が済むとサンドバッグを叩く。
 物を殴ったり蹴ったりする感触はここで初めて知った。ずしりと重く硬い革の何と動かせないことか。天井のみならず、床にも鎖で固定され、牽引されているようだ。ほんの僅か拳がめり込む感触が伝わってくる他は、自らの肉や骨が軋み、痛み、悲鳴を上げるのを無理矢理堪えて、次の攻撃を繰り出す。その苦しみの反復をひたすら繰り返す。いわば自分との闘いである。
 だがスパーリングはそうはいかない。動く相手がいる。
 美那斗の想像の中では対戦相手は敵、怪人であった。
「おい、土南。相手してやれ」
 オーナーでありトレーナーの弁天光司(べんてんみつし)が呼んだが、対戦相手の名前など、美那斗の頭には入っていないだろう。ただ、闘うに相応しいか値踏みするようにじろっと見つめる。身長は百八十くらいだろうか。格闘家として決して大きくはないし、百七十と長身の彼女とも大して違いはない。だが、横幅は二倍では足りぬだろう。筋骨逞しく、厳つい。注意深く注がれる女の視線にニヤケ顔が更に弛んでいる。
「何すか、女が相手すか。俺だってそんなヒマじゃねっすよ」
 迷惑ぶってみせているが、内心はどう感じているかしれたものではない。口角からちらっと舌先を覗かせたり、薄いタンクトップ越しの躰を舐めまわすような視線を這い回らせている。格闘、それ以外の何かを頭の中で思い描いていることは、火を見るより明らかな土南の表情だ。
「いいから。言われた通りにしろ」
 リングに先に上がり、コーナークッションを左右の拳で連打する美那斗をロープの下から覗きこむ。薄っすらと汗に濡れた白い二本の脚は、下から見上げると殊更に長く伸びて見え、
「全く、しょうがねぇなぁ」
などとブツブツ言って、土南はニヤケ顔に拍車をかけながら、リング上に這い上がっていく間も視線は美那斗から離しはしなかった。
 膝に手を当てながら土南が立ち上がった途端、美那斗のラッシュが始まる。
「なっ」
 初撃が顔面めがけて飛んで来ると、突然のことに驚き、かろうじてヒットは避けたものの、足がもつれてよろめく。
「いきなりかよ。挨拶ぐらいしろってんだ」
 軽口を叩きながらも、両腕を眼前に立てるようにガードし、土南は相手の細い腕から射出される軽い乱打を全て受け止めていく。
 確実にヒットしている感触はあるものの、相手は押されることもなく、痛みさえ感じていないのではないか、そう危惧した美那斗が土南を見ると、二本の腕の間からこちらを凝視する視線が上へ下へと忙しなく動いている。そこに戦術を巡らす以外の疚しい雰囲気を感じ取ると、美那斗は自分の拳でその不穏な視線を遮るようにパンチを浴びせる。
 当たるのは土南の腕だけであったが、やがて、「うっ」といううめき声が上がった。美那斗のパンチの威力でか、あるいは単なる油断からか、土南はガードの腕を自分の鼻にしたたかに打ち付けたらしい。
「力で勝てるわけないだろ。足を使え、足を」
 リングサイドでは弁天が指示の声を上げている。
(足、そうか)
 周りの声が耳に入るくらいには熱くなりすぎていない美那斗だが、コーチの意図を汲み取れはしなかった。美那斗はパンチを撃ち止めると、代わって蹴りを入れ始めたのだ。高く上がる足の甲やつま先が土南の眼前をガードする太い腕を適確に打ち据える。それが、二撃、三撃と、両拳の攻めと負けず劣らずの速度で連続する。右に三度続いたと思うと次は左と繰り返され、パンチの何倍も威力の増加した攻撃は流石に効き目があるらしく、土南は足を踏みとどまらせていられなくなる。
「そうじゃねぇ、んだがなぁ・・・」
 正そうとしつつも、弁天は言い留まった。美那斗が押し始め、いくらか試合っぽく見えなくもない有様になってきた。正直な所、ものの数秒でカタが付き、所詮はお嬢様の気まぐれだから、もう辞めたらどうだと諭すつもりでいたのだが、予想以上に美那斗の体はよく動いた。
 ガードの腕が自分の顔を打つ度に、土南は苛立ちをつのらせていく。
「このっ、黙っていればいい気になって」
 左脚の蹴りを腕で払うと、握っていた左手を開き、前方へ突き出す。相手の首を締めようとした動きだが、寸でのところで体を仰け反らせて躱した。捕まえられはしなかったものの、それでも強烈な一撃が喉を叩き、呼気を奪われた。全身が空気を求めつつ、床に痛々しい音を立てながら倒れると、間髪をおかず土南が覆いかぶさるように両膝を美那斗の体の両脇に着き、美那斗の両腕を押さえつける。上方から見下ろし、苦しさや痛みや後悔や憤りに喘ぐ女の様を睨めつけている。少しずつ頭を下ろしていくと、視線は美那斗の胸元に注がれていく。動きまわって汗を吸い込んだタンクトップの襟元が幾分広がっている。玉のように噴き出している汗の滴が肌に浮かんでいるのを、いっそ舌を伸ばして舐め取ろうとしているのかと疑いたくなるような、無言の間と表情であったが、それが唐突に歪み出す。さらに、大きな体がおもむろに持ち上がっていく。
 土南のニヤケ顔が信じられないものに出会った表情へと移っていく。視線を転じ、土南は自分の腹部に当てられ、押し上げようとしている二本の脚を見た。重量比でいけば両者は二倍以上の差がある。まさか蹴り飛ばしは出来ぬだろうが、腹にめり込む足は苦痛であった。更には、巨体を飛ばせぬと悟った美那斗は、足を交互に蹴り上げていく。これにはさすがに重量があろうとも、たまらず、土南の方から一時離れようと体を浮かす。そこへ美那斗の蹴りが追い打ちをかけるものだから、さながら柔道の巴投げの崩れた様な形になる。
 体の側面から倒れた土南は、そのまま踏みとどまらずあえて体を転がし、その勢いにのって一時離脱しようと止まった所へ、今度はその上に美那斗が馬乗りになる。腹ではなく胸の上にしっかりと体重をかけ、フロアの上に土南の腕を膝で押さえつつ、見下ろす相手の顔面を殴打していく。
「ーーーーーーーっ」
 言葉にならない激しい叫びを上げながらの連打。それは怯えと怒りの感情を一気に爆発させての、力任せの強襲だった。
「まてまて、そこまでだ」
 オーナー兼トレーナーの弁天が慌ててリングに上がる。美那斗の体を後ろから羽交締めにして両者を引き離す。軽々と持ち上げられながら、尚も打ちのめそうとする美那斗を何とかロープ近くまで引っ張ってくると、漸く体を下ろす。頭を冷やそうとするように美那斗はくるりと向きを変え、猛烈な勢いでロープをくぐると、リングを降りた。足がもつれて転倒するように床にへたり込むと、両手を床について、ずっと堪えていたものを吐き出すように、激しく咳込んだ。
「何なんだ。何なんだよっ」
 顔のあちこちを殴打された土南が立ち上がり、美那斗へ悪態をつき始めるのを弁天が制する。周囲には他の練習生が集まり、嘲笑や野次が飛び出す。それがいっそう土南の怒りを煽った。
「アレは不味いだろが。セクハラなんてかわいいもんじゃなかったぞ。お前は何やってんだ。溜まってるなら風俗でも行って来い」
 叱責の言葉の裏に多少の同情は込められているのか、口調はそれ程厳しくはない。弁天は土南の怪我の有無を見定め、一応診てやれとスタッフに声をかけると、美那斗の方へ近寄る。まだ肩で大きく息をしているのを見ると、傍らにあぐらを組んで座り、まずは「大丈夫か」と声を掛ける。
 ポタポタと落ちる汗と同方向に向いていた視線をを上げると、さっきまで対峙していた相手と同じ性を持つ人物が近くにいることを警戒する、あるいは惑乱する色を瞳に湛えてしばらく睨みつける。「平気です」と応えたのは数秒間たってからだった。男の性に触れた衝撃が恐ろしく怖いと感じ、涙が出そうになるのを堪えるのに必死だった。
「悪かったな。あの野郎、女の色香にやられやがって。おおかたエロいことでも考えて油断したんだろう」
 少しずつ呼吸が落ち着きを取り戻すと、上体を起こすことが出来た。試合展開はどうあれ、闘って、結果勝った。そう思っていたのに、その想いを否定するような弁天の発言が美那斗には意外であった。
 美那斗はタンクトップの胸元に指を入れて引っ張ると、上からその内側を覗き込んだ。
「おっ、おっ、おい。何を」
 いきなりの大胆な行為に慌てたのは弁天だ。僅かに頬を赤らめる表情をみせ、急にドキドキし始めた自分を、一体何歳なんだと自戒しながら恥ずかしく思いながら、それでも美那斗の仕草が気になって仕方なく、目を逸らす風を装いながら、覗くように見続けている。
「ないわ」
「なっ、なっ、何がだ? ないって、胸がなーーーー」
 思わずその後に続けて言おうとした言葉がセクハラ紛いだと気づき、弁天は慌てて口を閉ざし、加えて自らの両手で口を覆った。
「こんな魅力の欠片もない胸、女の武器になんてなりっこないでしょ」
 さっきの試合の最中、土南の視線が胸元に注がれていたのは覚えている。だがそこには男を油断させるような要素はなにもないと、自虐的なジョークを思い浮かべたことで嫌悪感に怯えていた心が少しだけ和らいだのか、一度大きく息を吐き出す美那斗。
 弁天がカリカリと頭を掻く。そこには髪が全く無かった。
「まあいい。それよりも、俺が言った足を使えっていうのはだな、ステップを利かせて回り込めって話だ。まともに正面からやり合ったって、力の弱いお前に分はないだろ。動くんだよ。お前の武器はスピードだ。分かったか」
 鳩が豆鉄砲を食らったようという形容が程よく似合う表情を見せると、美那斗は両の口角をキュッと上げて微笑した。
「あ、やだ、そういうこと? 私ったらてっきり・・・」
 足を使えの意味を履き違えたことが余程おかしかったのか、カラカラという土鈴のような笑い声を上げる彼女の様子は、無邪気な子供の様でもあり、それでいて成熟した可憐な花が咲き誇るようでもあり、間近で見つめる弁天は本日二度目の頬の上気を見せた。
「全く、その笑顔の方が余っ程武器になるだろうよ」
 その言葉に美那斗が目を丸くするのもまた、本日二度目であった。
「褒められたのかしら? 一応お礼は言っておくけれど、今度は格闘技の方で褒められるよう努力するわ」


 ジムのビルの階段を降りて屋外に出ると、自宅までの距離を全力疾走で帰る。家の一室を改造したトレーニングルームで再び鍛錬をする。こうして一日のほぼ全ての時間を自己修練に費す。食事をし、入浴を済ませるともうくたくたで、一秒でも早く寝具にくるまって瞼を閉ざしたいところだが、気が張っているせいかすぐに眠る気にはなれないし、もう一つ重要なすべきことが残っている。
 夜も更けて自室に入ると、寝間着姿でPCを立ち上げる。そこは今なお拡がり続ける膨大な記憶の湖である。
 月崎邸にかつて館の主であった月崎護が怪人になって帰還した日、自らの脳に直接繋いだケーブルから全ての記憶を吸い上げた。それはあまりにも乱暴なやり方で、脳内のデータ化に使われたコンピュータのデータ容量は単位でギガでは足りず、数テラバイトを超えたと推測される。明確な計測ができていないのは、月崎研究施設の膨大と思えていた記憶媒体でも足りなかったからだ。ここまでの大容量を記憶することは想定外にもほどがあった。
 ただしこれは一個人の人生すべての記憶だ。記憶にはありとあらゆるものがある。感触、感情、感想、思考、記憶といった能動的な情報以外にも、無意識的に日常行っている動作や行動、例えば体温を一定に保たせる発汗の制御といったもの等、言語に表記できないものも多い。全てのデータは研究スタッフで調査されることになった。
 これは美那斗の願い、というよりは指示であった。
 データは混沌としており、断片的で、多岐に渡る。ほとんどは必要も意味もない内容だ。その中から必要なもの、護がなんとしても成し遂げ、残し、伝えなくてはならないと思った事柄を見つけ出し、役立てなくてはならない。今目の前にあるテラバイト単位のデータは、いわば無限だ。パズルのピースだ。関連するピースを拾い上げ、一枚の絵を作り上げる。いや、一枚ではないだろう。何十枚という大きな絵を組み立てるのだ。それには人の手作業ではあまりにも時間を要する。データのパターンを見つけ、解析し、手段を講じる。月崎研究チームの知識や知恵が不可欠だった。
 そして、彼らにはここに逗まる理由が要った。月崎護亡き後、彼の研究を続けるというのも一つの選択肢だが、躊躇させる事項があった。護の研究の全体像を知る者がいないという事。研究スタッフ一人一人は一つのテーマの極一部の研究をしているにすぎず、スタッフの各々の成果を纏めて護の研究が完成する。おそらく向浜紙戯なら全体を把握できるだろうが、最年少の彼女にチームを取りまとめるリーダー力やコミュニケーション力、それにこれがもっとも重要だが、そのつもりが不足している。そしてもう一つ現実的な問題が金銭的なものだ。この先ここに留まって生活してゆけるのか、その不安は当然といえよう。実際、最初に怪人が館に来て、護を連れ去ってからというもの、一人また一人とスタッフが抜けていっている。思いこそ様々あれ、残っているスタッフの戸惑いは大きいはずだ。
 そこで美那斗は彼らを慮り、改めて月崎研究チーム員として再雇用したのだ。給金はこれまでと同額に定め、更に懸案の内容から相当の危険手当をプラスした。研究対象は怪人。前代未聞の人智を超越した事件の謎を解明すること、これが当初の目的であり、最近になって解決策の模索と確立が加えられた。
 この年の改まった頃から、不可思議な事件の噂がいくつか世間を騒がせるようになり始めた。見たこともない大きな生物の目撃情報、ありえない事故、手段の特定できない破壊行為、等々。月崎の者ならそれが怪人の仕業ではないかと容易に推測できる事象であり、怪人の存在が世界をどう変貌させていくのか、彼らの憶測は世間に先んじてゆく。このままでは済まない予感が胸の奥に重い塊となって詰まる。誰よりも事件の発端に近い所を垣間見た経験、事態を究明、解析する能力の有る人材や資源、機材がある。他の誰かが着手するまでもない、自分たちがやらなくては。そんな目的と使命感を美那斗はスタッフに与えたのだ。
 この時点でスタッフ総勢八名。
 真っ先に着手したのが当然のことながら、護の記憶データの解析である。
 初期は遅々として進まなかった。言わばパズルのピースすらもバラバラに細かく分裂していたようなもので、破片を繋ぎピースが見えるようになると、色々な絵柄が判別できてくる。
 言語化出来たもの、断片的なもの、何ら意味を成さないもの。美那斗は一日の終りにそれらに目を通すことを習慣化した。それは、父との対話の時間であった。
「ああ疲れた、コーヒー・・・雨か、外へ出たのは9日前のこと・・・再考の必要あり・・・砂糖が多すぎだ・・・エネルギー、エナジー、円高進行・・・ニューロンの速度係数を考慮にいれるというあの論文だが、否定・・・美那斗が立った・・・目がかすむなぁ・・・チャットのやり過ぎだ・・・いつもながらムカイーの服・・・学会の講演とはいえ、ネクタイの色が黄色・・・誰の足の匂だ・・・また出掛けたのか、あいつは赤ん坊・・・様子がおかしい、どう・・・また失敗か、いや選択肢が一つ減って・・・腹減った・・・トイレに・・・アレはどこにいった、キチンと整理してないから・・・疲れた・・・空気を温めるだけでこんなにも・・・自分が恥ずかしい、どうして・・・あんなに偏屈じゃ・・・風だ、太陽が・・・科学の力は偉大だと理解できないのだろう・・・初めまして・・・其処に置いてくれ・・・えっと、あれはたしか・・・薬品の取り扱いには・・・おい環汽、ちがう・・・父さん、少しは・・・これだ、発見したぞ」
 何の脈略もない文字が無数に並ぶ画面を食い入る様に見つめ、自分の名前や自分の記憶に重なる部分を見つけては歓喜に視界が滲んでしまう。
 美那斗は自分が囚われたと思っている。
 一つは父の記憶の湖に。そこに身を沈めることが何と温かく、居心地良く、甘美なのだろう。毎日の痛み、苦しみ続ける肉体と心を溶かしてくれる。パソコンの前にいると、これが現実か夢かの境目が判らなくなっていき、文字の羅列を目で追っているうちに眼前にモニターがあるのか父が座っているのか明確な違いが融け合い、そこにいないはずの人物に話しかけてしまうこともしばしばあった。
 だが返答はない。それが幻影と知って打ちのめされてしまう。
 哀しみの湖底から浮上するには、憎しみの感情が不可欠だった。少なくとも、彼女にはそれ以外の方法を見いだせない。囚われているもう一つは復讐という言葉に集約される。
 父を襲ったあの怪人を許さない。自分から父を奪ったあの怪人を絶対に許すことはない。必ずやこの手で斃す。そう心に誓って憎悪することで、今の美那斗は前へ進む活力を得ている。憎悪だけが生きている理由だった。


 朝になり陽が昇ると、美那斗は今日も走り出す。雨が降っていようと関係ない。走って走って走り抜いて、生真面目な程に疾駆する。硬質な外骨格を持つ怪人との戦闘を想定した肉体改造は全身の筋肉の鍛錬を要するし、実戦の訓練も必要で、サバイバルナイフを振り回しもすれば、銃の取り扱いの練習もする。睡眠と食事の時間を除けば、いやその時間すらも常に怪人と闘い斃すことを考えていると言っていいだろう。月崎邸にある広い庭園も、今では美那斗の訓練場の一部へと変わった。
 姫沙羅、花水木、山法師、月桂樹、菩提樹、紫丁香花、楠、桜、梅、金木犀、等々。バランスの妙を巧みに考え抜かれて配置された樹々の間を縫って走り、クイックネスを向上させるべく跳躍する。息が上がって倒れそうになるとようやく一休み。腰に手を当てて空を見上げると、木漏れ日の照射を疲弊しきった体に浴びる。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
 吸っては吐く息の音、鳥の囀り、風が枝葉を擽る音。美那斗の手がポケットを弄る。掴んだのはコアだ。銀色の円盤の表面には太陽を模した紋様が浮き上がっている。紙戯の命名によると、これは「陽のコア」。太陽の光をエネルギー源としてある種の力にする変換装置らしい、というところまでは解析が進んでいる。陽というからには陰もあって、コアは二つ存在する。一方の「陰のコア」は月の光を原動力とするもののようだ。
 美那斗は片手にコアを握りしめ、天高く掲げた。
 毎日こうして確かめているわけではない。たった一日で状況が変化するものではないだろう。それでも数日経てば試してみたくなる。紙戯の話だと、これは力を受け取る側にそれに相応しい順応性や強さが求められるのだという。その為に美那斗は令嬢としての生活を一変させ、日々鍛錬を始めたのだ。過酷な日々の修練が結実しているのか、自分には資格があるのか。
 太陽光を受けると、コアは輝きを放ち始める。鏡のように光が跳ねているのではなく、その丸い銀の物体が内側からおびただしい光を放散させているのだ。次に美那斗は腕を下ろすと、コアを腹部に当てる。
「変身!」
 気迫を込めた掛け声を上げ、気合を入れる。研究チームの見解によれば、この後美那斗の体に何か激的な変化が起きるであろうとのことだ。が、今日もまた虚しく肩を落とすだけだった。
 コアは父の遺産だ。
 三日間解析室に篭もり続け、室内の様子を映すモニターが白光に満たされた後、そこから護は姿を消していた。なんとか解錠し中に入ると、残されていたのが陽と陰、二つのコアであった。
 他には一切ない。怪人の姿すら消滅していた。とすると、護は自らがこれへ変貌したとしか想えない。この不思議な現象については、意外に早い段階で理由を知ることが出来た。
「怪人を排除しなければ人類に未来はない。これは夢を叶えようとする人と欲望や煩悩を制御出来ない種との闘いだ。向こう側に取り込まれる前に、私はコアとなり、人類の力となる。後は美那斗へ託する。   月崎護 」
 右利きの人が左手で書いたような、震える不器用な文字でホワイトボードに書かれていた。美那斗は父の遺志を引き継ぐことを決心した。
 だが、その力を未だ発動することが叶わない。記憶データの分析は進んでいるが、コアに関する情報が不足しているのか、あるいはもう出尽くしているのか、装置として解らないことだらけな上に、人類が触れたことのない物体である以上、それが正常か未完なのか、全てが手探りでしかない。それでも太陽にかざせばコアは光を帯びる。そこには確かな希望がある。
 では何故、それ以上の事象が顕現しないのか。
 美那斗は悩む。自分の力不足のせいではないのかと。試しに他の研究スタッフも同じように太陽にかざしたコアを腹部に当ててみたが、結果は皆同じであった。
 ひとしきり庭を駆け巡って、全身が水分を求めて喘ぎ出したので館に戻ると、向浜紙戯がエントランスで待ち構えていた。今日は白衣にエプロンと前掛け、割烹着を複雑に組み合わせた重ね着ファションだ。無論、意識したものではない。
「新たなコア情報が見つかったわ。コアはどうやらチャクラを回すための装置みたい」
「チャクラって!?」
 頃合いを見計らったような絶妙なタイミングで執事の辺見が現れ、ミネラルウォーターの入ったグラスを差し出す。四六時中美那斗の行動を監視しているわけでもないのに、他の仕事もきちんとこなしながらも、美那斗の必要と思われる世話を忘れないのはさすが辺見といえる。グラスの水を喉に流し込み、大きく深呼吸してから美那斗は紙戯に訊いた。
「チャクラっていうのは、ヨーガの世界で言う人間の体内にある回転する光の輪のこと。目には見えないものなので、概念的で疑わしくはあるけれど、全部で7つあって、ヨーガで心体を鍛え上げることで車輪のように回転、これは時計回りだそうだけど、回ることで気のエネルギーを取り込むの。気功に似た感じかもね。7つのチャクラには各々役割があって、説明は省くけど、丹田は第二のチャクラで、サクラルチャクラといって、その人の本質と繋がる中枢なの。ヨーガというのは一種の肉体訓練方法で、筋肉の発達や動作を敏速にさせることで、しなやかさと柔軟さと身体の制御が出来るようになるの。するとそれに伴なって根本的な生命力や性力グンダリーニが呼び醒まされ、様々な脈管ナーディと中枢チャクラが活性化される。なんて、これは文献の受け売りで、私自体精通しているわけではないのだけれど、ともかく、このコアの役目としては、ヨーガの修業はある程度要するにしても、高次の域まで達さなくとも、光エネルギーを源として、コアによりチャクラを半ば強制的に回転させてやることでナーディを拡散させ、力とするための装置、との予測が立つわ。ということで、美那斗ちゃんの訓練にヨーガを取り入れましょう」
 紙戯の長い解説を一度に理解するのは難しく、美那斗は改めてチャクラやナーディに関する資料を貪った。
 それから更に日は過ぎる。
 力と強さばかりを求めていた当初に比すれば、求めるものは増えていった。柔軟さ、迅速さ、筋力や呼吸器の強化、加えて精神的な安定や強さ、回復力。より実践的な訓練も、公には法に触れるものを含めて密かに行われた。
 それでもコアは発動せず、苦悶は増すばかりであった。時間と苦渋が増える一方、父との対話も増していく。データの解析は確実に進んでいる。記憶データには重要性の高低に係わりなく全て入っているので、大半は日記のような状況になっていく。そんな中で、娘としては知らなくてもいい、触れたくない父の裏面をも知っていくことになる。一時はもうこれ以上父の想いに触れるのは辞めにしようとも考えるが、淋しさに泣き叫ぶ幼児のように、気付けばパソコンを起動させ、父の記憶に浸ってしまう。
「娘が大学に合格した。夢を叶えたいと語った時のことを思い出す。誇らしいと同時に、自分が惨めに思えてくる。おめでとうを言い忘れてた。なんて愚かな父親だろう」
 モニターの中にそのような父の独語を発見する。
「お父様。そんな風に感じていたなんて、惨めって、どうして・・・」
 もし生きていたら直接問うこともできるし、案外何だそんなことかとほっと胸をなでおろす事柄なのかもしれないが、疑念が晴れることはない。答えが未だ読んでいない記憶データに埋もれているかもしれないと探してみる。
「親父と環汽の不仲は今に始まったことじゃないが、正直面倒だ。研究してても二人の雑事が頭をよぎって集中できない。いっそう居なくなってくれたら楽なのに。けどそうなれば、資金面で貧窮するし、母親のいない子供も不憫か。結婚なんて良い事ないな」
「量子力学、一般相対性理論、波動力学、等科学的な見地で証明する思考が染み込んでいるはずなのに、最近気になるのが潜在意識の分野だ。彼らの考え方やアプローチを否定しきれないと感じる。シンクロニシティなどは偶然への意味付けにすぎないだろうに」
「太陽のエネルギーは無尽蔵だ。少なくとも人類がこの地球上に住んでいられる内は。これを有効に使う技術を開発すれば、全てのエネルギー問題から解放されれば、我々の生活は一変する。そう教えた時の美那斗の表情が忘れられない」
「子供というのは不思議なものだ。理論的な考え、行動をさせなくさせる。目に見えぬ波動を放出しているとしか思えない。見るだけで何故頬が弛むのか」
 湧き上がる感情は複雑で、どう処理すれは、どう整理すればよいのか、困惑したまま眠りにつくしかなかった。
 時間は流れるが、未だに囚われたままだ。

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