紅玉の姫君と黄昏の騎士

イアペコス

文字の大きさ
5 / 5

第五章:真実の愛と後悔の王子

しおりを挟む
アーベントロート領は、王都アステルダムの華やかさや洗練とは全く異なる風景が広がっていた。険しいドラッヘン山脈に囲まれ、太古の森が深く息づき、雪解け水をたたえた清らかな川が大地を潤す、雄大で厳しい、しかし生命力に満ちた自然が支配する土地だった。領都ファルケンベルクも、石造りの堅牢な建物が多く、質実剛健な気風が感じられた。領民たちは、一見すると無愛想だが実直で温かく、新しい領主の伴侶となるかもしれない美しい紅玉色の髪の女性、ルベリアを、最初は遠巻きに警戒しながらも興味深げに見ていた。しかし、彼女が薬草の知識を活かして病人を手当てしたり、子供たちに王都の物語を読み聞かせたり、カイエンと共に領内を視察し、領民の声に真摯に耳を傾ける姿を見て、次第に心を開いていった。

カイエンの居城であるアドラーシュタイン城は、王宮のような華美な装飾はないが、黒い森を背に崖の上にそびえ立つ、まさに鷲の巣のような堅固な城だった。しかし、城内は意外にも温かく、機能的で居心地の良い空間が広がっていた。カイエンはルベリアを心から大切にし、彼女が「悪役令嬢」ではなく、ただの「ルベリア」として、ありのままの自分で生きられるように、あらゆる面で支えた。ルベリアは、生まれて初めて心の底からの安らぎと、揺るぎない幸福を感じていた。偽りの仮面を被る必要も、誰かの顔色を窺って警戒する必要もない。カイエンの深く、そして揺るぎない愛情が、彼女の長年凍てついていた心をゆっくりと、しかし確実に溶かしていった。彼女は城の傍に小さな温室を作り、再び薬草を育て始めた。その薬草は、すぐに領内の診療所で役立てられるようになった。

「カイエン様、わたくし、あなたに出会えて本当に良かった。あなたがいなければ、わたくしは修道院で心を枯らしてしまっていたでしょう」
夕焼けがドラッヘン山脈を茜色に染める頃、城のテラスでカイエンの腕に寄り添いながら、ルベリアは心からの言葉を伝えた。
「私もだ、ルベリア。君こそが、私の探し求めていた魂の伴侶、私の人生を照らす唯一無二の光だ。君のいない人生など、もう考えられない」
カイエンは優しくルベリアを抱きしめ、その夕焼け色の光を浴びて輝く紅玉の髪に、愛しさを込めて口づけを落とした。

一方、王都アステルダムでは大きな変化が静かに、しかし確実に起きていた。アルフレッド王子の寵愛を一身に受けていたセラフィナ・ミルフィーユの、その聖女のような仮面の下の化けの皮が、少しずつ剥がれ始めていたのだ。彼女はアルフレッド王子の名を盾に、自分の意に沿わない貴族を遠ざけ、些細なことで侍女を厳しく叱責し、高価な宝飾品やドレスを次々と要求した。その贅沢三昧と傲慢な振る舞いは、かつてのルベリアの「悪行」の噂を遥かに凌ぐ悪辣なものだった。民衆の間からも、「聖女セラフィナは偽物だったのではないか」「本当の悪女は彼女の方だ」という囁きが、次第に大きな声となって上がり始めていた。特に、彼女が主導した慈善事業が、実際には名ばかりで、集まった寄付金の多くが使途不明になっているという疑惑が持ち上がったことが決定的だった。

アルフレッド王子もまた、セラフィナの天使のような微笑みの裏に隠された本性に気づき始めていた。彼女の純粋そうに見えた翠色の瞳の奥に、計算高い野心と底知れぬ嫉妬深さ、そして強欲さが潜んでいることを。そして、彼は頻繁に思い出すようになっていた。ルベリアのことを。彼女が婚約破棄を告げられた時、取り乱すこともなく、ただ静かに、しかし凛とした態度で受け入れた姿を。彼女が密かに貧しい民を助けていたという、カイエンが掴んでいた情報を、今更ながら別のルートからも耳にした時の衝撃を。グレイ伯爵が眉をひそめながら報告してきた、セラフィナの最近の目に余る行動の数々。

自分は、取り返しのつかない、とんでもない過ちを犯したのではないか?
アルフレッドは、執務室で一人、初めて深い後悔の念に苛まれた。ルベリアの本当の姿を見ようともせず、周囲の悪意ある噂と、セラフィナの甘く巧みな言葉だけを信じて、彼女を一方的に断罪してしまった。彼女のあの紫水晶の瞳の奥にあった悲しみや孤独に、なぜ気づけなかったのだろうか。

ある日、アルフレッドは側近のグレイ伯爵を密かに呼びつけた。
「グレイ、アーベントロート領の様子を詳細に調べてこい。……ルベリア嬢が、そこで本当に…幸せに暮らしているのかどうかを。そして、彼女の評判もだ」
その声には、かつての自信に満ちた傲慢さはなく、どこか弱々しく、そして切実な響きがあった。

数週間後、グレイ伯爵が持ち帰った報告は、アルフレッドにとってさらなる衝撃と、そして痛切な後悔をもたらすものだった。ルベリアはアーベントロート辺境伯と深く愛し合い、領民からも「紅玉の聖女」と呼ばれて心から慕われ、穏やかで幸せに満ちた日々を送っているという。彼女が薬草の知識を活かして多くの人々を病から救い、カイエンと共に領地の発展に尽力していることまで。報告書には、領民たちが語るルベリアへの感謝の言葉や、彼女の優しい笑顔の写真まで添えられていた。

「そうか……彼女は、幸せなのか……。私の知らない場所で、私の知らない顔で…」
アルフレッドは執務室で一人、窓の外を見つめた。空は皮肉なほど青く澄み渡っている。彼が価値を理解できずに手放した紅玉の宝石は、別の場所で、彼が与えることのできなかった温かい光の中で、より一層美しく、そして力強く輝いていた。

セラフィナ・ミルフィーユとの婚約は、結局破棄された。彼女の数々の悪行が白日の下に晒され、ミルフィーユ家は貴族の地位を剥奪され没落した。アルフレッドは王太子としての地位は保ったものの、その心には大きな空虚感と、決して消えることのない後悔の念が深く刻まれた。彼は生涯、ルベリアへの償いきれない罪の意識を抱き続けることになるだろう。

そして、アーベントロート領では、雪解け水が春の訪れを告げる頃、ルベリアとカイエンのささやかな、しかし心温まる結婚式が執り行われた。王都のような華美な装飾や多数の貴族の列席はないが、アドラーシュタイン城の中庭には、ファルケンベルクの領民たちが大勢集まり、二人の門出を心からの笑顔と歌で祝福した。ルベリアは、カイエンから贈られた、アーベントロートの夕焼け空の色を映した赤銅色の宝石(それはカイエンの瞳の色でもあった)が中央に嵌められたシンプルな指輪を左手の薬指にはめ、カイエンの隣で、人生で最高の、一点の曇りもない笑顔を見せた。

偽りの仮面を脱ぎ捨て、真実の愛を見つけた紅玉の姫君は、誰よりも彼女を理解し愛してくれる黄昏の騎士と共に、アーベントロートの地で、新たな、そして輝かしい人生を歩み始めたのだった。彼女の薬草の知識はさらに深まり、多くの人々を救い、その名は国境を越えて「慈愛の辺境伯夫人」として語り継がれることになる。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

悪役令嬢は追放エンドを所望する~嫌がらせのつもりが国を救ってしまいました~

万里戸千波
恋愛
前世の記憶を取り戻した悪役令嬢が、追放されようとがんばりますがからまわってしまうお話です!

寵愛の花嫁は毒を愛でる~いじわる義母の陰謀を華麗にスルーして、最愛の公爵様と幸せになります~

紅葉山参
恋愛
アエナは貧しい子爵家から、国の英雄と名高いルーカス公爵の元へと嫁いだ。彼との政略結婚は、彼の底なしの優しさと、情熱的な寵愛によって、アエナにとってかけがえのない幸福となった。しかし、その幸福を妬み、毎日のように粘着質ないじめを繰り返す者が一人、それは夫の継母であるユーカ夫人である。 「たかが子爵の娘が、公爵家の奥様面など」 ユーカ様はそう言って、私に次から次へと理不尽な嫌がらせを仕掛けてくる。大切な食器を隠したり、ルーカス様に嘘の告げ口をしたり、社交界で恥をかかせようとしたり。 だが、私は決して挫けない。愛する公爵様との穏やかな日々を守るため、そして何より、彼が大切な家族と信じているユーカ様を悲しませないためにも、私はこの毒を静かに受け流すことに決めたのだ。 誰も気づかないほど巧妙に、いじめを優雅にスルーするアエナ。公爵であるあなたに心配をかけまいと、彼女は今日も微笑みを絶やさない。しかし、毒は徐々に、確実に、その濃度を増していく。ついに義母は、アエナの命に関わるような、取り返しのつかない大罪に手を染めてしまう。 愛と策略、そして運命の結末。この溺愛系ヒロインが、華麗なるスルー術で、最愛の公爵様との未来を掴み取る、痛快でロマンティックな物語の幕開けです。

婚約破棄ブームに乗ってみた結果、婚約者様が本性を現しました

ラム猫
恋愛
『最新のトレンドは、婚約破棄!  フィアンセに婚約破棄を提示して、相手の反応で本心を知ってみましょう。これにより、仲が深まったと答えたカップルは大勢います!  ※結果がどうなろうと、我々は責任を負いません』  ……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。  彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。  しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!? ※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています

断罪された悪役令息は、悪役令嬢に拾われる

由香
恋愛
断罪された“悪役令息”と、“悪女”と呼ばれた令嬢。 滅びを背負った二人が出会うとき、運命は静かに書き換えられる。 ――これは、罪と誤解に満ちた世界で、真実と愛を選んだ者たちの物語。

記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛

三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。 ​「……ここは?」 ​か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。 ​顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。 ​私は一体、誰なのだろう?

魔法学園の悪役令嬢、破局の未来を知って推し変したら捨てた王子が溺愛に目覚めたようで!?

朱音ゆうひ@11/5受賞作が発売されます
恋愛
『完璧な王太子』アトレインの婚約者パメラは、自分が小説の悪役令嬢に転生していると気づく。 このままでは破滅まっしぐら。アトレインとは破局する。でも最推しは別にいる! それは、悪役教授ネクロセフ。 顔が良くて、知性紳士で、献身的で愛情深い人物だ。 「アトレイン殿下とは円満に別れて、推し活して幸せになります!」 ……のはずが。 「夢小説とは何だ?」 「殿下、私の夢小説を読まないでください!」 完璧を演じ続けてきた王太子×悪役を押し付けられた推し活令嬢。 破滅回避から始まる、魔法学園・溺愛・逆転ラブコメディ! 小説家になろうでも同時更新しています(https://ncode.syosetu.com/n5963lh/)。

ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない

魚谷
恋愛
伯爵令嬢イザベラは多くの男性と浮名を流す悪女。 そんな彼女に公爵家当主のジークベルトとの縁談が持ち上がった。 ジークベルトと対面した瞬間、前世の記憶がよみがえり、この世界が乙女ゲームであることを自覚する。 イザベラは、主要攻略キャラのジークベルトの裏の顔を知ってしまったがために、冒頭で殺されてしまうモブキャラ。 ゲーム知識を頼りに、どうにか冒頭死を回避したイザベラは最弱魔法と言われる付与魔法と前世の知識を頼りに便利グッズを発明し、離婚にそなえて資金を確保する。 いよいよジークベルトが、乙女ゲームのヒロインと出会う。 離婚を切り出されることを待っていたイザベラだったが、ジークベルトは平然としていて。 「どうして俺がお前以外の女を愛さなければならないんだ?」 予想外の溺愛が始まってしまう! (世界の平和のためにも)ヒロインに惚れてください、公爵様!!

処理中です...