黎明のクォーツァイト、宵闇に愛を誓う

イアペコス

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序章:偽りの断罪、真実の幕開け

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王宮の大広間を満たすのは、天井から降り注ぐ幾千もの水晶のシャンデリアの光と、蜜蝋の甘い香り、そして弦楽四重奏の優雅な調べ。しかし、その調和は突如として引き裂かれた。

「セレスティアナ・フォン・クォーツァイト! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」

金糸の髪を怒りに震わせ、蒼い瞳に正義の色を浮かべて叫ぶのは、このアンバー王国の第一王子、イグニス・レクス・アンバー。その逞しい腕の中には、嵐の中の小鳥のように、庇護を求める可憐な少女が抱かれている。亜麻色の髪に蜜色の瞳が潤む、男爵令嬢フローレッタ・コランダムだ。

私、セレスティアナは、その声が自分の名を呼んだとはにわかに信じられない、という顔でゆっくりと王子を見上げた。扇で隠された口元は完璧な微笑みを保ったまま。背筋はどこまでもまっすぐに伸び、複雑に結い上げられた銀灰色の髪は、一筋の乱れもなかった。ルビーのように深い赤色の瞳だけが、冷徹な光で目の前の茶番劇を観察していた。

(……ああ、やはり。あなたの選んだ舞台は、これ以上ないほどに悪趣味ですわね、イグニス殿下)

周囲の喧騒が、ぴたりと止んだ。囁き合う声が、波紋のようにじわじわと広がっていく。
「まあ、なんてこと…クォーツァイト公爵令嬢が…」
「やはり噂は本当だったのね。あの方が、フローレッタ様にあんな酷いことを…」
「なんて恐ろしいお方なの…」

同情、好奇、そして侮蔑。無数の視線がナイフのように突き刺さるが、私には痛くも痒くもなかった。クォーツァイト公爵令嬢として生きてきたこの18年間、向けられてきた感情と何ら変わりはない。

イグニス王子は、まるで世界の中心で正義を執行する英雄気取りで、フローレッタの震える肩をさらに強く抱き寄せた。
「聞け、皆の者! 私がなぜこのような決断に至ったかを! このセレスティアナは、その底なしの嫉妬心から、天使のように心優しきフローレッタに、人知れず数々の嫌がらせを行ってきたのだ!」

王子の声が、大広間に響き渡る。

「学園で彼女の教科書をズタズタに引き裂き、夜会のために仕立てたドレスを汚水で汚し、挙句の果てには、この非力な彼女を階段から突き落とそうとまでした! これほど残虐で心の狭い女を、私は未来の国母として、我が隣に置くことは断じてできん!」

「ああ、イグニス様…」フローレッタが、イグニスの胸に顔を埋めてか細い声で呟く。「そんな…やめてくださいませ。私は、セレスティアナ様がそのようなことをなさるなんて、信じたくありません…! きっと何か、深いお考えがあってのことですわ…」

その健気な言葉が、群衆の同情をさらに煽る。誰もが彼女を哀れみ、私を悪魔のように見つめた。

(見事な演技。小劇団の主演女優にでもなれば、きっと大成するでしょうに)

私はゆっくりと、しかし毅然とした動きで扇を閉じた。パチン、と乾いた音が静寂を切り裂く。全ての視線が、再び私に集中した。

「イグニス殿下」

鈴を転がすような、しかし氷の刃を思わせる冷ややかさを含んだ声で呼びかけると、王子は「何だ」と吐き捨てるように言った。

「今更、何を言い訳するつもりだ。見苦しいぞ」

「言い訳? いいえ、とんでもございません。ただ、いくつかの事実確認をさせていただきたく存じます」私は完璧な笑みを浮かべた。「私がフローレッタ嬢を突き落とそうとした、その決定的な現場を、殿下ご自身がご覧になったわけではないようですわね。では、目撃者はいらっしゃるのかしら?」

私の冷静な問いに、会場が再びざわめく。イグニスは一瞬言葉に詰まり、視線をフローレッタに向けた。フローレッタはびくりと肩を震わせると、おずおずと震える指で、壁際に立つ一人の子爵令嬢を指差した。
「あ…あの方が、見ておられた、と…」

指名された令嬢は、真っ青な顔でサッと俯く。明らかに、事前に言い含められていたのだろう。その瞳が恐怖と罪悪感に揺れているのを、私は見逃さない。

「ほう。では、その方に証言を願いましょうか。この私、セレスティアナが、どのようにして、殿方に護衛されていらっしゃるこのか弱いフローレッタ嬢を、たった一人で手にかけようとしたというのか。その手口を、詳細に、皆の前でお聞かせいただきたいものですわ」

有無を言わせぬ圧力に、令嬢は引きつった声を上げた。「そ、その…階段の上で…セレスティアナ様が、フローレッタ様の後ろに立たれて…その、手を…」

「手を? 手を、どうしたというのです? 曖昧な証言では、何の証拠にもなりませんことよ。私が彼女の背中を押したと? 私のこの細腕で? それに、その時、彼女の隣には殿下の護衛騎士が控えていたはずですが、その騎士は一体何をしていたのかしら?」

畳み掛ける私の言葉に、イグニスが顔を真っ赤にして怒鳴った。
「黙れ! 言葉遊びはそこまでにしろ! 証拠なら他にもある! 貴様がフローレッタに送りつけたという脅迫状だ!」

侍従が恭しく差し出した銀盆の上には、確かに私の家の紋章が入った封蝋で封じられた手紙があった。しかし、その稚拙な筆跡と安物の羊皮紙を見た瞬間、私は思わずため息をつきそうになった。

「…殿下。本気でこれが私の筆跡だとお思いで? 私の師である宮廷書記官長がこれをご覧になったら、悲しみのあまり三日は寝込まれることでしょう。それに、クォーツァイト家では、このような粗悪な羊皮紙は便箋にすら使いませんわ。ご存知でしょう?」

「なっ…! どこまでも言い逃れる気か! その傲慢さが、貴様の罪を物語っている!」

「事実を申し上げているだけですのに。殿下こそ、長年婚約者であった私の言葉と、どこぞの馬の骨とも知れぬ男爵令嬢の涙、どちらを信じるか、もうお決めになった後でしたわね。大変、失礼いたしました」

私は完璧なカーテシーと共に、深く頭を下げた。その姿には、一片の隙も悲壮感もなかった。もはや、この男に何を言っても無駄だ。彼の瞳はフローレッタという甘い幻想に曇らされ、真実を見抜く力を完全に失っている。そして、この茶番劇の裏には、コランダム男爵家とそれに連なる新興貴族たちの思惑が黒い影のように渦巻いている。伝統あるクォーツァイト公爵家を追い落とし、王家との縁戚関係という蜜を手に入れようとする浅ましい欲望。私がフローレッタに「嫌がらせ」と称して行っていたのは、その陰謀の証拠を掴むための牽制と調査だったのだが、見事に全てを利用された形だ。

「…セレスティアナ・フォン・クォーツァイト。貴様の公爵令嬢としての身分を剥奪し、辺境の修道院への追放を命じる! これは王命である!」

イグニスの決定的な宣告に、会場が大きくどよめいた。私の父であるクォーツァイト公爵は、青い顔で俯いているだけで、助け舟を出そうとはしない。彼にとっては、王家の不興を買う出来損ないの娘よりも、家の安泰の方がよほど大事なのだろう。知っていたことだ。

孤独。絶対的な孤独が、私を包み込む。
しかし、私は顔を上げた。ルビーの瞳に、決して屈しないという強い意志の光を宿して。

「謹んで、お受けいたします。ですが、王命に背くことをお許しいただけるのでしたら、一つだけ願いがございます」

「…何だ」不審げなイグニスの声。

「私は修道院ではなく、自ら北の辺境地へ赴くことをお許しいただきたい。罪深き私が神に祈りを捧げるなど、おこがましいにも程がある。それよりも、痩せた土地を耕し、自らの汗で贖罪の証とすることの方が、よほど性に合っておりますので」

それは、哀れみによって与えられる道を拒絶し、自らの足で茨の道を選ぶという、私の最後のプライドだった。

イグニスは鼻で笑った。
「よかろう。温室育ちのお前に、北の荒野で何ができるか見ものだな。好きにするがいい! さっさと皆の前から消え失せろ!」

私は誰に頭を下げるでもなく、ただ前だけを見つめ、背筋を伸ばして大広間を後にした。背中に突き刺さる無数の視線を、まるで孔雀の羽のように誇らしく背負いながら。

重い扉が閉まる直前、ふと奇妙な視線を感じて横目を遣ると、大広間の隅、巨大な大理石の柱の影に立つ一人の男と目があった。漆黒の髪に、夜空の最も深い場所を切り取ったような藍色の瞳。彼は他の貴族たちのように嘲笑も同情も浮かべず、ただ静かに、まるで価値のある宝石でも鑑定するかのような、興味深げな眼差しで私を見つめていた。その男の名を、私はまだ知らなかった。
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