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第三章 ネックレスと指輪の魔術
謎のネックレス
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――ジェシカが居眠りする少し前のこと。
王都の商業地区にあるオンフィールド商会の支店で、出勤したばかりのユーグは副支店長のドナルドを呼んだ。
五歳上の彼は前からユーグの目付け役で、一緒にコノニー国支店に配属された。――道連れになったとも言うが。
「ユーグ、パーティーはどうだった?」
留守番だったドナルドは開口一番そう尋ねる。ユーグは土産のワインを渡して、
「いろいろあってさ、誘拐されるところをジェシカに助けられたんだ」
「は? 誘拐? 結婚披露パーティーだよな? なんでまたそんなことに」
「詳しくはあとでな」
目を見開いて驚くドナルドに笑ってから、ユーグは本ほどの大きさの平たい箱を取り出した。
スターサファイアのネックレスだ。ちょうどいい入れ物がなく、布で包んで筆記用具などを仕舞う道具入れに入れてきた。
ジェシカが気にしないように黙っていたが、あのスターサファイアは特級品で、それに揃えて作ったティアラやイヤリングも合わせるとなかなかの値段になる。商会でも高価な部類だった。
「魔術電信で姉さんに連絡を取りたいんだ」
魔術電信は料金は高いが、大陸間でも距離があってもすぐにメッセージを送れる。
専用の用紙を差し出して、ドナルドは表情を険しくする。
「何があった? こちらで対処できないトラブルか?」
「姉さんから借りたネックレスが荷物に紛れ込んでたんだ」
商会関連のトラブルではない。しかし、姉を知るドナルドには伝わった。
「あー、それは緊急だな。早く報告しないとマリアンヌは怒るだろうなぁ」
「だろ?」
用紙に記入するユーグの横で、ドナルドが箱を手に取った。
「これがネックレスか? ん? 軽くないか?」
「え?」
「中身は空だぞ?」
「ええっ!」
ユーグも箱を覗き込む。ビロードの布で包んだつもりが、布の中には何もない。
「そんな、馬鹿な! さっき俺が持った時には違和感がなかったぞ」
「さっきの今で、どこかに落とすなんてないだろう」
そう言いながらも周囲の床を見回すドナルド。ユーグも鞄の中をひっくり返した。
しかし、予想通り見つからない。
「ジェシカが、ネックレスのサファイアに魔力があると言ってたんだ。魔道具かもしれないって」
「じゃあ、魔術的な理由で消えたってことか?」
「それ以外考えられないだろ」
ユーグとドナルドはうなずき合う。
二人の頭に浮かんだことはひとつだ。
――ネックレスが見つからないならなおさら、すぐにマリアンヌに報告すべし。
ユーグは勢いよく机に向かったのだった。
::::::
一方。
ブラッドやミックと別れたジェシカは、登録管理課のある上階まで階段を登っていた。
そこで、身につけているローブの違和感に気づく。
魔術院には制服のローブがあるが、役職付きに着用義務はなく、ジェシカも自前のローブを着ている。
特注のローブは、内側に物をたくさん収納できるようになっている。魔術陣を描くための携帯用石版や水ペン、メモ帳、騎士団仕様の携帯食はアンに持たされたもので、ユーグからもらった防犯用の簡易攻撃魔道具も入っていた。ローブ全体に重さを軽減する魔術が仕込んであり、それだけ持ち歩いても普通のローブより軽かった。
音を立てないように小分けてしまってあるはずが、何かがかちゃりと音を立てたのだ。
「何かしら?」
踊り場で立ち止まってローブを探ると、石版が入っているポケットに何かがあった。
引っ張り出して、ジェシカは「まあ!」と声を上げた。
スターサファイアのネックレスだった。
ユーグに預けたはずで、彼は商会の金庫にしまうからと持って出勤した。
それがなぜここに?
「また魔力が増えているわね……。呪具? 私を追いかけてきているのかも。……もしかして私の魔力を吸い取っているのかしら。それならこの疲れも理解できるわ」
軽く揺らすとスターサファイアの星が瞬く。以前よりくっきりして見えるような気もした。
魔術師はどの魔術でも使えるけれど、系統があり、自分の系統魔術のほうが扱いやすい。ジェシカは光系統だった。星と親和性がある。
「このまま古代魔術研究課に持っていきたいけれど、ユーグに確認しないとダメね」
ジェシカはローブにネックレスをしまう。
そして階段を登り切ったところで、うずくまる女性を見つけたのだ。
::::::
「大丈夫ですか? 意識は?」
階段の上で座り込んだところで、誰かに声をかけられた。顔を上げられないまま、ラナはなんとか呻き声のような返事をした。
「うぅ、えぇ……」
手に触れられ、魔力が巡る。
「あ、私たちの魔力の相性は悪くはないみたい。良かった」
高い声は若い女性のものだ。魔力の相性がわかるなら相手も魔術師だ。――魔術院には一般職員もいた。
魔力が整ったおかげで吐き気が治まり、ラナはやっと顔を上げた。
「ジェシカ・ウィンドレイク……」
思わず相手の名前が口をつく。
三長老に可愛がられている若手有望株。最短で主任になった実力者。魔術師貴族の名門エイプリル伯爵と交流があり、ラナが所属する魔道具研究課の主任ルイスとも親しい。
魔術の面だけでなく、役職付きは貴族しかなれないルールを変えるため、署名を集めて魔術院上層部へ提案、さらには議会で発表までして実現させた、精力的な人物だった。
とにかく魔術院でジェシカを知らない者はいない。
面識のないラナに名前を当てられたことなど気にも止めず、ジェシカはラナの顔を覗き込む。
「歩けそうなら医務室まで肩を貸しますけど。誰か人を呼んできたほうが良いかしら?」
「あ、いえ、大げさにしないでもらえたら……」
「じゃあ、私が」
壁に縋って立ち上がると反対側をジェシカが支えてくれた。触れられたところからまた魔力が整っていく。
幸い医務室は近くだった。向かう途中で力尽きたのだ。
ジェシカが扉を開けて、中に声をかけると看護師がラナを支えて座らせてくれた。
ジェシカの手が離れるとまた吐き気が起こる。うっと口元を抑えたら、ジェシカは背中をさすってくれた。
ラナの様子を見た医師は、
「吐き気ですか? 原因に心当たりありますか?」
食中毒が疑われるときは報告する必要があるので、と続ける医師に、ラナは首を振った。
「まだ診てもらってないんですが……たぶん妊娠したのではないかと……」
「まあ! それなら、薬湯を用意しますね」
中年の看護師はそう言って微笑んだ。
彼女がどことなくうれしそうで、ラナは胸に刺さる。
「私でも調べられますが、どうしますか? 専門の医師のほうが良いなら、ここでは薬湯だけ出します」
「あ、はい。薬湯だけで大丈夫です」
体調不良以上の憂いを感じたのか、医師も看護師もラナを気遣うように見る。
「失礼なことを聞くかもしれませんが、望まない妊娠ですか?」
「いえ!」
ラナは弾かれたように否定する。
望んでいなかったわけじゃない。
「いいえ。……ただ、早すぎて……」
結婚したのは三ヶ月前。結婚は以前から決まっていたことで、仕事を続けてもいいと言われていたから、納得の上だ。でも、こんなに早く妊娠するとは思っていなかった。
「あの、できれば、このことは秘密にしていただけますか? 上司に報告しないでほしいんです」
「すみません。報告はしませんが記録は残さないわけにはいかないんですよ」
「そうなんですか……」
「でも、吐き気の症状とだけ記録しますね。妊娠云々は聞かなかったことにしましょう」
「はい! ありがとうございます!」
安心させるようにうなずいてくれた医師に、ラナは頭を下げる。
そこで、ずっと背中に手を当ててくれていたジェシカを振り返った。
「ウィンドレイク主任も秘密にしていただけませんか?」
「ええ、もちろん。というより、勝手に聞いてしまってごめんなさい」
「いいえ、ありがとうございます。……おかげでだいぶ楽になりました」
ジェシカは「良かった」と笑う。
その気さくな笑顔に惹かれて、ラナは思わず、
「主任も結婚されてますよね? 妊娠したらどうするかって考えてらっしゃいますか?」
「どうするか、とは?」
「だって、仕事は辞めないとならないですよね?」
「辞めないと……?」
ジェシカは考えてもなかったのか、首を傾げた。
「私まだ就職して二年なんです。せっかくなら認定研究員の資格を取りたかったのに、勤続十年なんてほど遠くて……」
魔術院に十年以上勤めた場合は辞めるときに認定研究員の資格が取れる。これがあれば魔術師協会で優遇が受けられるし、実力保証になるから市井で開業するにもどこかに勤めるにも困らない。
組織に向かない性質の者はだいたい十年で辞めるため、魔術院の研究員は入れ替わりが激しい。だから、毎年、高等専門学校からの新人を受け入れられる面もあった。
ラナも十年は勤めるつもりだった。それは夫にも話してあり、承諾を得ていた。性行為は妊娠しないように気を使っていたのだけれど……。
「そうよね……出産するときは休まないとならないものね……どのくらいの期間が必要なのかしら。子育ての期間もあるわよね。うーん、身近に出産した人がいないから、わからないわね……」
ジェシカは腕組みをして小声でぶつぶつ言っていたが、ラナには聞き取れなかった。
「あの、主任? すみません、私、不躾な質問を」
「いえ。ありがとう! 調べてみるから少し待っていて」
「はい?」
ジェシカはラナの両手を握って笑う。戸惑うラナに「参考に話を聞きたいから」と名前と所属を聞き出して、医務室から颯爽と出て行った。
::::::
自分の課に戻ったジェシカは、ミックに尋ねた。
「ねぇ、妊娠したら辞めないとならないって本当?」
「は?」
周りの席の研究員もいっせいにジェシカを振り返る。
「それは、どういうあれすかね」
「少し気になっただけよ」
探るように聞くミックにジェシカはごまかす。ラナのことは秘密にすると約束したから、迂闊なことは言えない。
「年単位の長期休暇って取れないのかしら」
「出産や育児のためってのはないっすね。修行のためなら、ありますよ」
「修行?」
ミックはなんでも知っている。初めて聞いたジェシカは説明を求めた。
「高等専門学校魔術科で初めて魔術に触れる人だと、誰とも師弟契約しないままってのも多いんすよ。だからその救済措置で、魔術院に入ってから師弟契約した場合に修行のために一年休みが取れるんです」
「そうなのね」
ジェシカにも師匠がいる。高等専門学校の進学相談を父がブラッドに持ちかけたため、入学前にエイプリル伯爵家門下の魔術師を紹介してもらったのだ。十年ほど前のことだ。当時独り立ちしたばかりの二十代半ばだった師匠は、ほどほどに箱入りだったジェシカに、魔術から買い食いまでいろいろ教えてくれた。今は地方都市で開業している。
「出産や育児でも休めるようにしないとダメね」
「また署名っすか」
ミックは、貴族でなくても役職に就けるように制度を変えたときのことを言っているのだろう。
ジェシカは首を振る。
「あんまり時間がないから、院長に直談判するわ」
「またっすか」
「また? 何かあった?」
「忘れたんすか! 新人のときに、年功序列はおかしい、やる気があるやつが役職に就くべきって院長室に乗り込んでたじゃないっすか!」
「ああ、それは何年も前のことじゃない」
「いや、何年経っても伝説ですよ」
ジェシカの前任のニルスがミックの向こうでうなずいている。書類仕事が大嫌い、会議で人に会いたくない、強制的に野外活動に参加させられるのも嫌という彼は、ジェシカの主任就任を両手を上げて喜んだ。
そのときの直談判のおかげで、院長はじめ三長老に気に入られたのだ。
「院長に直談判して……制度が整うまでどのくらい? ……念のため修行休暇も用意しておこうかしら。それなら、先に彼女に師匠がいないことを確認しなくちゃ」
小声で呟いていたジェシカだが、ミックに、
「その魔術登録の書類、受理されなかったんですか?」
「え?」
ジェシカも自分の手元を見た。登録管理課に行く途中でラナに行き合ったから、書類は研究室を出たときのままだ。
「提出するのを忘れてたわ」
ジェシカは慌てて大部屋を駆け出した。
夕方、終業時間になって、魔術陣・呪文研究課の内線が鳴った。受付からジェシカに来客だと言う。応対したミックがジェシカの研究室を訪ね、彼女がずっと戻っていないことが発覚した。
王都の商業地区にあるオンフィールド商会の支店で、出勤したばかりのユーグは副支店長のドナルドを呼んだ。
五歳上の彼は前からユーグの目付け役で、一緒にコノニー国支店に配属された。――道連れになったとも言うが。
「ユーグ、パーティーはどうだった?」
留守番だったドナルドは開口一番そう尋ねる。ユーグは土産のワインを渡して、
「いろいろあってさ、誘拐されるところをジェシカに助けられたんだ」
「は? 誘拐? 結婚披露パーティーだよな? なんでまたそんなことに」
「詳しくはあとでな」
目を見開いて驚くドナルドに笑ってから、ユーグは本ほどの大きさの平たい箱を取り出した。
スターサファイアのネックレスだ。ちょうどいい入れ物がなく、布で包んで筆記用具などを仕舞う道具入れに入れてきた。
ジェシカが気にしないように黙っていたが、あのスターサファイアは特級品で、それに揃えて作ったティアラやイヤリングも合わせるとなかなかの値段になる。商会でも高価な部類だった。
「魔術電信で姉さんに連絡を取りたいんだ」
魔術電信は料金は高いが、大陸間でも距離があってもすぐにメッセージを送れる。
専用の用紙を差し出して、ドナルドは表情を険しくする。
「何があった? こちらで対処できないトラブルか?」
「姉さんから借りたネックレスが荷物に紛れ込んでたんだ」
商会関連のトラブルではない。しかし、姉を知るドナルドには伝わった。
「あー、それは緊急だな。早く報告しないとマリアンヌは怒るだろうなぁ」
「だろ?」
用紙に記入するユーグの横で、ドナルドが箱を手に取った。
「これがネックレスか? ん? 軽くないか?」
「え?」
「中身は空だぞ?」
「ええっ!」
ユーグも箱を覗き込む。ビロードの布で包んだつもりが、布の中には何もない。
「そんな、馬鹿な! さっき俺が持った時には違和感がなかったぞ」
「さっきの今で、どこかに落とすなんてないだろう」
そう言いながらも周囲の床を見回すドナルド。ユーグも鞄の中をひっくり返した。
しかし、予想通り見つからない。
「ジェシカが、ネックレスのサファイアに魔力があると言ってたんだ。魔道具かもしれないって」
「じゃあ、魔術的な理由で消えたってことか?」
「それ以外考えられないだろ」
ユーグとドナルドはうなずき合う。
二人の頭に浮かんだことはひとつだ。
――ネックレスが見つからないならなおさら、すぐにマリアンヌに報告すべし。
ユーグは勢いよく机に向かったのだった。
::::::
一方。
ブラッドやミックと別れたジェシカは、登録管理課のある上階まで階段を登っていた。
そこで、身につけているローブの違和感に気づく。
魔術院には制服のローブがあるが、役職付きに着用義務はなく、ジェシカも自前のローブを着ている。
特注のローブは、内側に物をたくさん収納できるようになっている。魔術陣を描くための携帯用石版や水ペン、メモ帳、騎士団仕様の携帯食はアンに持たされたもので、ユーグからもらった防犯用の簡易攻撃魔道具も入っていた。ローブ全体に重さを軽減する魔術が仕込んであり、それだけ持ち歩いても普通のローブより軽かった。
音を立てないように小分けてしまってあるはずが、何かがかちゃりと音を立てたのだ。
「何かしら?」
踊り場で立ち止まってローブを探ると、石版が入っているポケットに何かがあった。
引っ張り出して、ジェシカは「まあ!」と声を上げた。
スターサファイアのネックレスだった。
ユーグに預けたはずで、彼は商会の金庫にしまうからと持って出勤した。
それがなぜここに?
「また魔力が増えているわね……。呪具? 私を追いかけてきているのかも。……もしかして私の魔力を吸い取っているのかしら。それならこの疲れも理解できるわ」
軽く揺らすとスターサファイアの星が瞬く。以前よりくっきりして見えるような気もした。
魔術師はどの魔術でも使えるけれど、系統があり、自分の系統魔術のほうが扱いやすい。ジェシカは光系統だった。星と親和性がある。
「このまま古代魔術研究課に持っていきたいけれど、ユーグに確認しないとダメね」
ジェシカはローブにネックレスをしまう。
そして階段を登り切ったところで、うずくまる女性を見つけたのだ。
::::::
「大丈夫ですか? 意識は?」
階段の上で座り込んだところで、誰かに声をかけられた。顔を上げられないまま、ラナはなんとか呻き声のような返事をした。
「うぅ、えぇ……」
手に触れられ、魔力が巡る。
「あ、私たちの魔力の相性は悪くはないみたい。良かった」
高い声は若い女性のものだ。魔力の相性がわかるなら相手も魔術師だ。――魔術院には一般職員もいた。
魔力が整ったおかげで吐き気が治まり、ラナはやっと顔を上げた。
「ジェシカ・ウィンドレイク……」
思わず相手の名前が口をつく。
三長老に可愛がられている若手有望株。最短で主任になった実力者。魔術師貴族の名門エイプリル伯爵と交流があり、ラナが所属する魔道具研究課の主任ルイスとも親しい。
魔術の面だけでなく、役職付きは貴族しかなれないルールを変えるため、署名を集めて魔術院上層部へ提案、さらには議会で発表までして実現させた、精力的な人物だった。
とにかく魔術院でジェシカを知らない者はいない。
面識のないラナに名前を当てられたことなど気にも止めず、ジェシカはラナの顔を覗き込む。
「歩けそうなら医務室まで肩を貸しますけど。誰か人を呼んできたほうが良いかしら?」
「あ、いえ、大げさにしないでもらえたら……」
「じゃあ、私が」
壁に縋って立ち上がると反対側をジェシカが支えてくれた。触れられたところからまた魔力が整っていく。
幸い医務室は近くだった。向かう途中で力尽きたのだ。
ジェシカが扉を開けて、中に声をかけると看護師がラナを支えて座らせてくれた。
ジェシカの手が離れるとまた吐き気が起こる。うっと口元を抑えたら、ジェシカは背中をさすってくれた。
ラナの様子を見た医師は、
「吐き気ですか? 原因に心当たりありますか?」
食中毒が疑われるときは報告する必要があるので、と続ける医師に、ラナは首を振った。
「まだ診てもらってないんですが……たぶん妊娠したのではないかと……」
「まあ! それなら、薬湯を用意しますね」
中年の看護師はそう言って微笑んだ。
彼女がどことなくうれしそうで、ラナは胸に刺さる。
「私でも調べられますが、どうしますか? 専門の医師のほうが良いなら、ここでは薬湯だけ出します」
「あ、はい。薬湯だけで大丈夫です」
体調不良以上の憂いを感じたのか、医師も看護師もラナを気遣うように見る。
「失礼なことを聞くかもしれませんが、望まない妊娠ですか?」
「いえ!」
ラナは弾かれたように否定する。
望んでいなかったわけじゃない。
「いいえ。……ただ、早すぎて……」
結婚したのは三ヶ月前。結婚は以前から決まっていたことで、仕事を続けてもいいと言われていたから、納得の上だ。でも、こんなに早く妊娠するとは思っていなかった。
「あの、できれば、このことは秘密にしていただけますか? 上司に報告しないでほしいんです」
「すみません。報告はしませんが記録は残さないわけにはいかないんですよ」
「そうなんですか……」
「でも、吐き気の症状とだけ記録しますね。妊娠云々は聞かなかったことにしましょう」
「はい! ありがとうございます!」
安心させるようにうなずいてくれた医師に、ラナは頭を下げる。
そこで、ずっと背中に手を当ててくれていたジェシカを振り返った。
「ウィンドレイク主任も秘密にしていただけませんか?」
「ええ、もちろん。というより、勝手に聞いてしまってごめんなさい」
「いいえ、ありがとうございます。……おかげでだいぶ楽になりました」
ジェシカは「良かった」と笑う。
その気さくな笑顔に惹かれて、ラナは思わず、
「主任も結婚されてますよね? 妊娠したらどうするかって考えてらっしゃいますか?」
「どうするか、とは?」
「だって、仕事は辞めないとならないですよね?」
「辞めないと……?」
ジェシカは考えてもなかったのか、首を傾げた。
「私まだ就職して二年なんです。せっかくなら認定研究員の資格を取りたかったのに、勤続十年なんてほど遠くて……」
魔術院に十年以上勤めた場合は辞めるときに認定研究員の資格が取れる。これがあれば魔術師協会で優遇が受けられるし、実力保証になるから市井で開業するにもどこかに勤めるにも困らない。
組織に向かない性質の者はだいたい十年で辞めるため、魔術院の研究員は入れ替わりが激しい。だから、毎年、高等専門学校からの新人を受け入れられる面もあった。
ラナも十年は勤めるつもりだった。それは夫にも話してあり、承諾を得ていた。性行為は妊娠しないように気を使っていたのだけれど……。
「そうよね……出産するときは休まないとならないものね……どのくらいの期間が必要なのかしら。子育ての期間もあるわよね。うーん、身近に出産した人がいないから、わからないわね……」
ジェシカは腕組みをして小声でぶつぶつ言っていたが、ラナには聞き取れなかった。
「あの、主任? すみません、私、不躾な質問を」
「いえ。ありがとう! 調べてみるから少し待っていて」
「はい?」
ジェシカはラナの両手を握って笑う。戸惑うラナに「参考に話を聞きたいから」と名前と所属を聞き出して、医務室から颯爽と出て行った。
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自分の課に戻ったジェシカは、ミックに尋ねた。
「ねぇ、妊娠したら辞めないとならないって本当?」
「は?」
周りの席の研究員もいっせいにジェシカを振り返る。
「それは、どういうあれすかね」
「少し気になっただけよ」
探るように聞くミックにジェシカはごまかす。ラナのことは秘密にすると約束したから、迂闊なことは言えない。
「年単位の長期休暇って取れないのかしら」
「出産や育児のためってのはないっすね。修行のためなら、ありますよ」
「修行?」
ミックはなんでも知っている。初めて聞いたジェシカは説明を求めた。
「高等専門学校魔術科で初めて魔術に触れる人だと、誰とも師弟契約しないままってのも多いんすよ。だからその救済措置で、魔術院に入ってから師弟契約した場合に修行のために一年休みが取れるんです」
「そうなのね」
ジェシカにも師匠がいる。高等専門学校の進学相談を父がブラッドに持ちかけたため、入学前にエイプリル伯爵家門下の魔術師を紹介してもらったのだ。十年ほど前のことだ。当時独り立ちしたばかりの二十代半ばだった師匠は、ほどほどに箱入りだったジェシカに、魔術から買い食いまでいろいろ教えてくれた。今は地方都市で開業している。
「出産や育児でも休めるようにしないとダメね」
「また署名っすか」
ミックは、貴族でなくても役職に就けるように制度を変えたときのことを言っているのだろう。
ジェシカは首を振る。
「あんまり時間がないから、院長に直談判するわ」
「またっすか」
「また? 何かあった?」
「忘れたんすか! 新人のときに、年功序列はおかしい、やる気があるやつが役職に就くべきって院長室に乗り込んでたじゃないっすか!」
「ああ、それは何年も前のことじゃない」
「いや、何年経っても伝説ですよ」
ジェシカの前任のニルスがミックの向こうでうなずいている。書類仕事が大嫌い、会議で人に会いたくない、強制的に野外活動に参加させられるのも嫌という彼は、ジェシカの主任就任を両手を上げて喜んだ。
そのときの直談判のおかげで、院長はじめ三長老に気に入られたのだ。
「院長に直談判して……制度が整うまでどのくらい? ……念のため修行休暇も用意しておこうかしら。それなら、先に彼女に師匠がいないことを確認しなくちゃ」
小声で呟いていたジェシカだが、ミックに、
「その魔術登録の書類、受理されなかったんですか?」
「え?」
ジェシカも自分の手元を見た。登録管理課に行く途中でラナに行き合ったから、書類は研究室を出たときのままだ。
「提出するのを忘れてたわ」
ジェシカは慌てて大部屋を駆け出した。
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ある日前世の記憶が甦ったクラリスは悟る。若いクラリスにこんな状況はもったいない。白い結婚を理由に円満離婚をして、夫には王女と幸せになってもらおうと決意する。そして、離婚後は田舎でもふもふカフェを開こうと……!
そのためにこっそり仕事を始めたものの、ひょんなことから夫と友達に!?
「好きな相手とどうやったらうまくいくか教えてほしい」
初恋だった夫。胸が痛むけど、お互いの幸せのために王女との仲を応援することに。
でもなんだか様子がおかしくて……?
不器用で一途な夫と前世の記憶が甦ったサバサバ妻の、すれ違い両片思いのラブコメディ。
※5/19〜5/21 HOTランキング1位!たくさんの方にお読みいただきありがとうございます
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