異世界で守護霊になった

神田柊子

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異世界で守護霊になった

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 私の最後の記憶は風呂の中だ。
 その日私は久しぶりにお酒を飲んだ。前後不覚になるほど飲んだ。良い気分で風呂に入って、たぶん寝た。
 ……溺死かな?
 そして今、最初に目に入ったのは、ふわふわ飛んでいる半透明の蝶々。綺麗だなと思って無意識に伸ばした手は視界に入らなかった。
 不思議に思って顔を動かすけれど、思い通りにならない。
 寝ているベッドには木の柵がある。バタバタと動かして見えた自分の手は小さい。まるで赤ちゃんの手だ。
「あぁーうー」
 声は出るが言葉にならない。
「あらぁお嬢様ー、起きてしまいましたかー」
 間延びした話し方の中年女性が、私の顔を覗き込んだ。濃い緑の髪に同じ色の瞳。明らかに日本人ではない色合いだし、外国人でもこんな鮮やかな緑はない。
「ひっ」
 思わず息を飲む。
 え? まさか、まさかの、異世界転生だったり?
「う、うー」
「お嬢様、さあ、抱っこしましょうねぇ」
 よいしょっとかけ声をかけて、緑髪の女性が私を抱き上げる。半透明の蝶々はいつのまにか消えていた。
 私を抱き上げた女性はあやしながら窓辺に寄る。夜らしく、外は暗い。カーテンが開けられた窓に映った私は赤ちゃんだった。
 やっぱり異世界転生!!
「ぎゃあぁー!! あー!」
 心の叫びが泣き声になった瞬間。
 ばちんっと叩かれるような感覚がした。
 空中に弾き出された私は、泣き叫ぶ赤ちゃんと慣れた様子であやす緑髪の女性を見下ろす。
 え?
 自分の手は大きい。酒を飲んで風呂に入ったときと同じサイズ。ただし、透けていた。白い着物を着ている。足元がよく見えない。
 え? 幽霊?
 もう一度、窓を見るけれど、私は映っていない。
 転生できてないし、憑依もできてない。
 え?
 異世界で幽霊になってどうしろと?
 赤ちゃんの泣き声を聞きながら、泣きたいのは私の方だと思った。

:::::

 お嬢様――カトリーヌはすくすく成長した。
 私の幽霊歴も彼女の年齢とともに伸びていく。
 カトリーヌに乗り移ることはできない私だけれど、彼女から離れることもできなかった。半径十メートルくらいがせいぜい、カトリーヌの家はどこも一部屋が広すぎるため同じ室内から出られないことも多い。
 今のところ何もできていないけれど、私はカトリーヌの守護霊を自認していた。
 ただひたすらカトリーヌを守りたい。とにかくカトリーヌはかわいいのだ。
 カトリーヌは公爵令嬢らしい。
 それを初めて知ったとき、まさか悪役令嬢だったりしないよね、とドキドキしたけれど杞憂だった。生前の記憶にある乙女ゲームや小説に該当するものは思いつかない。――もちろん私の知らないコンテンツの可能性もあるけれど、カトリーヌはとても悪役に成長しそうにはなかった。
 カトリーヌは誰にでも優しく接する明るい女の子。両親からも使用人からも愛されている公爵家のアイドルだ。
 私もカトリーヌが大好きだった。
 幽霊生活の初めのころ、どうしたらいいのか途方にくれた。離れられないからカトリーヌを見ていることしかできなかった。
 ある日、カトリーヌが泣き出したのに乳母――緑髪の女性だ――が現れないときがあった。認識されていないし触れもしない私は何もできない。大声で泣くカトリーヌに困った私は、ポルターガイストやラップ音で誰かを呼べないかといろいろ試すうち、透明な蝶々を出せるのを発見した。この世界で目覚めた最初に見た蝶々だ。
 カトリーヌは私のことは見えないのに、その蝶々は見えるようで、ふわふわ飛ぶ蝶々に驚き、泣き止んだ。手を伸ばして顔を綻ばせる。その笑顔は天使かと思った。
 幽霊になってから何もできなかった私がこの世界に干渉できた。その感動も大きい。
 それから、私はカトリーヌの守護霊として生きる(?)ことを決めたのだ。
 赤ちゃんのころは私の出す蝶々が見えていたカトリーヌだったけれど、物心つくころには見えなくなってしまったらしい。
 魔法もなく、妖精や魔物なんかもいない世界。自分以外の幽霊にも会わない。
 カトリーヌに蝶々が見えなくなったのは寂しいけれど、みんなに見えないものが見えるなんて悩みをカトリーヌが抱えなくて良かったとも思う。
 たくさんの人から愛されて育つカトリーヌにとって、私の守護なんて些細なものだ。私の自己満足でいいのだ。そう思っていた。
 ――風向きが変わったのは、カトリーヌが十歳のとき。
 彼女の母、公爵夫人が病にかかったのだ。
 寝付いたと思ったら、あっという間に亡くなってしまった。
 火の消えたような屋敷で、カトリーヌは泣き暮らした。私は慰めることもできない。同じように悲嘆にくれた公爵は、仕事に逃避した。
 緑髪の乳母はすでに退職しており、カトリーヌを慰められるのは父親しかいないのに!
 憤慨した私はなんとかするべく夜遅く帰宅した公爵を待ち構える。眠っているカトリーヌの顔を見に来た公爵に、私はつきまとう。
(公爵! カトリーヌが起きているときに会いに来てあげてよ!)
 ポルターガイストもラップ音もできない私は必死で訴えるけれど、声は届かない。唯一私が出せる蝶々も公爵には見えない。
 透明な蝶々が飛び交う部屋で、公爵は涙の跡が残るカトリーヌの頬を撫でた。
「この子が寂しくないように……なんとかしないと」
 公爵はひとりごちる。
 伝わったの?
 そう安心した私が、違う!! そうじゃないー!! と叫ぶのは、公爵夫人の喪が明けた一年後だ。
 相変わらず留守がちな公爵は、親戚筋の未亡人を後妻に迎えた。前夫との間に生まれた娘二人を連れてきた後妻に、私は青ざめる。
 ここってシンデレラの世界だったの!?

:::::

 公爵が後妻を迎えてから五年経った。
 カトリーヌは十六歳。
 公爵は三年前、過労で倒れてそのまま亡くなった。それからは一気に変わってしまった。
 公爵の生前から、継母はカトリーヌを無視していた。公爵の前だけはかわいがるふりをしていた。義姉たちも同じだ。
 カトリーヌは公爵に心配かけまいと、継母たちから無視されていると言わなかったから、公爵は知らなかった。彼は亡き前妻を愛しており、後妻はカトリーヌの寂しさを紛らわせるためだけに迎えた。だから後妻に気を配ることはなかった。それが彼女の矜持を傷つけたのかもしれない。たまに帰ってきた公爵がカトリーヌに笑顔を向けるのを、後妻は影で睨んでいた。
 公爵が亡くなってから、家は後妻に乗っ取られてしまった。
 カトリーヌが継承権を持つ爵位は、彼女が成人するまで代理がたてられた。その一番近い親戚が、カトリーヌの祖父の弟の息子――継母の弟だった。悪人ではなさそうだったけれど姉に逆らえない性格なのか、継母から「私に任せて、お前は黙ってなさい」と言われたらあっさり引いてしまった。以来、一度もカトリーヌには会いに来ない。
 家を乗っ取った継母は、意見する古参の使用人を追い出し、カトリーヌをメイド扱いした。
「旦那様が残した借金があるのよ。旦那様が亡くなって、返せるあてがなくて……。ああ、旦那様はどうして、大変な問題を残して亡くなってしまったのかしら。……このままでは公爵家は潰れてしまうわ。使用人も減らさなくてはならないし、どうしたらいいのかしら」
 ことさらに父親のせいだと強調され、カトリーヌは半ば自らメイドの仕事を引き受けてしまった。
 ツヤを誇っていたストロベリーブロンドはぱさぱさになり、手も荒れ放題。公爵令嬢なのに朝から晩まで働くカトリーヌ。
 私は守護霊として情けなかった。何もできない。本当に何の役にも立たないのだ。
 もしかしたら、カトリーヌや公爵家の不幸は私が憑いているせいかもしれない。
 なんとかここから離れられないかと努力したけど無理だった。カトリーヌが両親の墓参りで教会に行っても私には影響なく、聖職者も私を祓ってくれるどころか気づきもしない。
 なんのためにこの世界に来たのか、全くわからなかった。
 ――今夜はお城の舞踏会だ。
 王子の婚約者を探すため、国中の貴族令嬢が招待されているらしい。継母は義姉たちを引き連れて舞踏会に出かけて行った。
 しかし、カトリーヌは留守番させられている。
「舞踏会か……。お父様とお母様はお城の舞踏会で知り合ったと聞いたことがあるわ。あのころは私もいつかって思っていたけれど……」
 屋根裏部屋のベッドに寝転んで、カトリーヌがつぶやく。
 私は彼女に見えない蝶々を出して、カトリーヌのお仕着せを飾る。
 ドレスも出せない。カボチャも馬車にできない。
 シンデレラの世界で、私はカトリーヌをヒロインにしてあげられない。
 私はどうしたらいいのだろう。

 舞踏会の翌日。
 いつものようにカトリーヌを呼びつけた義姉たちは、なにやら騒がしかった。
「昨日のあの方、どちらの家の令嬢だったのかしら」
「仮面舞踏会でもないのに、仮面だなんて」
「でも、目立っていたじゃない。王子殿下だって踊ってらしたし。あのくらいやらないとダメなのよ」
「どうせ、仮面をしなきゃ見られないお顔なんじゃないの?」
 衣装部屋にドレスを片付けるカトリーヌを横目に、義姉たちはだらしなくソファに座って話している。
 仮面の令嬢? なにそれ、と私は首を傾げる。
 十二時間際に舞踏会から逃げ出して、階段で仮面を落としたり?
 仮面ってガラス製じゃないよね?
 もっと詳しく聞きたかったのに、二人は王子じゃなく別の貴族令息の話に移ってしまった。意外に現実的な二人は高嶺の花には手を伸ばさない主義らしい。
「ねえ。カトリーヌ、それ終わったら、お茶の用意をしてちょうだい」
「お姉様、私、昨日教えてもらったマカロンが食べたいわ!」
「いいわねぇ。カトリーヌ、買ってきて」
「え?」
 戸惑うカトリーヌを押し退けて、長姉は衣装部屋に入ってドレスを一着持ち出す。
「このドレスはもういらないから、売ってきなさい。そのお金でマカロンを買ってくるのよ。このドレスなら、マカロン十個くらいかしら。十個よ、十個。ごまかしたら承知しないからね」
 二十個は買えるくらいの値段になるドレスを押し付けて、長姉は「多くても少なくてもダメよ」と繰り返す。次姉も「私たちはマカロン以外はいらないわ」と顎をそらす。
 義姉たちはときどきこういうことをする。
 カトリーヌはそうやって継母の知らないお金を少しずつ貯めていた。
 義姉たちはカトリーヌをこき使うけれど、他のメイドよりきつい仕事をさせることはない。継母から庇うこともないけれど、先んじて用事を押し付けてさりげなく遠ざける。
 でも、カトリーヌが親しくしようとするとぴしゃりと冷たい態度を取る。敵か味方か、どうにも決めかねる二人だった。

 下取りしてくれる服屋で、カトリーヌが店員とやり取りしている間、私はふらふらと店内をさまよっていた。何度も来ている店で、カトリーヌと店員は顔見知りだ。店員はカトリーヌを公爵令嬢だとは思っていないだろうけど。
 私がカトリーヌに似合いそうなドレスを物色していると、ドアベルが鳴った。
 入ってきたのは灰青色の髪の少年だった。大きな布袋を抱えている。
 私はちょうど彼とカウンターの間に浮かんでいた。進路妨害にあたるけれど、見えないしぶつからないのだからどうでもいい。人にすり抜けられることに慣れた私は避ける気にもならない。カトリーヌが絡まれないようにむしろ阻むつもりで、彼を見た。
「あ。失礼」
 少年はそう言って私を避けた。
(へ?)
 私が間の抜けた声を上げると、彼は改めて私を見た。
 目が合っている。
(え? 私のこと見えるの?)
「はい? 見えるのかって? もちろん見え、ます、が……透けてる? 浮かんで、る?」
 彼は目を見開いた。
(うそー! 見えるの!)
 思わず抱きついたけれど、私は彼をすり抜ける。
「ひぃぃー!」
 彼は悲鳴を上げて、倒れてしまった。
「きゃ! だ、大丈夫ですか?」
「お客様!」
「大変!」
 カトリーヌからすれば、一人でしゃべって突然倒れたおかしな人だろうに、彼女は店員と一緒に少年を介抱した。
 彼はすぐに目を覚ました。また倒れられては困るから、私は少し遠巻きに見る。
「お客様、大丈夫ですか?」
「ああ、はい。なんとか……ご迷惑をおかけしてすみません」
 起き上がった少年は、私を見て血相を変える。
 やっぱり私が見えてるんだ。
 確信した私は、慌てて店から出て行こうとする少年の前に立ち塞がる。
(お願い、話を聞いて。助けてほしいの)
 通り抜けることも押しのけることもできない彼を私は脅す。
(話を聞いてくれないと、呪うから!)
「のっ! やめてくれ!」
(呪われたくなかったら、話を聞いて。カトリーヌを助けて)
「カトリーヌ?」
「はい?」
 私の言葉を繰り返した少年に、カトリーヌが返事をする。
 彼は振り返ってカトリーヌを見た。
「っ!」
 少年は驚いた顔でカトリーヌを見て、また私を見た。
「あの、もしかして、どこかでお会いしたことが?」
 自分の名前を呼ばれたカトリーヌが恐る恐る少年に話しかけた。
 少年はカトリーヌより年下、十二、三歳に見える。きっちりした黒い服から考えると、どこかの貴族の使用人だろうか。公爵が健在のころ、執事の息子がこういう服装で公爵に付き従っていたのを思い出す。
(みんな私のことは見えないし声も聞こえないんだ。あなただけが私のこと見えるんだよねー。おかしく思われたくなかったら、適当に答えた方がいいよ)
 私がそう言うと、少年はカトリーヌに向き直って首を振った。
「いえ、ええと。とても似ている人を知っているので驚いて……」
「そうなんですか? その方がカトリーヌさん?」
「ええ」
「私もカトリーヌなんです。偶然ですね」
 カトリーヌは昔から変わらない天使のような笑顔を浮かべる。少年は頬を染めた。
(かわいいでしょ? 助けたくなるよね?)
 後ろから耳元で囁くと、彼はびくりと震えた。
 カトリーヌが店にいるうちに、話をつけないとならない。
 でも、何をどうしたらいい? 彼が誰だかわからないから、どこまで話していいのかわからない。
(呪われたくなかったら、明日の朝五時に東教会に来なさい!)
「スノード様、査定が終わりました」
 少年の無事を確かめてからカウンター内に戻っていた店員がカトリーヌを呼ぶ。
(私のこと見えるのはあなただけなんだから! 絶対に来て! カトリーヌのこと助けて)
 お金を受け取ったカトリーヌは少年に会釈して、店を出て行く。私は彼に念押ししてから、カトリーヌを追いかけてドアをすり抜けた。

:::::

 エディは主人の元に戻ると、今日のことを報告した。
「ドレスを売るのはやめました」
「へー。エディ、また女装してくれるの?」
「まさか! 嫌ですよ。二度と女装なんてしません!」
 似合っていたのに、と笑う主人をエディは遠慮なく睨む。
 エディの主人である王弟ウィルソンは、睨まれたくらいでは何とも思わない。
 侯爵家の三男のエディは家を継ぐでもなく嫡男のスペアとして待機する必要もないため、早々に家を出た。騎士には向かない自覚があったエディは、内政大臣を務めるウィルソンの侍従になった。いずれは側近を目指している。
「全部ウィル様のせいじゃないですか!」
 昨日、城で開かれた舞踏会にエディはウィルソンのパートナーとして参加した。チェスで負けた罰で女装させられたのだ。ドレスを着て仮面をつけたエディは、なぜか王子に気に入られてしまった。
「王子殿下が僕をダンスに誘ったときにウィル様が断ってくれたら、こんな面倒なことにならなかったんですよ!」
 さっさと男だとばらしてしまえば良かった。
 一度踊っただけの仮面令嬢を王子は必死に探している。ウィルソンの元に朝からやってきて、あれは誰だ、紹介してくれと迫っていた。ウィルソンの後ろに控えるエディが当人だとは全く気づかない。王子の鬼気迫る勢いに、男だったとわかったら罰されるのではないかと思うと、今さら名乗り出るのは怖い。
 とりあえずドレスを手放そうと出かけた先で、おかしなことに出会ってしまった。
「亡くなられたスノード公爵とウィル様は親しくされてましたよね?」
 突然の話題転換に首を傾げながら、ウィルソンはうなずいた。
「ああ。デリックとは学友だったからね」
「ドレスを売りに行った店で、スノード家のメイドらしき人と会ったのですが……カトリーヌを助けてくれと頼まれまして……」
 幽霊に、とは言い出せなかった。
 しかも、カトリーヌというメイドと幽霊はそっくりだった。カトリーヌの身体から魂が抜け出ているのかと思ったくらいだ。ただ、表情や話し方は全く違っていたけれど。
 エディは霊感があるわけではない。幽霊を見たのは初めてだ。彼女もエディ以外とは話せないと言っていた。
 呪うと脅されたが怖くはなかった。すがるような顔で助けてと繰り返していたのが、心に残っている。
「スノード家のカトリーヌ? それはデリックの娘だな」
「公爵令嬢ですか……やっぱり。メイドにしては美人だったので。助けてくれと言われたこともあって、おかしいと思ったんです」
 ウィルソンは顎を撫でて、
「デリックは再婚したんだ。カトリーヌは前妻の娘。デリックが亡くなってから肩身の狭い思いをしていても不思議じゃない」
「調べてみてもいいでしょうか。彼女を助けることで僕も助かるかもしれないので」
「なるほど。それでドレスを売らずに帰ってきたのか」
 エディの意図を全て察したウィルソンは大きくうなずいた。

:::::

 毎月、両親の月命日にカトリーヌは早起きして教会に出かける。
 カトリーヌがこっそり公爵邸の裏口から出ると、馬車が待っていた。以前、公爵家で御者をしていた者だった。継母に断りなくカトリーヌを送迎したことで公爵家を辞めさせられたけれど、彼は辻馬車の御者になって以降もこっそりカトリーヌを送迎し続けていた。
「いつもありがとう」
「いえ、お嬢様。俺は旦那様に返しても返しきれない恩があるもんで、旦那様の大切なお嬢様のためなら、どこまでもお送りしますよ」
 老年に近い御者は日に焼けた顔に笑みを浮かべて、カトリーヌが墓地に入って行くのに付き添う。
 まだ明け切らない中、二人の背中を見送って私は教会の前に向かった。幽霊と墓地で待ち合わせするのはさすがに嫌だろうと配慮した結果だ。私がカトリーヌから離れても大丈夫なギリギリの距離だった。
 服屋で会った灰青色の髪の少年は私を待っていてくれた。
 無視されても、私は彼を呪ったりできない。彼が来てくれたことにほっとする。
「おはようございます」
(あ。うん、……おはよう、ございます)
 ぎこちなく答えると、怪訝な顔を向けられる。
(挨拶なんて、幽霊になって初めてだから! ていうか、誰かと話すのが初めてだし!)
 そう言い訳すると、彼はどことなく痛ましげに私を見る。
「それは……生まれて初めてということでしょうか?」
(生まれてじゃなくて、死んでから?)
「亡くなった記憶があるのですか?」
(あーまあー、あるようなないような)
 泥酔して風呂で寝落ちしたところまでなら覚えている。
(私の話はいいんだって。カトリーヌのこと!)
 私が言うと、少年はうなずく。
「少し調べさせていただきました。あなたが助けてとおっしゃっているのは、スノード公爵令嬢カトリーヌ様でよろしいでしょうか」
(そうだけど、調べたって、どうやって? そもそもあなたって誰なの?)
 昨日の今日だし、何も説明していないのに。
 不審に思った私に、少年は姿勢を正した。
「失礼しました。僕は王弟殿下の侍従をしておりますエディ・クルーズと申します」
(王弟殿下? あー、公爵の友だちだっけ? カトリーヌが小さいころ遊びに来たことがあったと思うけど)
 巨大な馬のぬいぐるみをカトリーヌにプレゼントしてくれた人だ。王弟なんて偉い肩書きのわりに気さくな印象だった。
「はい、そのお話は殿下から伺いました。……あなたは昔からカトリーヌ様とご一緒におられるんですね。そういうあなたは、どなたでしょうか?」
(私はカトリーヌの守護霊)
「守護霊、ですか」
 胸を張った私にエディは面食らったような顔をした。
(何なの。守護霊で文句があるの?)
「いいえ。では、お名前は?」
(梨々香)
「リリカ様」
 幽霊になって十六年。名前を呼ばれて、私は涙が出そうになった。
(リリカでいい。敬語もいらない)
「それなら、リリカ。――公爵令嬢のカトリーヌ様がなぜメイドの格好をしてるんだ?」
 それでやっと私はカトリーヌの窮状を訴えることができたのだ。

:::::

 今までが嘘のように話は進んだ。
 私がエディと話した翌々日、王弟が公爵家にやってきた。
「デリックの娘に会いたい。出かけているならいつまでも待つし、体調を崩しているなら王宮医師を手配しよう」
 テコでも動かない様子でそう言われてしまうと、継母も何も言えなかったようだ。この辺りはあとからエディに聞いた話だ。
 私が知っているのは、長姉の部屋の掃除をしていたカトリーヌの元に継母がやってきたところからだ。
「カトリーヌ! 何をやっているの!」
 あんたの娘に言い付けられた掃除だよ! と私は継母の背中を蹴る仕草をする。すり抜けた私の足をお腹から生やした継母は、ソファで寛いでいた長姉にカトリーヌにドレスを貸すように言った。
「ええ? どうしてですの?」
「王弟殿下がいらしてるの。なんでもいいから早くしなさい。……確かに旦那様と殿下はご友人だと聞いたことがあるけれど、今まで音沙汰なかったのに……」
 エディが王弟に話してくれたんだ!
 早く彼に会いに行きたかったけれど、カトリーヌが移動しないと私はこの部屋から出られない。
 イライラと急かす継母を睨みながら、私も気が逸って部屋の中を行ったり来たりしてしまった。
 長姉が選んだのはミモザ色のドレスだった。明るい黄色にカトリーヌの顔色が少し良く見える。若干サイズが合っていないことも気にならない。
 継母はメイドにカトリーヌの髪と顔を整えさせ、カトリーヌと密かに仲良くしているメイドは指示された以上に腕を発揮した。
 王弟は玄関ホールのソファにいた。いくら継母でも応接室に通さないことはないだろう。王弟の長居はしない意思表示か。
 階段を降りるカトリーヌを私は上から見守った。不要な演出だけれど、私にできることはこれしかないから、透明な蝶々を飛ばす。
「うわ、蝶々が!」
 調子に乗って視界が埋まるほどの蝶々を出したところ、エディの悲鳴が聞こえた。
 私は慌てて蝶々を消して、ホールに降りる。エディはソファの脇に立っていた。
(エディは蝶々も見えるの?)
「ああ」
 小声でうなずくエディを見て、王弟が小さく噴き出した。エディの視線を辿った王弟は私の顔の辺りに目を向ける。私が見えているわけではなさそうだった。
「殿下。カトリーヌですわ」
 継母が声をかけると、王弟はゆっくりと立ち上がった。
 カトリーヌは綺麗な礼をする。家庭教師がつかなくなってからも、彼女は屋根裏部屋でよく復習をしていた。
「久しぶりだね。カトリーヌ。覚えているかい、ずっと小さなころに一度会ったことがあるのだけれど」
「申し訳ごさいません。何分幼いころでしたので……。殿下とお会いしたことは覚えておりませんが、いただいたぬいぐるみはずっと大事にしておりました」
 そうだった。公爵が亡くなるまでカトリーヌの部屋には、巨大な馬のぬいぐるみが飾ってあった。
「それは、ありがとう」
 王弟は笑みを深め、カトリーヌの手を取る。
「そろそろ社交界デビューの年ごろだろう。私はデリックに頼まれていたんだよ」
「父にですか?」
「君に良縁を紹介するって約束だった」
 戸惑うカトリーヌをエスコートして、王弟は外へ出る扉に向かう。エディがさっとそれを開いた。
 はっと我に返った継母が、
「殿下! お待ちください! カトリーヌをどちらへ?」
「私の屋敷だよ。そういう約束だ」
「わたくしは夫から聞いておりません!」
「それはそうだろう。私とデリックの密約だからね」
「そんな、困ります」
 開いた扉から届く明るい光の中に立って、王弟は継母を振り返った。
「何も心配することはない。カトリーヌは良縁を得て、公爵位の継承も滞りなく行われる。スノード公爵家はますます発展することだろう。あなた方がでしゃばることがなければ、だが」
 カトリーヌは不安そうに王弟を見た。
「殿下、私は……」
「君も心配はいらない。君が良縁だと思う男が現れるまで、何人でも紹介できるよ」
 なにそれ。逆に不安。
 思わずエディを見ると、気づいた彼も私を見た。
(本当に大丈夫なの?)
「ウィル様は余計なことを……」
 王弟に向かってため息をついてから、エディはカトリーヌに、
「カトリーヌ様、あなたを助けてほしいと頼まれたのです。お心当たりはありませんか?」
 カトリーヌは首を傾げた。彼女に心当たりがあるわけない。思いついたとしても、元執事や乳母だろう。
 そう思っていたのに。
 カトリーヌはエディに尋ねた。
「あなたは先ほど蝶々とおっしゃいましたか?」
「ええ」
「私を助けてと頼んだのは、蝶々に縁のある方でしょうか?」
「はい」
(カトリーヌ、蝶々のこと覚えてるの?)
「蝶々を覚えているのか、とおっしゃっています」
 エディが通訳してくれた。彼の視線の先にいる私に、カトリーヌも顔を向ける。
「そちらにいらっしゃるのですね」
(カトリーヌ……)
「小さなころから、鏡や窓を見ると不思議な蝶々が映ることがありました。一人で寂しいときは必ず。慰めるように私の周りをひらひら飛んでいたのです。いつも誰かが私を見守っていてくれるのだと思っていました。ありがとうございます」
(カトリーヌ!)
「あなたが頼んでくださったのなら、王弟殿下は信頼できます」
 カトリーヌは私の顔の少し下あたりを見つめて、天使のように微笑んだ。
 それから、王弟に頭を下げる。
「私からもお願いいたします。どうか私を、私たちを助けてください」
「承った。デリックとの友情にかけて、君たちを助けよう」
 頼もしくうなずいた王弟が、エディから聞くまで友人の娘のことなどさっぱり忘れていたなんて、私には全くわからなかった。たいした友情だ。

::::

 カトリーヌ・スノードは王子と婚約した。
 父を亡くした悲しみで声が出せず、泣いて腫れた目を仮面で隠していたカトリーヌは、舞踏会で王子と出会った。仮面をつけたカトリーヌの心の美しさに惹かれた王子は、彼女を探し出し求婚した。王子の想いが彼女の悲しみを癒して、声と笑顔を取り戻したカトリーヌは仮面を外し、求婚を受け入れた。王子は彼女の素顔に再び恋に落ちたそうだ。
「ということにしておきました。結婚式までには国中に広まっているでしょう」
 エディが報告するとウィルソンは「いい話だね」とうなずいた。
「王子の視点ではこれが真実ですからね」
 ウィルソンは本当に何人でも紹介するつもりだったらしいが、カトリーヌは王子を気に入ってくれた。仮面令嬢を任せることができて、エディも心底ほっとした。
 意外に強かだったカトリーヌは、ウィルソンたちと口裏を合わせるのも平気でこなした。
 どちらかといえばリリカの方が戸惑っていた。
(カトリーヌ、微笑みながら嘘つけるなんて……)
 私の天使が、とつぶやいて肩を落としていたリリカはカトリーヌが王子の求婚を受け入れた瞬間に消えてしまった。
 リリカも予想外だったのだと思う。カトリーヌの幸せを喜んでいた顔が驚きに変わり、別れの言葉もないまま、最後にエディに手を振っていた。リリカはたくさんの蝶々になって、空に飛んでいった。桃色がかった金色の蝶々はエディにしか見えなかった。
 カトリーヌもリリカも知らないようだったが、デリック・スノードの娘は双子だった。カトリーヌは無事生まれたが、もう一人は死産だった。スノード公爵家を調べたときにエディは知った。
 カトリーヌにそっくりだったリリカは死産だった娘の幽霊なのでは、とエディは考えた。
 リリカはカトリーヌの姉妹の自覚はなく、カトリーヌよりも年上のような口ぶりだった。カトリーヌが赤子のときから、リリカは大人の精神だったらしい。――エディから見たリリカはカトリーヌと同じ十六歳だったのに。不思議だったけれど、リリカの存在全てが不思議だから、一つ増えたところで些細なものだ。
 リリカが消えたことをエディから聞いたカトリーヌは、泣きながら、微笑んだ。
「今度はリリカ自身の幸せを探してほしいわ」
 喪失感ならエディの方が深刻だったかもしれない。
 顔の造りだけはそっくりなカトリーヌを見るのも嫌で、隣国に留学しようかと思ったくらいだ。

 王子とカトリーヌの結婚式から一年後、待望の御子が誕生した。産声が上がった瞬間、透明な蝶々が部屋中を舞ったのを居合わせたみんなが目撃した。神の祝福だと巷間には伝わっている。
 ――母カトリーヌによく似た王女はリリアーヌと名付けられ、後の宰相エディ・クルーズと年の差を乗り越えて結婚、幸せに暮らしたという。


終わり
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