雪鉄

鳥丸唯史(とりまるただし)

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かまくらの老人

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 真夜中、尿意で目が覚め身を震わせた。妻は背を向けている。子どもが二人できてからセックスレスになりこの状態。

 トイレから戻ろうとして、足を止めた。かまくらから明かりが漏れていた。

 すぐ夢に落ちるように維持させていた眠気を飛ばす。ジャンパーを着て、上司から昇進祝いでプレゼントされたゴルフクラブを玄関の物置から出した。すっかり埃かぶっている。

 まずは姿だけこっそり確認しよう。警察を呼ぶかどうかは相手を見定めてからでも遅くはない。
 雪を踏む音を極力鳴らさないように、ゆっくりと近づいた。明かりの正体はランタンのようだ。

 中腰になって見ると、いたのは老人だった。

「どなたですか?」
「おお、よく来たな。入って入って」

 老人は堂々とくつろいでいて、私を見ても動じなかった。ぼさぼさの白髭に黄ばんだ前歯。格好はドラマ「北の国から」の五郎を彷彿させた。急に「るーるーるー」とキツネを呼ぼうとしだしても不思議ではない。

 ホームレスだ。警察を呼ぶまでもないだろうが、放っておくのもよくない。ここは従っておいて、自然に出ていくように仕向けることにした。乱暴ごとは避けたい。
 ありがたいことに座布団が敷かれている。まるで客人を待っていたかのようだ。

「ほら、食べて食べて」

 ホームレスは皆、火鉢を所持しているのだろうか。老人は餅を焼いていた。ミカンも焼いて食べたのか焦げた皮だけになっていて、缶ビールも凹んでいた。

「神様がわざわざこんな面白味もない家に何の用ですか」

 私の皮肉に、老人は大受けした。

「おいらはそんな大それたもんにならねえよ。それにしても、随分と丁寧に作ったなあ」
「おれが一人でやったんです」
「おう、おう」

 霜柱のように盛り上がった餅を小皿に移し、私に押しつける。醤油と砂糖の香ばしく甘い湯気が、寒さでつんとする鼻をくすぐった。

「けど誰も褒めてくれないんです」
「おいらが褒めてやるよ。おいらはかまくらを鑑定するのが得意なんだ。こいつは百点満点のかまくらだ。重労働だったろうなあ」
「うーん、そんなに疲れてはないです。あまり深く考え込まずにやれましたし」

 よく伸びる餅だ。どちらかというと焼かずに少量の水を浸してレンジでチン派だったが、これはなかなかうまい。噛めば噛むほど甘くとろける。焦げた部分がほどよい苦みだ。

 老人はニコニコとこっちを見ている。長居は良くない。明日は(いやもう今日か)仕事があるし、妻までトイレで目が覚めないとも限らない。

「まさかここで寝泊まりする気ですか? 凍死しちゃいますよ」
「大丈夫だ。すぐに出ていくよ」
「それならいいんですけど」
「もうちょっとしゃべろうよ。ずっとひとりで寂しかったんだ」
「別にいいですけど……」

 拒否し切れない辺りがお人好しだ。まったく嫌になる。

「お前さんは今、どんな仕事をしているんだ?」
「百貨店のマネージャーです」

 ほう、と老人は感嘆の口を開けてしわを伸ばす。

「順調か?」
「まあ……」
「上司や部下とうまくやってるか?」
「まあ……」

 特にお局さまに可愛がられている。フロアマネージャーに昇格できたのも彼女の口添えのおかげでもある。だから下手な立ち回りはできない。部下に対し平等な態度を取るにも彼女の目が光る。相手が若い女なら尚更だ。私のせいで辞職に追いやられるのは勘弁だ。

 それからゴルフのレッスンも。キャディー経験があるからと言って、手の甲を後ろからなで回されるのは一回ぽっきりでいい。後にその不快感が皮膚に現れて、ごまかすのに苦労した。皮膚病はストレスに左右されるのを実証した日だ。

「家族とはどうだ?」
「どうって……」
「お嫁さんは可愛いか?」
「さあ……」

 容姿はいい。昔に比べて丸くはなったが、可愛いというより美人だ。昭和の映画に出ていそうな、白い柔肌を持っている。黒髪のセミロングで、何着ものワンピースを着こなす。もちろん下着も。

「子どもは可愛いだろう?」
「うーん……」

 妻に似て、将来は美形になるだろう。それで可愛い子ぶった女の子がたかる。女たらしにならない誠実で賢明な男にするにはどう育てればいいのだろう。特に次男のことだ。同級生に茶髪の奴がいるらしく、それが格好いいと言うのだ。

 老人は子どものような目をしている。無邪気で無知。深く考えずに切り込んでくる。それが年食った相手だとたちが悪い。

「可愛いと思いますよ、嫁さんの血が入ってますもん」

 私は沸々と笑いが込み上げてきた。

「へえ、そうなんだ」
「そうなんです」

 途端に、老人は泣きそうな目をした。

「みんなにいじめられてない? お父さんやお母さんに悪口言われてない?」
「それは大丈夫ですよ」
「よかったあ」

 老人の涙が引っ込んで、また笑顔だ。悪い人ではないのは確かだが、訳のわからない人だ。

「これ、いります?」

 私はゴルフクラブを差し出す。プロゴルファーになりたいと息子が言い出さない限り、一生ゴルフ場なんて行くつもりはないので必要ない。

「いいの?」
「たぶん、そこそこいい値段で売れる気がします」
「売らない、売らない。やったあ。宝物がふたつになった」

 老人は目を輝かせながらゴルフクラブを胸に引き寄せた。

「すいません。おれ明日も仕事なんで寝たいんです。そろそろ引き上げてくれませんか?」

 空き缶とミカンの皮を手に、極力穏やかに言った。私の体が睡眠を欲している。

「うん。わかった。おやすみ」

 老人はすんなりうなずいて、満面の笑みで手を振った。これが嘘なら警察を呼ぶ。不法侵入に加えて、窃盗だ。

 私は外気に身震いする。そして考える。私の足跡がサンルーフから続いている。老人の足跡がない。あっとなって、振り向く。もぬけの殻だった。匂いも熱も失われている。私の体温も。

 幻覚だったのだろうか。ビールやミカンは無意識に自分で腹に収めたのか。餅ではなく。いや、ゴルフクラブがなくなっている。まさか、本当に神様だったのだろうか。わからない。

 ベッドもすっかり冷えていた。隣の体温を感じられるほどの距離もない。先ほどの出来事を面白おかしく、怪談めかせて話してやれるほどの気力は朝になってもないだろう。

 そして朝になって確認した。おそらく幻覚ではない。完全な殻になった訳ではなかった。ぽつりと紙切れが落ちていた。しなびた厚紙だ。「100えんきっふ。」と幼い字で書かれている。手に取ってみると、何かを思い出しそうだった。何かが懐かしい。しかし、どんなに頭をひねっても脳内は吹雪いて答えが見えなかった。

 なぞの老人のことも気になるが、それよりも長男がインフルエンザにかかってしまった。職場に一言連絡を入れ、徒歩十分のところにある小児科医院に連れていった。うつされては困るので私もマスクをした。久しぶりに長男をおぶったが、ますます重くなっていた。

 予想通り満席で、私は壁際にもたれた。長男は私の腹部にもたれてきたので、ジェットコースターの安全ベルトのように腕を回す。

 保護者は全員女性だった。母親か祖母。男の私は異質だった。向かい側の老婆が私を奇異な目で見ていた。「お母さんはどうしたんだろうねえ」と嫌らしい口調でリンゴのほっぺたの孫娘に問いかける。私は聞こえていないふりをした。それから老婆は「どんな育て方をしてんだろうね」と嫌な顔をする。見下ろすと、長男はしんどそうな顔をしていた。にらまれたと思ったのだ。

 昼食用の雑炊を作り置きしてから仕事へ行こうとしたが、長男は弱弱しい声でひとりにしないでと言った。私は仕事を休み、栄養補給でチョコのアイスクリームを買い与えた。マスクも交換し、古いのはビニール袋に密封して捨てた。

 夕食は鍋焼きうどんにした。長男は猫舌だから頃合いまで冷ました。

 妻は同窓会で遅くまで帰ってこない。一度帰宅してそれらしく着替え、いつもと違う口紅を塗って出ていった。洗濯機を見るとベージュの下着があった。いちいち確認してみるあたり、私は変態の類なのだろう。
 来るだろうメールの文面を予想してみる。友だちの家にお泊りすることになりました。あとはよろしく。
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