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迷える乗客
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私は非常階段を下ったかもしれないし、上ったかもしれなかった。ナントカ病院へは何番のバスに乗ればいいのか忘れた。タクシーを拾えばよかったのだろうが、どう拾えばいいのか忘れた。コートは……大丈夫。ちゃんと着ている。財布も定期券も持っている。
ひとまず何番かのバスには乗れた。運よくナントカ病院前に停車するかもしれない。しかしその願いは通じることなく終点に行きついた。定期券は通じず、五千円札は両替できず、回数券も売り切れで、チップだと強く思い込みながら五千円札を奪われるしかなかった。おこづかい制度でなかったのが何よりも救いだと諦めた。
運転手に病院への道のりを尋ねればよかったのだが、思いついた頃にはひとりぼっちになっていた。
何もないところだった。どこもかしこも、遠くまで白くぼやけていて目立った建物は見つけられなかった。今になって思い出した頼みの携帯電話も、電波の悪さに使い物にならない。クリスマスケーキに夢中な次男がうらやましくなった。ろうそくの火が目に温かかった。
次のバスの到着時間を確認して、途方に暮れた。歩くしかなかった。
いつまで経っても車が現れる気配はない。ぐむん、ぐむん、と恨めしい気持ちを込めて雪道を踏みつけていく。同時に前後の感覚が失われていく。雪は私の進んだ痕跡を消して嘲笑っているかのようだ。
春は一体どこに隠されたのか。適当に掘り起こせば見つかるかもしれないが、無限に広がる白地獄はそんな気力をも奪ってしまう。
またしばらく経って、黄色と黒の物体が視界の先で発見する。久々の人工物との巡り合いは私をほっとさせた。物体の正体は踏切の警報機だった。
わっと突風が線路上を通過していく。大粒の雪が目に入った。
突然の耳鳴りが風の音を消した。収まると、遠くで警笛が鳴った。当然のようにして警報機も鳴る。しかし、それは聞きなれたものではなく、コーン、コーン、と火災を知らせる半鐘らしき物悲しい音だった。
どんどん近づいてきた。それは吹雪をまとって走行してきたのだろう。とうとう真っ白なところから黒光りした車体がずずんっと出てきて止まった。
特筆すべきなのは宮廷を連想させる黄金の屋根だろうか。今にも動き出しそうな龍の像が上で波打っている。
遮断機が上がる。扉が開かれると同時に折り畳み式のステップが下りる。見上げると車掌が立っていた。二メートルあるかもしれない体躯で、ぬっと背中を曲げていた。顔はよく見えず、紫色に腫れぼったい唇が芋虫のように動くのだけが確認できた。洞穴から這い出てくるような陰気な声だった。
「切符を拝見します」
途端に手の中に異物感が走った。しわ寄せた「100えんきっふ。」だった。いつから持っていたのか思い出せないまま差し出すと、車掌は迷いなくそれをつまみ上げる。切られた「100えんきっふ。」は金粉となって雪風の中へ消えてしまった。私は何とも感じなかった。
寒さから解放されたい一心で、吸い込まれるようにしてこの電車に乗った。四号車「沙羅の間」だった。乗客は私一人だけ。さっきの車掌の姿が見当たらない。
黒塗りの天井には螺鈿細工が施されていた。何羽もの鶴が飛んでいる。座席には畳が敷かれ、上等そうな座布団が等間隔で置かれている。縁には蓮の紋があった。
適当なボックスシートに座るのを合図に、笛が鳴った。車体はゆっくり動き出し、また吹雪をまとい進み始めた。
異様に静かだ。特有の振動すら感じられなくなった。そして色あせている。曇っているらしき窓をなでると、指先から熱が吸い取られていくようだった。古ぼけた活動写真の世界に入り込んでいくように、肌の色が抜けていく、
やがて雪の隙間から景色が見え隠れし始めた。
すっかり記憶の彼方へ追いやっていた秋田の風景。あれは小さい頃の私だ。
祖母の葬式で秋田へ行ったのだ。次男だった父は出来のいい長男ばかり愛していた祖母を毛嫌いし、遺産相続も半ば放棄していた。それを母がよしとせず、もらえるものがあればもらってしまおうと父を説得したのだ。
父の実家である日本家屋は、私には広すぎた。明かりは十分に行き渡らず、角の暗がりから得体のしれない何かが手招きしているように感じ恐ろしかった。避難するように庭へ飛び出した。
そこにいたのが、今となっては消息がつかめない祖父の兄だった。彼がどういった人物か親族らが口々に言っていた。
長男として喜ばれたのも束の間、知恵遅れと判明するや粗末に扱われた。お見合いして嫁をもらうも子どもはできず、相手家族に種なしだと罵られ離婚。どうにか駅員の職にありつけたのがせめてもの救いだったという。
幼かった私は話を理解できず、祖父の兄を可哀想とも思わず、ただしがみついた。
「大丈夫だよ。あれは淋しがり屋なんだよ」
と、祖父の兄は私の行動に理解を示していた。あの人は単なる知恵遅れという訳ではなく、他人には見えないものが見えていて、そっちばかりに気を取られていただけだったのかもしれない。
あの人は遺産相続の話に加わらずに私と電車ごっこで遊んでくれた。あの人が乗客で、五枚つづりの手作り切符をちぎって運転手の私に渡すのだ。あれは、楽しかった。
また遊ぶことを約束した。その証明として、私は持っていた電車のおもちゃをゆずった。あの人はとても喜んでいた。
景色が変わる。
母が浮気した。父は興信所に大金をはたき、母が長年小遣い稼ぎに人妻専門の売春婦をしていたことを知った。
父は私のDNAを鑑定した。おそらく、祖父の兄の種なしが遺伝しているのではないか、ということもあっただろう。
百パーセント父の子だと証明されたにも関わらず、父は私に懐疑的な目を向け続けた。私のひとつひとつの仕草を観察しているようだった。二十四時間一緒にいる訳ではないし、学校やアルバイトでの社交で養われるものだってある。父だって自覚していない癖があるだろうに、私の癖はまるで他人から受け継がれたものだと納得しようとする。いっそ他人の子だった方が潔かったのではないだろうか。
高校卒業と同時に両親は離婚し、私は自立した。私の実家は売却されもうない。死に物狂いでアルバイトを重ね、単位を一つも落とさずに大学を卒業。今の百貨店に就職した。運が良かったのだろう。いや、そこで溜めていた運を使い果たしたのだ。
ひとまず何番かのバスには乗れた。運よくナントカ病院前に停車するかもしれない。しかしその願いは通じることなく終点に行きついた。定期券は通じず、五千円札は両替できず、回数券も売り切れで、チップだと強く思い込みながら五千円札を奪われるしかなかった。おこづかい制度でなかったのが何よりも救いだと諦めた。
運転手に病院への道のりを尋ねればよかったのだが、思いついた頃にはひとりぼっちになっていた。
何もないところだった。どこもかしこも、遠くまで白くぼやけていて目立った建物は見つけられなかった。今になって思い出した頼みの携帯電話も、電波の悪さに使い物にならない。クリスマスケーキに夢中な次男がうらやましくなった。ろうそくの火が目に温かかった。
次のバスの到着時間を確認して、途方に暮れた。歩くしかなかった。
いつまで経っても車が現れる気配はない。ぐむん、ぐむん、と恨めしい気持ちを込めて雪道を踏みつけていく。同時に前後の感覚が失われていく。雪は私の進んだ痕跡を消して嘲笑っているかのようだ。
春は一体どこに隠されたのか。適当に掘り起こせば見つかるかもしれないが、無限に広がる白地獄はそんな気力をも奪ってしまう。
またしばらく経って、黄色と黒の物体が視界の先で発見する。久々の人工物との巡り合いは私をほっとさせた。物体の正体は踏切の警報機だった。
わっと突風が線路上を通過していく。大粒の雪が目に入った。
突然の耳鳴りが風の音を消した。収まると、遠くで警笛が鳴った。当然のようにして警報機も鳴る。しかし、それは聞きなれたものではなく、コーン、コーン、と火災を知らせる半鐘らしき物悲しい音だった。
どんどん近づいてきた。それは吹雪をまとって走行してきたのだろう。とうとう真っ白なところから黒光りした車体がずずんっと出てきて止まった。
特筆すべきなのは宮廷を連想させる黄金の屋根だろうか。今にも動き出しそうな龍の像が上で波打っている。
遮断機が上がる。扉が開かれると同時に折り畳み式のステップが下りる。見上げると車掌が立っていた。二メートルあるかもしれない体躯で、ぬっと背中を曲げていた。顔はよく見えず、紫色に腫れぼったい唇が芋虫のように動くのだけが確認できた。洞穴から這い出てくるような陰気な声だった。
「切符を拝見します」
途端に手の中に異物感が走った。しわ寄せた「100えんきっふ。」だった。いつから持っていたのか思い出せないまま差し出すと、車掌は迷いなくそれをつまみ上げる。切られた「100えんきっふ。」は金粉となって雪風の中へ消えてしまった。私は何とも感じなかった。
寒さから解放されたい一心で、吸い込まれるようにしてこの電車に乗った。四号車「沙羅の間」だった。乗客は私一人だけ。さっきの車掌の姿が見当たらない。
黒塗りの天井には螺鈿細工が施されていた。何羽もの鶴が飛んでいる。座席には畳が敷かれ、上等そうな座布団が等間隔で置かれている。縁には蓮の紋があった。
適当なボックスシートに座るのを合図に、笛が鳴った。車体はゆっくり動き出し、また吹雪をまとい進み始めた。
異様に静かだ。特有の振動すら感じられなくなった。そして色あせている。曇っているらしき窓をなでると、指先から熱が吸い取られていくようだった。古ぼけた活動写真の世界に入り込んでいくように、肌の色が抜けていく、
やがて雪の隙間から景色が見え隠れし始めた。
すっかり記憶の彼方へ追いやっていた秋田の風景。あれは小さい頃の私だ。
祖母の葬式で秋田へ行ったのだ。次男だった父は出来のいい長男ばかり愛していた祖母を毛嫌いし、遺産相続も半ば放棄していた。それを母がよしとせず、もらえるものがあればもらってしまおうと父を説得したのだ。
父の実家である日本家屋は、私には広すぎた。明かりは十分に行き渡らず、角の暗がりから得体のしれない何かが手招きしているように感じ恐ろしかった。避難するように庭へ飛び出した。
そこにいたのが、今となっては消息がつかめない祖父の兄だった。彼がどういった人物か親族らが口々に言っていた。
長男として喜ばれたのも束の間、知恵遅れと判明するや粗末に扱われた。お見合いして嫁をもらうも子どもはできず、相手家族に種なしだと罵られ離婚。どうにか駅員の職にありつけたのがせめてもの救いだったという。
幼かった私は話を理解できず、祖父の兄を可哀想とも思わず、ただしがみついた。
「大丈夫だよ。あれは淋しがり屋なんだよ」
と、祖父の兄は私の行動に理解を示していた。あの人は単なる知恵遅れという訳ではなく、他人には見えないものが見えていて、そっちばかりに気を取られていただけだったのかもしれない。
あの人は遺産相続の話に加わらずに私と電車ごっこで遊んでくれた。あの人が乗客で、五枚つづりの手作り切符をちぎって運転手の私に渡すのだ。あれは、楽しかった。
また遊ぶことを約束した。その証明として、私は持っていた電車のおもちゃをゆずった。あの人はとても喜んでいた。
景色が変わる。
母が浮気した。父は興信所に大金をはたき、母が長年小遣い稼ぎに人妻専門の売春婦をしていたことを知った。
父は私のDNAを鑑定した。おそらく、祖父の兄の種なしが遺伝しているのではないか、ということもあっただろう。
百パーセント父の子だと証明されたにも関わらず、父は私に懐疑的な目を向け続けた。私のひとつひとつの仕草を観察しているようだった。二十四時間一緒にいる訳ではないし、学校やアルバイトでの社交で養われるものだってある。父だって自覚していない癖があるだろうに、私の癖はまるで他人から受け継がれたものだと納得しようとする。いっそ他人の子だった方が潔かったのではないだろうか。
高校卒業と同時に両親は離婚し、私は自立した。私の実家は売却されもうない。死に物狂いでアルバイトを重ね、単位を一つも落とさずに大学を卒業。今の百貨店に就職した。運が良かったのだろう。いや、そこで溜めていた運を使い果たしたのだ。
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