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二、二つの玄関
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日々精進。それが親父の口癖だった。元は祖父の口癖だった。元々は曾祖母の口癖だった。とにかく我が扇ヶ谷家は『日々精進』が信条として受け継がれてきた。
それに由来して俺の名前は尚仁となった。家にあった家系図を開けば出るわ、出るわ。尚仁丸に尚仁ノ介。はたまた尚仁衛門に尚子に仁子。ルビがめんどくせぇな。とにかく漢字を変換させたり読みを変えたりして使い回すそのセンス。扇ヶ谷だけにな。知能指数七〇ジョーク。
俺は期待に応えなければならなかった。長男なら尚更である。特に苦ではなかった。さすが扇ヶ谷家代々の血筋といえよう。
テストで九九点取っても心底悔やみ、百点満点を取れるまで勉強し、逆上がりも飛び箱も二重飛びも、俺の目に見えない仙人から免許皆伝されるまで練習した。俺はやればできる男であると誇りすら感じていたし、目に見えない仙人もよくできた弟子だとほめてくれた。
ところが周りの影響とは凄まじい。中学高校と進むにつれて妥協というスキルを会得した。
満点を取る必要はない。平均点さえ越えていればいい。マラソンだって百人中五十人以内にゴールすればいい。
いいや、リタイアせずにゴールさえすればオールオーケー。びりっけつが、それもおデブちゃんが豚骨スープをほとばしらせながらゴールへと突き進むあの神聖な空気ときたら。ロッキーもエイドリアぁぁぁンと叫びたくなる。THE感化。
一位になればその上はない。現状維持は大変なのだ。努力が当たり前なのは誰よりも承知していたつもりだ。しかし俺は悟った。精進すると消尽すると。別にダジャレが言いたかった訳ではない。
あの子はいつもがんばっていて偉いねえ、さすが精進家の子ねえ、と先生やご近所さん、そして親戚中に褒めちぎられていると、人目を気にするあまり本当の自分を見せるタイミングを逃す。何人いるのだろうか、輪に溶け込むためにキャラクターを偽り続け、一日の表裏に悩まされている同世代の若者たち。悲しきかな。
俺はボクシングチャンピオンの防衛戦の不戦敗を選んだ。親父は俺が腑抜けた男に成り下がったことを気に食わなかっただろうが、俺は勉強をきちんとこなし、運動もなまらない程度にやっていた。したがって親父は叱ろうにも叱れず、一言「精進しろよ」とだけ言い続けるだけであった。
俺は『日々精進』に束縛された世界から抜け出すため、県外の泰京大学の受験勉強に励んだ。皮肉にも机の前で精進した。
そして三月下旬。蛍雪の功で泰大の教育学部に合格した俺は実家を出ることになった。
「忘れ物はないか?」
それが玄関口で投げた親父の台詞である。俺は「ねえ」と答えた。母さんは駅まで見送ってくれたが、親父は一歩も外へ出ようとはしなかった。俺が踏み出した世界の空気を吸いたくなかったのだろう。
俺は電車の中で遠ざかる田舎町と海浜公園に言った。
「あばよ日々精進。ざまあ味噌汁」
これで親父の『日々精進』を聞くことはない。そう思うと清々した。
それに由来して俺の名前は尚仁となった。家にあった家系図を開けば出るわ、出るわ。尚仁丸に尚仁ノ介。はたまた尚仁衛門に尚子に仁子。ルビがめんどくせぇな。とにかく漢字を変換させたり読みを変えたりして使い回すそのセンス。扇ヶ谷だけにな。知能指数七〇ジョーク。
俺は期待に応えなければならなかった。長男なら尚更である。特に苦ではなかった。さすが扇ヶ谷家代々の血筋といえよう。
テストで九九点取っても心底悔やみ、百点満点を取れるまで勉強し、逆上がりも飛び箱も二重飛びも、俺の目に見えない仙人から免許皆伝されるまで練習した。俺はやればできる男であると誇りすら感じていたし、目に見えない仙人もよくできた弟子だとほめてくれた。
ところが周りの影響とは凄まじい。中学高校と進むにつれて妥協というスキルを会得した。
満点を取る必要はない。平均点さえ越えていればいい。マラソンだって百人中五十人以内にゴールすればいい。
いいや、リタイアせずにゴールさえすればオールオーケー。びりっけつが、それもおデブちゃんが豚骨スープをほとばしらせながらゴールへと突き進むあの神聖な空気ときたら。ロッキーもエイドリアぁぁぁンと叫びたくなる。THE感化。
一位になればその上はない。現状維持は大変なのだ。努力が当たり前なのは誰よりも承知していたつもりだ。しかし俺は悟った。精進すると消尽すると。別にダジャレが言いたかった訳ではない。
あの子はいつもがんばっていて偉いねえ、さすが精進家の子ねえ、と先生やご近所さん、そして親戚中に褒めちぎられていると、人目を気にするあまり本当の自分を見せるタイミングを逃す。何人いるのだろうか、輪に溶け込むためにキャラクターを偽り続け、一日の表裏に悩まされている同世代の若者たち。悲しきかな。
俺はボクシングチャンピオンの防衛戦の不戦敗を選んだ。親父は俺が腑抜けた男に成り下がったことを気に食わなかっただろうが、俺は勉強をきちんとこなし、運動もなまらない程度にやっていた。したがって親父は叱ろうにも叱れず、一言「精進しろよ」とだけ言い続けるだけであった。
俺は『日々精進』に束縛された世界から抜け出すため、県外の泰京大学の受験勉強に励んだ。皮肉にも机の前で精進した。
そして三月下旬。蛍雪の功で泰大の教育学部に合格した俺は実家を出ることになった。
「忘れ物はないか?」
それが玄関口で投げた親父の台詞である。俺は「ねえ」と答えた。母さんは駅まで見送ってくれたが、親父は一歩も外へ出ようとはしなかった。俺が踏み出した世界の空気を吸いたくなかったのだろう。
俺は電車の中で遠ざかる田舎町と海浜公園に言った。
「あばよ日々精進。ざまあ味噌汁」
これで親父の『日々精進』を聞くことはない。そう思うと清々した。
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