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二、四

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 表に出て右の焦げ茶色のビルは、一階が税理事務所らしい。外階段の隙間からはアジサイが見え、梅雨には鮮やかな路地になりそうである。

 俺は深緑色のドアの前まで上ってインターホンを押した。鳴らなかった。おいどうした、新築さんよ!

 ノックをしても反応がない。ドアは押しても引いても動かない。早速、鍵を使った。

 予想以上に広々としていた。リビングは吹き抜けで開放感があり、青や紫の寒色系の円形の絨毯が敷かれている。中央には白の円卓があり、それと同じ大きさの円形のシーリングライトが真上に設置されていて、俺が入った瞬間に点灯した。

「こんにちはー」

 それなりの声量を出したが返事はない。和風の黒い靴箱を開けると、イギリス国旗のロンドンブーツがねじ込まれ、隣には俺の高校時代に使っていた体育シューズの黒いバージョンみたいなやつがある。

 もう一度、声を張ってみる。しかし何も返ってこない。

 二階への階段は入ってすぐの左右にあり、左の方は収納スペースとしてくり抜かれている。確かに趣味の異なる二人が住んでいるらしく、特撮ヒーローと怪人、銀河鉄道999のメーテルのフィギュアが上段に。レコードと茶色に日焼けした文庫本が下段に固まっている。中段がぽっかり空いているのでそこに俺の私物を入れることになるだろう。

 右の階段の中には『TOILET』と掲げられたドア。大型テレビは右の壁にはめられ、左のセミオープンのキッチンからも見える角度になっている。家電は一通りそろい、食器棚には地震対策がきっちり施されている。『BATHROOM』と積み重ねられた座布団は右にあった。

 しかし、それらよりも目立ち、真っ先に俺が注目していたのは、巨人も出入りできそうな、正面の大きな扉だ。タイル張りされた半円型の土間床もあるし、まさかあれが正面玄関で、俺が入ってきたのは裏口ということなのか。

 扉の両側にはめ殺しの窓があり、空が見えた。奇妙だった。このビルの隣にはさらにビルが密接していた。ならばそれが見えるはず。何より扉を開けるほどの隙間などなく、玄関の意味を成さない。

 これはトマソンというやつだろうか。失われた機能性。まるで世界から切り取られたかのような得体の知れなさ。そんな超芸術の一つ。それなら納得できなくもない。

 それでも不可解な気持ちは払拭されず、胸が圧迫されそうになる。あれを開けてしまえばそれは解放されるどころか絶対的なものになる気さえした。しかし足は先走る。土間床は嘘のように冷たい。

 ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。片側を押すが動かず、引いてみた。ひゅう、と季節が逆戻りしたような寒風に二の足を踏み、目を閉じた。

 俺は覚悟の息を吸い、目を開けた。視界一面、青。シアンだ。

 筋張った足をアプローチまで進ませ、はっとする。アプローチより向こうは宙しかなかった。遥か下では地上がかすんで見えていた。この青が顔に貼りつき染み込んでくるような、圧倒的な高さ……。

 落ちる夢なら見たことがある。試しに宙に身を任せたなら、はたしてベッドの上で目が覚めるだろうか。

 心臓は驚愕と恐怖を通り越して、はたまた理解しきれていないのか静かだ。心停止しているのではないかと思ったほどだ。つまり夢である可能性も捨てきれない。
 焼きついてしまった青に誘われてしまいそうになる。これこそシアンが有毒化した所以なのかもしれない。わずかな量で死に至る。わずかな力量で死ぬのだ……。

 ……一体俺は何を考えているのか。ここで死ねばドラマは幕切れとなるのだ。わずかばかりの冷静さを発揮して後ずさりする。

 乱れた髪を整えるぐらいの落ち着きは戻ってきたようだ。それから一息つく。予想以上に声が怯えていた。

「な、なんだよ、これ……」
「それは私に言っているのか?」
「わ!」

 ぎょっとした。振り返ると変な男が腕を組み立っていた。西洋人とも東洋人とも取れる顔立ちのノッポで、オレンジ色のポンチョを着て、真っ青なパンタロンをはいて、頭にはラッパスイセンのような飾りがチョコンと乗っている。眉毛、まつ毛、腰まである髪は銀色。極めつけとして背中には立派な白い翼があった。

「誰?」
「それは私のセリフだ。勝手に人の住居に侵入してはいけないと習わなかったのか?」
「いや、俺は新しくここに住むんです」

 俺は鍵を見せた。変な男は真顔で鍵を見下ろし、俺に目を合わせた。解約したくなった。

「……名前は何という?」
「扇ヶ谷尚仁です」
「オーギガヤツ……覚えたぞ、オーギガヤツ。私は川中島かわなかじま白桃はくとうだ。ハクトーさんと呼ぶがいい。そして扉を閉めろ。中が冷える」

 横柄な態度に苛立ちを覚えたが、俺は簡単に苦を面に出すほど子どもではない。俺は豚骨スープをほとばしらせていたおデブちゃんを思い出しながら天空に通じる扉を閉めた。風は強かったのに扉は妙に軽かった。

「あの、一体これはなんスか? どうなってんスか?」
「そんなもん私は知らん。作った本人に聞くがいい」
「じゃあ……それはコスプレっスか?」
「これは私服だ」
「その翼も?」
「これはオプションだ。その方が人間は私が天使だとわかるからだ」
「は?」
「翼なんかなくても飛べる。どうせ天国は雲の上にあると思っているんだろう? だから翼が必要だと思っているんだろう? 馬鹿め。上に行っても宇宙しかないぞ」
「ちょちょちょ、待てや。さっきからあんた何言うとるがん?」
「何? もう一度同じことを言えと言っているのか?」
「いやだから。つまりあんたは」
「ハクトーさん」

 ああもう、細かい奴だな。

「ハクトーさんは、自分は天使だと言いたいんスか?」
「私は天使だ」

 真顔で言い切るこの男に、めまいがしそうだった。シアンが尾を引いている。

「天使のコスプレ?」
「コスプレではない」
「でも翼はオプションねんろ?」
「その方が人間は喜ぶからだ」

 この男の思考はシアンによってお陀仏しているらしい。人をからかって何が楽しいのか。

 とにかく状況を整理しよう。ここは、空の上にある。裏口の外は地上。正面玄関の外は空。確認しなければ断言できないが、二階建ての家が浮いているのかもしれない。

「これは夢か、幻か……」
「夢じゃないぞ。そうやって安価に私の存在を否定してはいけない」

 俺は常套句じょうとうくを言ったにすぎない。ここはビルで、一軒家。地上で、上空。そんな摩訶不思議な矛盾空間に住まう自称天使。それから、次はこれを聞かなければなるまい。

「もう一人住んでる人は?」
「ハナミドーなら今、喫茶店で働いている。深夜までには大体帰ってくるが、会いたいなら案内してやるぞ」
「いやまだ結構。空いてる部屋はどこっスか?」
「こっちだ。ついて来い」

 俺は川中島の翼を観察しながら二階に移動した。二階は左右対称、二部屋ずつ分かれ、俺は右手前の部屋を使うことになり、奥の部屋が川中島の部屋のようであった。

 居間より小さい白い円卓とベッド。戸棚は壁一面にあり、収納には困らない。扇風機とストーブは戸棚の中にあった。日当たりは抜群だ。

 俺は内倒しの窓から改めて下をのぞいてみた。「そんなに下をのぞくのが好きなのか?」と、背後で川中島が言う。

「ほんと、どうなってんだろうなって思ったんス」
「気にしてはいけない。オーギガヤツはこの家に住みたくて住むんだろう?」
「別にそういうんじゃないんで。友だちがお隣の不動産屋を勧めただけなんで」
「ではその友人に感謝するんだな。なぜなら天使と住めるんだからな。まさに都だ。光栄に思え」

 似非宗教家、川中島は退室し、噂をすればとサンシンから着信がくる。

『もしもしオギー? どう、見つかったけ?』
「めちゃくちゃ変なとこだった。ペコちゃんとか飾ってあって」

 サンシンは『うはっは!』と能天気に笑っている。

『それでいいとこあったん?』
「なーん、まあまあいいとこ。一軒家で共同だけど」
『マジで? うわーいいなー』
「眺めはいいよ、かなり。すんげぇ空が無限大に見えとれん。シアンブルーやぞ」

 ちっぽけな人間界。俺が今どこで話をしているのか、言っても本気にはしないだろう。

『えー、いいじゃん! 都会ってビルビルしてて閉塞感あるもんな!』
「なんじゃそりゃ」

 ここは世界一天国に近い家だ。ああ、そういえば、上に行っても宇宙しかない話だ。俺は失笑した。
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