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六、六

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 どこまでも続く深緑。小川の上を木製の小さい橋で渡る。丸太と土でできた段差が現れる。
 いきなり左の草藪が震え、黒い物体が飛び出てきたかと思うと右へと消え失せた。「タヌキだぞ。ネズミを加えていた」と目ざとい川中島が言った。俺はずっとタヌキに化かされているのだろうか。

 岩でできた段差が現れる。傾斜が強くなった。泥で足を滑らせないように気をつけながら前のめりに進む。全力疾走した身にとってさらに腿を追い詰めた。

 やがて天を隠す白い霧を貫く石塔が見えた。最初の中間地点だ。周囲を探ったが鳥人間の影はなく、不安だけが空回りする。

 石塔の段に座って休憩した。とたんに体がずしりと重くなる。レインコートの上から腿を叩いてほぐした。

 なぜ俺ばかりが奇怪な状況に巻き込まれてしまうのか理由を探してみる。空を飛んでいる家に住み、リアル宇宙人のいる店でアルバイトをし、お次は鳥人間探しだ。誰かの策略だろうか。陰謀だろうか。タヌキに化かされているのか。

「何やってんだかなぁ……マジで……」

 独り言ちてうなだれていると、川中島の泥で汚れたブーツが見えた。

「変だと思うな、特別だと思え。ものは考えようだぞオーギガヤツ」
「特別なぁ……」
「そうだ。オーギガヤツは特別だ。天使の私が言っているから間違いないぞ」

 真顔で決めつけられては苦笑いするしかない。そんな時。


 ケェーーーーーーン……


「雉子……?」

 山奥から鮮明に響いてきて雨音に溶け込んでいく。やっぱりこの山にいるのだ。思わず「俺天才……」と自賛を漏らして口角が緩む。


 ケェーーーーーーン……


 雉子がないている。

「……よし!」

 俺は気を吐き、尻を叩きながら立ち上がる。お次は石の階段をまっすぐ進んだ。脚が石のように重かった。

 息を切らす。

 のぼる。

 息を切らす。

 のぼる。

 息を整え、俺は次の中間地点である山寺の屋根の上を見上げた。

「雉子!」

 彼はあたふたと寺の裏側へと滑り降りた。なぁんで隠れるげんてま。

 大きな音を立てないように近づいてみると、頭を抱えながらガタガタと座り込んでいた。エネルギー弾をおみまいできるというのに、まるでちっぽけに見えた。

 俺は彼用で持っていた傘を差す。もう意味はないが。

「ほら、戻るぞ。おっさんが手当てしてくれるってさ」
「人間は鬼より怖い」

 哀愁を帯びた目玉を俺に向けた。濡れた雨水が目の下へと伝う。

「狩人に狙われたことを思い出したよ。いつまででも追いかけ回すんだ……妖怪になっても鍋はおいしいのかなぁ?」
「俺はしねぇよ。何も」
「それはわかるよ。君はいい人だもの。それだけは地上に降りて良かったと思えること」

 雉子を連れて表側に出ると川中島が「戻るぞ」と踵を返した。不良グループと違って随分と素っ気なかった。

 ヘロヘロのおっさんと石塔で合流し、下山した。

「どんなご用で天から降りてきたんですか?」

 おっさんは車のエンジンをかける時にそう質問した。連行されている容疑者のようにタオルで頭部を隠している後部座席の雉子はぽつりぽつりと答えた。

「ぼくは昔、少しだけ力を持つようになってから、ある御仁と協力して悪事を働いていた鬼の衆を退治していたことがあります。その功績があって、天に仕えるようになってからも何かと護衛役や御供役を任されていたんですけど、段々嫌になってきて」
「仕事をほっぽり出してきたのか?」

 川中島は容赦なかった。俺はちらりとバックミラー越しに雉子をうかがう。

「ぼくなんかよりも腕が立つヒトはいくらでもいるんだ。買いかぶり過ぎなんだ」

 消え入りそうな声で彼は言った。あのエネルギー弾よりも凄いことができる奴がいるとでもいうのか。俺はくしゃみをした。鼻水が噴き出た。




 未知なるトウキョウスカイホームの暖簾の向こう。物件のファイルが保管されている棚の他に、こけし、マトリョーシカ、紙人形、毛糸の人形、土偶、恐ろしい形相のお面、千羽鶴のようにジャラジャラしている唐辛子、さるぼぼ――もはやいちいち取り上げてもきりがなく、名状しがたい奇妙な物が飾られている。それをシャンデリアのように並ぶトルコランプが優しく照らしてまだらな影を作っているのだ。

 おっさんの悪趣味のトンネルを抜けると嘘のように片付いた質素で平凡な部屋があった。誰かと住んでいる気配はなかった。

 六畳の和室に雉子を連れ込んだ。ふすまの丸窓から色彩豊かな庭が見えた。和洋折衷に造られた綺麗な庭で、アジサイもあった。

 桐ダンスの上には写真立て。息子が一人いるようだ。

 おっさんは大活躍だった。雉子には早く治るという軟膏を、刷毛で翼の焦げた部分に塗り込み、俺と川中島には翌日の筋肉痛を抑える効果もあるという温かいハーブティーを用意してくれた。俺の鼻水はぴたりと止まる。体はぽかぽかしてきたのに、脚の筋肉にはスーッと爽快感が来た。温かいのに涼しいという不思議な感覚だ。

 雉子は手当てを受けている間ずっと頭を垂らしていた。

「毎日朝晩と塗ればすぐ飛べるようになるよ。それまでは僕のところにいましょ?」

 おっさんはにこりと微笑みかけた。

「天まで戻れる自信がない」

 雉子はずっと元気がない。

「なぁ川中島。お前なら連れて帰れるんじゃないん?」

 俺は自称天使に尋ねた。

「ハクトーさんだ、ハァクゥトォーさん。私が来たところとキジコが来たところは違うぞ。天は天でも広いからな。仕えているところも違うはずだ」
「そうなのか?」

 雉子は小さくうなずいた。目を合わせてくれない。

「飛ぶのが苦手なのもそうだけど……何も言わずに来たから、きっと上様にこっぴどく叱られちゃうよ」
「それは自業自得だ」

 ぐちぐちと言う雉子に対して厳しい川中島。仕方ない気もする。しかし俺は雉子の気持ちを理解できる。『彼ならやってくれる』というイメージ。期待に応えようと頑張り、積み重ねて、また期待値が上がり、積み重ねて……その結果、重くなってワーッと崩したくなった。
 高くなり過ぎたハードルに足を引っかけて失望されてしまう前に。その方法が逃亡だっただけのことだ。もしも雉子が鳥人間でなかったらと思うと、ゾッとする。

「嫌なら無理して帰ろうとかしなくていいぜ?」
「無理はよくないが、ズルズル物事を引っ張るのもよくないぞ。次は有休を使え」

 板挟みの雉子は委縮して、すがるような上目づかいを俺にする。ちゃんと力になってやりたいのに、俺はうわべでしか親切にできない。現状を解決する具体的な案が浮かばないのだ。

 そこでおっさんが、

「ねぇ、一緒にハーブとか野菜とか育ててみない? 楽しいよ、とても」

 と、いつになく優しい声で逃げ道を用意したのだった。不安定だった空模様に夕日が一筋差し込み、窓辺を照らした。おっさんの広いおでこが後光のように神秘的に光って見えた。
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