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八、水族館へ

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 連日のうざったい雨は終わり、うざ蒸し暑い季節の入り口に差しかかった。あの見事なアジサイの道も色あせてきて残念な気持ちになる。

 その代わり雨雲から解放された空は地上からでもシアンのどぎつさを感じ取れるようになった。押し潰されそうな、精神的有毒性の空だ。それらひっくるめて、憂鬱な夏の始まりである……。


 魔術愛好会の部室にて。
 窓際でぐったりと。携帯電話で松先輩おすすめのマジック動画を薄ら眺めていると、彼女がそろりと近づいてくるのが気配でわかった。

 動画を止めてイヤホンを片方取ると数珠の音が聞こえる。どれだけ感情を抑え込んでいるのか、苛立っているのか不安がっているのか、数珠の鳴り具合で量れるようになってきた。おかげで「これであなたも会長マイスターだ」なんて美池先輩にからかわれ、江井先輩には生暖かい視線を向けられたものだ。

 どうやら松先輩はまじめに動画を見ろと注意しに近づいた訳ではなさそうであった。

「ところでオギ」
「なんスか?」

 イヤホンのもう片方も取る。松先輩のしかめ面で口をもごもごさせている様は入れ歯をなくした老人のようである。そんなこと本人には口が裂けても言えないが。ABコンビが拳を作って後援している模様は見て見ぬふりをした方が賢明だろう。

 松先輩は思い切ったように口を開かせた。

「あ、新たな魔術を開発するため、そのインスピレーションを生み出すために普段行かないところに行こうと思っている」
「はぁ」
「常に同じ場所にしか行かないサイクルを送っていると、新鮮な運も入ってこない。だからいつもと違うサイクルの生活をおこない、運を吸収する」
「はぁ」
「水族館に行きたい。連れて行け」
「話の流れおかしくないっスか?」

 ABコンビが「〇〇〇、〇〇〇」と愉快に口をぱくぱくさせてボディーランゲージ。ああ……『デート』のお誘いね。マジックのためだなんて松先輩らしい言い訳だと思わないか?
 江井先輩が『いけ!』と俺の方にジャブをする。ほんわかした雰囲気とは裏腹に鋭く俊敏な腕さばきだ。実に会長思いの素敵な二年生である。

「いいですよ」

 断る理由は特に見つからず、快く申し込みを受けてやった。松先輩はパァッと晴れやかな顔をするもすぐに我に返ったように仏頂面。口元がぴくぴくとにやついている。おもしろい人だなあ。

「じゃじゃあ次の日曜日で。その日オギもバイトないでしょ」
「そうスね」
「あとで時間とか詳しく調べておくから。だ、だ、だから、教えて、アドレス」
「ああ、いいですよ」

 メールアドレスと電話番号を赤外線で交換。松先輩は目をギンギンに見開かせ、携帯電話を持つ手は震えていた。江井先輩は小躍りしている。
 美池先輩が「会長のケータイの中にオギの連絡先が入っちゃいましたねぇ」と絶妙にいやらしい声音で言い放つ。松先輩は噴火しそうになった。

「そんなワケでね。今日は私は早退しますワケでね。そんなサイクルな日なからね」

 言葉を噛んでいるのにも気づかない松先輩は小走りで教室を退室した。ABコンビと共にこっそり廊下をのぞくと、肩が洋々と揺れて『やったー!』と万歳して喜んでいた。

「春ね」
「夏だけど春」

 このコンビは単に会長の生態を面白がっているだけのような気がしてきた。
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