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九、二

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 宇宙喫茶にて。空になったラストオーダーの食器を回収している最中に、ヨハネス店長が厨房から手招きする。

「オギー、もっと楽しそーにィっ。じゃないとォ、お客さんも困っちゃいますゥー」

 猫なで声で言いながら、俺の両頬をツンといじらしく突いてくる。俺は「はい」と普段通りに返事をしたのに、店長は「フゥ?」と鳴いて頭を傾げた。そうやって目をぱちくりさせれば、男が簡単にメロメロになるとでも思っているのだ。俺はそんな甘い男ではないぞ。

 BGMも回る照明も消え、騒がしくて慌ただしい店内は一転して静寂だ。花御堂らは先に引き上げ、天体模型の明かりがホールをほのかに照らしている中を一人黙々とテーブルを拭く。マッニホールドさんなら同時に何台も拭けて時短できるのに。

 明日の仕込みの様子を確認し終えた店長がやって来て、るんるんと二人掛けの席に座るなり両手で頬杖をつく。彼女の上目づかいは宝石級なのは認める。壁紙の蛍光塗料が映り込んでいるエメラルドグリーンの瞳。中で銀河が渦巻いているようで、水族館で見た松先輩の瞳を彷彿とさせて目がくらみそうになる。

「ねぇオギー。どーしたんですかァー?」
「あの、拭けないんですけど」

 目が奪われそうになるのを堪えて、努めて冷静に声をかける。店長は「おっとォ」と両手を上げる。

「もしかしてェー、アキーと喧嘩しちゃったんですかェー?」
「してないっスよ」
「よかったァ。デートは成功したんだモンねェ。イルカさんのぬいぐるみをプレゼントしたんでしょお? ウフフ」

 ぬくもりのある眼差しを受けつつ隣のテーブルを拭く。ここにいるのが松先輩だったらなぁと思いながら。

「悩みならァー、この店長さんが聞いてあげますゥー」
「悩み……」

 俺は手を止め布巾を見つめた。あごを引き、ゆっくりとまばたきする。

 黙考する。

「……わかんないっス」
「わからないんですかァ?」

 か細い声で、店長は不思議そうに横から見ている。

「何を悩んでいるかがわからないんですかァ?」
「なんというか……」
「それはスゴイ悩みですゥー」

 彼女はまた頬杖を突く。俺は布巾をたたみ直して除菌スプレーを吹かせる。店長はその席で尻尾を振り振りし、CDを出したいとか言って作ったというオリジナルの歌をぶつぶつ口ずさむ。人のことを言えたものではないが、変な歌である。
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