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十一、さよならクラちゃん

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 背後の大きな物音に肩が跳ねた。倒れたチューリップチェアが小刻みに弾んでいた。アルファルドさんが豪快に席を立ったせいである。

 セクハラ目的のハゲオヤジやマゾヒストを相手にしても眉尻を気だるげに吊り上げて、『ジョジョの奇妙な冒険』のリサリサよろしく冷たく見下す程度だというのに。洒落にならない強さで腕をねじ上げ、敏腕ウェイターに丸投げ(本当にボールのように片手で投げる)という“ご指導”の一つを俺が初めて目にした時ですら、彼女はちょっぴり乱れてしまった横髪をアンニュイに払うだけであった。

 そんなクールな彼女の横顔が、今にも口から火炎を吹くんじゃないかと思わせるほど、鬼の形相をしていたのである。どれほど激情を抑制させているのか、虹彩がマゼンタ色にメラメラと光をたぎらせていて、首を微妙に振ると現れた光跡に目を奪われた。

 穴を開けるかというほどに地球外製品の携帯電話の画面をにらみながら、光跡を伸ばして休憩室を飛び出していった。鉢合わせたサンシンは「邪魔」の一言で突き飛ばされ、クリスタルのテーブルに熱いキスを落とした。

「何なんスかね……?」
「もしかして、元彼だったりしてぇ!」

 アクベンスさんはにやにやと浮き立って、アルファルドさんの後をついていった。俺も怖いもの見たさで行ってみようと思った。アクベンスさんがいれば大抵彼女に怒りの矛先が向くので、何かあれば盾にすればいい。我ながら非道な考えである。

 ところが二大巨塔は早くも慌ただしく戻ってきて、アルファルドさんは「どけ地球人!」と荒い声音で俺を横に突き飛ばし、ずかずかと去っていく。壁に熱いキスをした俺は口元を抑えながらアクベンスさんに事情を尋ねた。

「元彼が情報提供したらしいわ! 今日は早めに帰されるかもね!」

 さっきまでのお調子者の影はなく、アクベンスさんも俺を早々にあしらった。

 
  作戦会議により
  本日は15時までとなります
  ラストオーダーは14時半まて


 アクベンスさんの言うとおり、表看板に無感情な直筆の断りが貼られた。誰が書いたのか、濁点まで書き切る時間すら惜しんだというのか。
 客の手前、ホールスタッフは愛嬌を絶やさなかったが、厨房側はラストオーダーが近づくにつれて空気がピリピリし始めた。花御堂の姿も消えている。

「一体何があったんですか……?」

 帰る直前になって運よくヨハネス店長を捕まえることができた。彼女は鼻息を吹かせて意気込む。

「ミンパラ一派とヴァチイネ一派がそれぞれ地球方面に向かってるらしいんですゥ」

 店長は尻尾を振った。犬と違って好意で振っている訳ではないことくらい気がついた。

「それはマフィアか何かなんスか?」
「ミンパラは星際間せいさいかんでも問題になってる密漁グループですゥ。ずっとちょこまかとネズミのように逃げ回っててェ、逃し続けたこっちも悪いんだけどォ、今度こそ捕まえて芋づる式に検挙するですゥ。これ以上、地球人から被害を出したくないですゥ」

 ぶりっ子口調に伸びやかさが消えている。それだけでも彼女の中に緊迫感があるのが感じ取れる。

「地球人被害って……?」
「そうですゥ。そいつらはァ、地球人を捕獲してェ、売りさばいてるんですゥ。知らない人についてったらダメダメ! わかったァ?」

 お茶目にちょこんと人差し指で俺の鼻を突いた。しかしエメラルドの瞳は真剣そのものの鋭い輝きで、俺はおっかなびっくり二度うなずいた。

「売られたらどうなるんスか?」
「これ以上はァ、聞かない方が気持ち悪くならないですゥ」
「いやもう精神にキてます……」
「早く帰って休むですゥ」

 ここで「オーギー」と間延びしたサンシンの呼び声がした。遠巻きに俺たちを見ている。こっちの会話は聞こえていないようだ。

「ほら、サンシンが呼んでますゥ」
「出張サービスはどうなるんですかっ?」

 思いのほかに焦りの声が滑り出て、ヨハネス店長はきょとんとした。

「ア。もしかしてェー、オギ―、心配してくれてるゥー?」
「あたりまえじゃないですか」

 俺たち地球人が得体の知れない宇宙人に拉致される危険性よりも、身近にいる店長たちの身にもしものことがあったらという不安の方がまさっている。

 リアル宇宙人が経営している飲食店で働き始めて早くもおよそ半年が経とうとしている。俺にとって、すっかり当たり前の生活の一部になっていたのに。彼女たちの活動のおかげで安全に働いていられたことを理解できていなかった。いや、平和ボケできていたのはそれだけ彼女たちは結果を残し続けているという証拠なのだ……。

 けれど。しくじれば血を流すかもしれない。猿も木から落ちるし、宇宙人もユーフォーで事故る。プロフェッショナルだろうが彼女たちの本業も敵の正体も把握していないからこそ、俺は余計に死神の存在が恐ろしいのだ。

「みんな川蝉祭たのしみにしてたのに」
「アハァ。それにィ、アクーの占いのアシスタントがァ、キャンセルになっちゃうかもかもだからァ? せっかくのカワイイ衣装のお披露目がなくなっちゃうかもォ?」

 空気を重くしないように気を使っておちゃらけてくれたのに、俺はそれに乗っかる意欲が湧かなかった。
 なぜ店長がそんなことを言ったかというと、松先輩は宇宙喫茶に交じって占いを提供することになっているからなのだ。

 喫茶メニューにプラス二百円払うことでタロット占いがついてくる。これは松先輩が直々にヨハネス店長に交渉したものである。彼女は単に占わず随所に魔術の小技を挟むつもりでいるのだ。
 店長はプラス五百円なら『大藤の母』ことアクベンスさんの安いカニの占いをしようと快諾。カニの甲羅なら“宇宙のカニクリームコロッケ”や“宇宙のえびカツサンド”でいくらでも用意できるし、絶対繁盛するとみんなが浮かれていた。それだというのに、あまりにもタイミングが悪すぎる。

「ちゃんとみんな来てくださいよ」
「それはまだなんとも言えないですゥー。ドゥ・マイ・ベストォー」

 初めてヨハネス店長のぶりっ子調に切なさを覚えた。

 宙ぶらりんな思いのまま、俺はタイムカードを切った。スピーカーから『おつかれさまニャン!』と、これでしか聞かない店長の愛くるしいニャン語に肩を落とす。

 俺はただのアルバイトで、正式な団員ではない。一線を引かれて蚊帳の外に放り出されるのは仕方がない。ただ、俺が非力で無知な地球人であるせいで単なる保護対象になったような気持ちにさせられる。

 別に動物扱いされてはいない。それはさすがに被害妄想が過ぎて銀河団に失礼だ。彼女たちが相手にしている輩は動物扱いすらしてくれないのだ。だから、仕方のないことなのだ……。

 サンシンは俺と違ってまったく事情を知らされなかったにもかかわらず、練習時間が増えることに喜んでいて、そのまま仕事を上がることを受け入れていた。シフトの相談だと勘違いしてくれているのか、店長と何を話していたのか道中に問いただしてもこなかった。

 まずはおやつタイムを『エリザベスドーナツ』で過ごした。俺はアールグレイレモンドーナツと、夏季限定のメロンクリームドーナツを選んだ。

 粉砂糖がつかないよう紙ナプキン越しにメロンクリーム味を手にして、クリームがこぼれ落ちるのに気をつけつつパクリ。めちゃくちゃ甘い。宇宙犯罪者の存在を忘れてしまいそうなくらいに甘い。こういう時の紅茶はストレートで飲むのに限る。

 サンシンが黒豆抹茶ドーナツをプラスチックのフォークで半分にしながら「なあ、オギぃ」と、丸みを帯びた声を出した。

「江井さんってさぁ、彼氏いるぅ?」
「さぁ。ダメンズにモテるってのは知ってんねぇ」
「まーじー?」

 黒豆抹茶ドーナツを切って、また切って、四等分にするサンシン。

「どういうライン? どういうダメ?」
「そりゃあ、たとえば……あっちこっちで女作ってたり」
「うん」
「ギャンブル狂いで借金してたり」
「うん」
「店員に対して高圧的な態度だったり」
「うん」
「酒飲んだら豹変してそのあと記憶失くしてたり」
「うん」
「っていうのを、美池先輩が別れさせてきた」
「まーじー?」

 庇護欲をそそられる印象ゆえに、俺が守ってやろう、と思わせる。その感性が危険因子なのだ。

「そっかー」

 黒豆抹茶ドーナツを八等分にしたサンシンは、ほうじ茶ドーナツを切り始めた。

「ウーン、モテるってことはぁ、江井先輩の方から恋して、ってワケじゃあないんやね?」
「毎回告白されてオッケーしてたんやって」
「へぇー」
「してみりゃお前もオッケーしてくれるんちゃう?」
「運動音痴はダメンズにカテゴライズされんけ?」
「めずらしく弱気やねゃ」
「センチメンタルジャーニー」
「あっそう」
「好きなタイプは?」
「好きになってくれる人」
「まーじー?」

 ほうじ茶ドーナツを八等分にすると頬杖をつき、フォークの先端を噛み始める。

「それ食わんがん?」
「あ?」

 サンシンは一口サイズのそれらを発見すると、やらかしたと言わんばかりに頭を抱え、パクパクもぐついた。本気で江井先輩のことが気になって仕方がなくて胸がいっぱいになりそうなのだろう。あまり美味しそうに食べなかった。

「付き合ってから好きになってもらうのとぉ、好きになってもらってから付き合うのとどっちがええんやぁ?」

 微妙にヨハネス店長みたいな口調になっている弱気なサンシン。サンシンのクセして江井先輩を好きになった自分もダメンズで、付き合うべきじゃないとか考え始めているのだ。四切れずつ食べて、完全に手が止まる。

「いらねぇんならもらうよ?」
「旭さんは?」
「ちげーわンダラ、そっち」
「ああ。あげる」

 俺は皿を引き寄せて残りものを摘まんだ。

「告白した上で友だちから始めりゃええんちゃん?」
「クーリングオフつき?」
「それはお前らが相談して決めろや。俺的には川蝉祭本番に支障をきたんかったらいいなって思ってる」
「じゃあ……本番成功したら告白する」
「成功したらじゃなくて。成功させんだよ。せんぱいの顔に泥塗ったら承知しねぇぞ」
「はぁー、いいなー、オギは両想いでさー。ごちそうさまだー」

 サンシンはバンザイをしてそのまま合掌した。人のことは言えないが行儀が悪い。美池先輩にマイナスされるぞ。

 その後はいつものカラオケ店でサリーちゃんとメグちゃんを練習した。俺は松先輩のために。サンシンは江井先輩のために。それぞれ欲望を抱え込んで、本番の日まで刻一刻と近づいていった。
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