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十、二

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「……なんていうか、物足りなさ感じる」

 いつものカラオケ店の前で集合した俺はメンツを見て言った。

「三人しかいないから当然だ」

 川中島が「何を当たり前なことを言っている?」と眉をひそめる。この日は俺とトールと川中島しか集まれなかった。銀髪の天使と、シルバーアクセサリーをあちこち身につけたゼブラ柄のタンクトップだけでも十分目立っているはずなのに。感覚がマヒしている。

「タケがおらんと静かやなぁ」

 トールがしみじみと笑った。

「あと言っておくが、私は途中で離脱する。今日は天使総会があるのだ」

 俺とトールは「天使総会?」と声を重ねた。

「昼になったらテレビ通話で参加しなければならない。ハナミドーが昼ご飯を作り置きしてくれたからな。チンして食べながら話を聞く」
「いやダメだろ」
「何がだ」
「食べながらはダメだろ」
「他の天使も食べてるぞ」
「緩すぎんだろ天使総会」

 トールが吹き出した。

「やっぱりオギ君ってツッコミなんやぁ」
「え、いや……」
「ぼくらハクトーさんはこんなんなんやって、受け入れてしもうてるもん」

 トールは厳つい上腕二頭筋を利かせてツッコミを入れているイメージがあったのに。少しショックである。

「てか、このメンバーだったらカラオケじゃなくて俺らの家でも……一応あそこ防音だし」
「私はカラオケがしたい」
「あのなぁ」

 俺と川中島のやり取りがツボになったトール。「まあ機材そろってる方がええやろ?」と笑いを噛みしめた。

 練習を一時間ほど真面目にやって、あとはただのカラオケ大会だ。トールは流行りの曲をチェックできる男でありつつ、チャゲアスや杉山清貴、安全地帯といった自分の世代より少し前のアーティストの曲を好んだ。川中島はチューリップや伊勢正三といったフォークシンガーから、今日はとうとうモーニング娘を歌い出した。
 オクターブを下げて、真顔でゆさゆさと上半身を左右に揺らしてウォウウォウウォウウォウ歌う川中島。俺はタンバリンを鳴らして堪えきれない笑いをごまかした。トールはヒィヒィ笑った。


 川中島が宣言通りに離脱すると、俺とトールのふたりだけというさらに珍しい状況になる。
「せっかくやから」とトール行きつけのオムライス専門店で昼飯といくことに。メンバーがそろえば宇宙喫茶一択でも各々に行きつけの店が当然あるらしい。自分だけの時間は誰もが持つべき権利である。

「ぼくオムライスめっちゃ好きなんやけど、ここのオムライスが今ァ激ハマりやねん」

 それで、ヨーロピアン調の落ち着いたレストランに野郎が二人。まあ、花御堂とゲームセンター、ヨハネス店長とカフェ、とくればこれくらいなんてことはないのだが、一人焼肉ならぬ一人オムライスが至福の時間だというのなら、俺とのランチにここを選ばなくてもいいのに。俺を仲間として心から受け入れた表れなのかもしれないが、松先輩と訪れたかったなあ。

「宇宙喫茶にもオムライスありますけど」
「そうねんけどねェ……青いケチャップは……目を閉じたらウマいよ」

 トールは眉を八の字にして愛想笑いを浮かべた。赤いケチャップバージョンも需要があると花御堂に伝えておこう。

 トールが激ハマり中のオムライスは、切ったら中身がドロッと出てくるタイプではなくシンプルなやつであった。一体いくつ卵を使っているんだと疑問が浮かぶほどの肉厚な玉子は弾力があって、それなのにふわふわだ。チキンライスにはケチャップが使われていない。だからくどさを感じないのか、トマトケチャップがかかっていない部分の玉子といっしょに食べるとチキンライスのバターの風味が玉子と絡んだ。

「うんま」
「せやろ」

 オラオラ系の外見をしている男が幸せそうに目尻を下げてオムライスを頬張っている。もちろん、スプーンの持ち手の小指は立っている。

 すると、彼は唐突に声をかけてきた。

「なあオギ君。気楽にいこうな」
「え、はい」
「そりゃあ真面目に何かに取り組むいうのは大事なんやけど……もぐもぐ……たまには思い切って努力を忘れてみるっていうのもアリやと思うねん」
「努力しないってことですか?」
「ウーン、まあ、そうなんかな?」

 ニュアンスが違うのか、トールは目線を宙にやって首をかしげる。

 メンバーがそろっている時にもトールと言葉を交わすことは当たり前にある。しかし、ふたりきりなだけあって言葉の重みが分散されずに俺に直接かかってきた。気楽と言っているから本人も軽い気持ちで、だからこそオムライスをもぐつきながら、さも世間話であるかのように意見を投げかけているのだろうが。
 ところが、せっかく『日々精進』の精神を思い出した俺にとって彼が言い出したことは目から鱗が落ちるどころか毒気に当てられた。

 トールはオムライスを一口すくっては紡ぐ言葉を探している。

「なんていうんかなぁ……もぐもぐ……努力ってさぁ、薬にも毒にもなる思うねん」
「あー……限度があるみたいな?」
「そうそう。オギ君がこの前ぼくらに明かしてくれたトラウマの話。あれは副作用やった思うねん」
「副作用?」
「もぐもぐ……努力をすればするほど周りに認めてもらえるはずやいう先入観もあんねんけど。そりゃあ周りの評価なんかどうだってええ、自分がやりたいようにやんねんっていう気概もあったってええねんけど。どっちにしたって自分の首絞める行為に違いない思うねん」
「まあ」

 努力すれば報われるだの、努力は裏切らないだのというスポーツ根性は俺も嫌いだ。あくまでも可能性が広がるだけで成功が確約される訳ではないのだ。

「首絞めセックスみたいなもんかもしれん……」
「は」

 トールの言葉のチョイスに乱れが生じる。俺は周りの席の女性客に目をやった。幸いにも聞こえていないみたいだ。たぶん。

「ぼくのダチにそれハマっとるヤツおってな、危ないからやめた方がええ言うてんねんけどな、やると締まって女もアへる言うねん。同意の上でも絶対やめた方がええ思うねんけどなぁ……好き合ってるからこそお互いのカラダ気づかわなアカンのとちゃうのネェ? ホンマに気持ちええんか? やりたくもされたくもあらへんけど……デストルドー……いや、ちゃうなぁ……」

 深刻な顔で首をかしげ、俺の存在が彼の視界からかすみ始めたので「話それてないですか?」と声をかけてあげる。トールは我に返った。

「とにかくオギ君の場合、テレビに出てたベーシストに感銘を受けて、天啓みたいな……自分の人生はこのために費やすんやみたいな……そういう決意したワケやんかもぐもぐ……せやから夢っていう一言だけじゃ済まされへんねやろな? もはや……もぐもぐ……生きるエネルギー」
「もぐもぐ……ウーン、そうですねぇ」

 打ち明けた時もトールは『その場その場で楽しければええやんみたいな……なァ? 将来のことなんか後々考えたらエエやんみたいな楽天的な考え持ってる奴らが“ホンマにプロになれる思ってんのか”って言うのはちゃうよなぁ? ちゃんと業界を知ってる人らが“ホンマに厳しい世界やけどやれんのか? 根性あるか?”って言うならわかるけど、お前らはちゃうやん? そういうお前らこそ人生生ききる根性あるんかって言ってやりたいわな?』と苦み走った顔をした。

 トールはストローでぐびぐびとハーブティーを飲んで喉仏を上下させる。

「前言うてたやんか。なんでギターじゃなくてベースなんか。体の一部みたいに脈動してるように感じるのがええって言うてたやん。それ聞いた時ねぇ、命かけることにしたんやなって、ぼく思ってちょっと心配してんねん」
「重いですか?」
「正直言うて楽器手放すだけでな、破壊するんやなくて押し入れに仕舞い込んだだけやろ? そんだけで済んでホンマによかったな思うてんねん」

 たしかに、もし衝動に任せてアコベを壊していたら。仙人はその場で消滅していたかもしれない。そして空飛ぶ家の屋根に上がったあの日、目の前が真っ暗になっていただろう……。命綱だったのだ……。

「努力が水の泡って言うやん? その泡が、毒になんねん」
「毒ガスですか?」
「毒ガス」

 怪談を読み聞かせる時の口調で「しかも、目に見えへん」とトールは眉と声をひそめた。首絞めセックスを発する時にその口調をしたろうよ。タケはサンシンと同じニオイだし、ツカサも若干言動が怪しい節があるし、トールがまとも枠だと思っていたのに。そういえば、ライブの時に『ドロン!』をやらかしていたな。既に怪しかったわ。

「ぼくそれで死のう思ってもぐもぐ」
「おおっとォ?」
「もぐもぐ」
「バスケで小指やらかしたヤツですか?」
「そうもぐもぐ右の指四本折れてもぐもぐもぐせやからインターハイもぐ直前でもぐもぐもぐもぐ」
「食べるかしゃべるかどっちかにしません?」
「ぐびぐびぐびぐびぐびぐび」
「飲むんかい」
「んっふふふ……」

 トールはストローをくわえた唇を緩ませた。オラオラ系の外見なのに笑顔は子どもっぽい。

「あの頃はバスケ一筋で、バスケ命で、他はどうでもよかったんになぁ……ぐび」

 彼は俺を通して過去へと眼差しを向けた。

 トールはスポーツ特待生として家を出た。ポイントゲッターだった彼はインターハイ直前の練習試合中に“起こるべくして起きた事故”によってレギュラーから外されてしまう。補欠にすらなれず、追い打ちをかけたのは入院している間にチームが優勝して、誰もその報告をしてこなかったことであった。

 失意のうちに燃え尽き、心は灰と化した。リハビリに力が入らない。利き手ではない方で勉強をする気も起きない。自信に比例して期待を寄せてくれていた両親や中学の先生に面目ない。みんなが敵に見える。地元に帰れず、彼は死に取り憑かれそうになる……。

 それにいち早く感づき、救いの手を差し伸べたのが『騒音の問題児』と評判だったタケだったのである。
 自ら閉ざした孤独の檻の入り口で、どこからそんな音を出しているのか見当がつかないヘタクソなギター演奏を延々とされて、ついにトールは我慢ならず扉を開けてしまった。

 校舎の屋上からふらりと飛び降りる寸前だったのが助かったのだ。タケの自己流の演奏は聞くに堪えなかったが、間違いなく彼の音楽がひとりの命を救ったのである。

「きっとタケの気持ちが通じて、ハクトーさんがやってきたんやろうなぁ。ホンマに今じゃ考えられへんくらいエッグイ下手さやで?」

 トールは思い出し笑いで肩を揺らした。

 言葉では、心が死んでしまった彼に伝わらない。ならば音楽で本能に訴えかけるしかない。タケが賢明にギターをかき鳴らす様が俺の脳裏にモノクロで浮かんでくる。

 音楽は世界を救う。音楽で世界を救いたいならもっとマシな腕になれ。やがて不快を通り越して、トールは笑うしかなかった。

「せやけど……あの時ばかりはヘタでよかった思うわ。死ぬ間際で聞く音楽があんなんて嫌やわ」

 マシな音楽にするには? ならばデュエットだ。タケの謎理論によって『ムラタニ楽器店』の中古のギターを買わされたトール。リハビリもできるし一石二鳥だと、有無を言わさずに『騒音の問題児』の仲間入りを果たした。タケの身なりが『ビー・バップ・ハイスクール』だったせいで拒否権がなかった。
 急激にモテなくなり、後ろ指をさされる。風紀委員には『あの問題児を止めろ』と命令され、生徒指導の先生には『お前は洗脳されている。両親が泣くぞ』と説教を受ける。

「そうは言うたかて、洗脳されてへんかったらぼく死んでんねん」

 反骨心を奮い立たせたかった訳ではないが、タケ以外はまだ敵に見えたトールはリハビリのためにギターを弾いているのだと嘘をついた。バスケを忘れるために、敵の存在を忘れてやるためだったというのに。

 タケに歌唱力を見いだされ、トールのモテ期は静かに再来する。バスケに熱中していた頃は女子ごときに構っているヒマなんてワケがないと蔑ろにしていたのを振り返った彼は反省し、ひっそり応援してくれる子たちにはひっそりと手を振った。

「やっぱ女子にモテるってエエよね。カミソリレターもらったことあるもん」
「ふっる」
「やっぱ古いよなぁ」

 やがて買わされたギターは川中島へと渡ることとなる。川中島に教わるようになってからタケはメキメキと上達した。

 トールは数年かけて人差し指、中指、薬指と曲げられるようになったものの、小指だけは石化してしまったかのように動かないままだ。彼はそれを『約束の指』と呼んだ。音楽で世界を救うという壮大な約束である。

「世界を救うんやったら真っ先に自分が救われたいやん。救われたいねん、ぼく。ぐびぐびずびずび」

 氷が大きく残されたままミントティーを飲み干す。オムライスは既に完食。食後のバニラアイスが運ばれてきた。トールは刺さっていたウエハースでアイスをすくう。

「ぼくにとって救いって忘れることやねん。サク。せっかくがんばってきたのをなかったことにしたいんかって思うやろ? サク。そうやのぉて、こんなにぼくはがんばってるんにっ。めっちゃくちゃがんばってきたんにっ。ていうのを忘れんねん」
「努力をしてきた事実から感情を切り離すって意味ですか?」
「そうなんかなぁ……? オギ君って、努力している俺エライとかカッコいいって思ってまうタイプ?」
「はい」
「即答やん」
「Мなんですかね」
「自分をとことん追い込みたいんやったらそうなんちゃう?」
「逃げ場を失くす方が必死になれるし」
「サク。それやめた方がええで。そりゃあ人によって効率のいいがんばり方ってあるで?」

 逃げ場を失くすは誇張か。でも火事場の馬鹿力だとか、窮鼠猫を噛むだとか。

「ピンチの時こそ真の力を発揮できなければ生き残れんので」

 トールは「それやねん」と、スプーンを手にしたまま小指を俺に向けた。

「ピンチになったら焦って当たり前やんか。せやから逃げ場は絶対必要やねん。ぼくにはこんなにも避難場所があるっ。失敗してもメッチャ安心っ。気楽ゥ。これやで」
「失敗前提……?」
「失敗前提っていうか、伸るか反るか、やからね。こんなこと言うたら腹立つやろうけど、ぼくらがやろうとしていることは失敗しても別に構わへんことなんやで」

 失敗する訳にはいかない。松先輩のためにも。

「旭ちゃんのこと考えとるやろ」
「はい」
「ドーンと構えとき。気楽にいけ。モテる男の余裕の見せどこやで。結婚式呼んでや」
「早ぇッ」
「あっははは。さすがやわぁ」

 トールがした話は扇ヶ谷家の家訓、俺の座右の銘を脅かすものであった。
 人生は修行である。どんなに腕を磨いても胡坐をかいてはならない。努力が実るかどうかは神のみぞ知るものであろうとも、努力をしなければ自信が持てない。努力をせずに自信に満ちている奴は天才か阿呆のどちらかでしかない。俺は天才ではないし阿呆にもなりたくはない。がむしゃらにアコベと向き合わなければ、スタートラインに立てないのだ。

 この思考が毒になるとトールは言いたいのか。首絞めセックスとたとえたのも、過度な努力でハイになってしまうのを危惧したからだろう。

 親父は川中島との約束を果たせず悔恨を抱き続けている。ひたむきに頑張ったのに。アコベが弾けるようになれさえすれば、きっと川中島も元気になるって信じて頑張ったのに。努力が実らなかったいい例だ。親父はずっと毒に蝕まれているのだろうか……。

 たとえ毒に当てられても。それでも俺たちは努力するしかない。これぞ扇ヶ谷家の宿命。
 呪いめいた俺の努力ハイの反動を危惧して、自身の経験からトールは釘を刺してきた訳である。これがストッパーとして良い作用を及ぼしてくれればいいのだが。松先輩の五寸釘ならいくらでも心臓に打ちつけてもらって構わないのに。

「せや。今な、新曲つくってんねん。タケが作詞してんねんけど。完全にオギ君がベースやる前提で進めとってな? 別にええよね?」
「ええですよ」
「ええか? オギ君ノリ良くなってくれてアイツも気合い入ってんねん。やっぱ救ってもらった身ィとしてはあんましガッカリしてるとこ見たないねんねェ」

 食器の音を立てないように、ミントが乗った最後の一口をすくい上げる。

「音楽は楽しんでナンボなんや。オナニーといっしょなんや。気持ちよくなるためにはリラックスせなアカンねん。ムダに力まずに、気楽にな。緊張しても失敗を恐れたらアカン。死ぬ以外の失敗はいくらでもしたってええんやから。ゴチソウさまでした」

 トールは律儀に手を合わせた。
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