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十、五

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 親父が川中島と知り合ったのは上京してからであった。いろいろあって親父は帰郷。生命保険会社に就職。パンの販売員だった母さんとお見合いし結婚……。

 母さんの話によれば、お見合い写真の印象は良くなかったらしい。目は死んでいて、写真家に言われるがまま無理やり笑顔を浮かべているような感じ。初対面の親父は生きる屍のようで、とても生命保険の営業をしているとは思えなかったという。機械的な相槌ばかりで反応は鈍い。愛想は悪い。後ろ向きで目の前の相手を見ようとしない。

 あからさまにお見合いに乗り気でない、そんな親父となぜ結婚を決意したのか。小学生だった俺が聞いてみれば、単純に放っておけなかったかららしい。今自分が見捨てたら、彼はふとした拍子にふらっと命を投げ捨てようとしそう。そんな気がしたのだという。

『だからお母さんはあんたたちの命の恩人でもあるのよ』と、母さんは笑い話として教えてくれた。親父は、死んだ川中島の後を追うつもりだったのだろうか……。


 ――指が言うこと聞かんくてなァ。


 毒……。トールと同じ毒を親父は含んでしまった。トールは性的エネルギーがもたらした死の欲求をバンドで昇華させることに成功しているが、親父はずっと未練を抱えている。

 ……もしかして、釣りをしているのは昇華のつもりなのだろうか。アコベに夢中になる前は、よく勉強の気分転換で親父についていった。

 幼いながらに何となく空気を読んで、会話は必要最低限。どちらかに魚が食いついてくるまでは黙っていた。でも、糸が引いているのに俺が声をかけるまで親父は気づかないことが多々あった。
 もう……精進しぃや、と。俺が呆れながら注意すれば、親父は『ゴメンなァ』と微苦笑を浮かべた。もし母さんと結婚していなければ、ふらっと海に身投げしていたかもしれない。そう思うと身震いする。潮風が冷たく感じる。

 それに引き換え、川中島の歌声はなんて温かいことか。聖母を思わせる眼差しで夕日を見つめて、弦を弾くたびに幻日のきらめきが瞬いていた。

 なぜバンドは売れなかったのか。なぜ解散しなければならなかったのか。なぜ、死ななければならなかったのか。神様はどれだけ試練を与えれば気が済むのか。それとも、川中島の才能を惜しんでさっさと魂を手元に戻したいと思ったのか。そのせいで、救われなかった魂がどれだけあるのか……。

 川中島が歌い終わり、拍手を送ろうとしたその前に、物音がして俺は振り返った。白髪交じりの角刈りで、日に焼けて腕を赤くした男が、ルアーとクーラーボックスを落として立ち尽くしていた。

「親父」
「なんでその歌知っとるげが?」
「え?」

 親父は呆然と川中島を見ていた。

「それは、シロちゃんの歌やぞ」

 俺は唖然とした。親父は「いんや」と混乱で頭を振る。

「その曲は未完成やった。君はシロちゃんの……城木しろき源平げんぺいの知り合いなんが?」

 親父は詰め寄ることができず二の足を踏む。立ち上がった天使に、一歩退く。答えを恐れているようだった。

 川中島は踏ん反り返る。

「そうだ。私の名前は川中島白桃だ。ハクトーさんと呼ぶがいい」
「川中島……? シロちゃんとはどういう関係なん?」
「一心同体だ」

 川中島は顔だけでなく名前も変わっていた。天使は幽霊ではない。別人になったからには生前の知人に会うことが許されても、他人として振る舞わなければならない。考えればわかることだったのに、ふたりを再開させたいという気持ちが先走って、そこまで頭が回っていなかった自分が浅慮だったということだ。

 川中島はじっと親父を見据えた。

「城木源平は思っていたぞ。オーギガヤツが完成を待ち望んでいたとな。白血病が治ったら、すこぶる音痴なオーギガヤツと一緒に歌ってやろう思っていたぞ」

 真に受けたのかどうか。親父は動揺を隠せずに瞳を震わせていたが、やがて「そうか」とぎこちなく呟いて、無理やり口元に笑みを浮かばせた。

 超音痴な親父が歌っていた未完成の曲は、二十年以上の時を経て完成された。あの曲は病床にいたシロちゃんが作っていたもの。窓を開ければ、ピカピカのアコベを片手に見舞いに来た親父が見えた。バンドを解散してしまい、病に陥り、先が見えない時に現れた親父は、シロちゃんには眩い希望に見えた……。




 煮つけに唐揚げ。親父が釣った魚を使った料理がダイニングテーブルに並んでいる。

「む。オーギガヤツママの手料理だな。実にいい匂いがしている」

 高校生の弟と中学生の妹はポカンと、堂々と一番乗りに席についている川中島を見る。

「ハクトーさん。その羽は重くないん?」

 母さんはご満悦に、魚の炊き込みご飯を盛った茶碗を配る。

「心配無用だ」

 すると弟がぶっきらぼうに「ちょっと」と、俺をダイニングの隅へ手招きした。それからこそりと言う。

「来るって聞いとったけど。あれ何? 変人じゃん」
「一言だけ言えることはな、気にしちゃいかん」

 妹はずっと間抜け面で川中島を見ている。

「あんたたち早く座りよし。ハクトーさんはちゃんとしとるでしょ」

 母さんはすっかり気兼ねのない天使のことお気に召していた。ハマっている韓流ドラマのイケメン俳優に似ているかららしい。なんじゃそりゃ。

 俺の席に川中島は座っていたから、俺は亡き祖父の席に着いた。親父から見て川中島は右斜め前。もどかしい位置になっている。
 親父は肩身が狭そうにしていた。川中島の方に目をやらず、箸の先をじっと見ている。この頑なさは血の争えなさを覚えた。

「ハクトーさん、お口に合う?」
「む。オーギガヤツママのご飯は私の口に合うぞ。オーギガヤツもこれくらいのを作ればいいのだ」
「う、うるせーな」

 俺が答える。親父もぴくりと反応して、自分のことではないとわかると黙々と夕飯を食べた。何を考えているのだか……。

「そういえば、サンシンは?」

 微妙な空気を醸し出している食卓に我慢ならなかったのか、唐突に妹が俺に言った。

「本当は一緒に帰る予定やってんけど。縁日には帰る言うてたよ。もしかしてクラゲ売りが来るかもしれん、みたいな」
「生まれてこの方、売ってっとこ見たことないんですけど」

 弟が言った。『そのクラゲの美しさたるや海のダイヤモンドやー!』とサンシンがクラゲに惚れるきっかけになったクラゲ売り。当時小学生だったサンシンも一度しか遭遇したことがないという。夏季限定で子どもの前にしか現れないと、一時はウワサになっていた。ただ、ちびっこはクラゲよりも金魚の方がお好みで、サンシン以外でクラゲを買ったという子の話は聞かない。一匹五百円だというから尚更のことだ。

 妹はほっとしたような顔をした。その表情を川中島は見逃さなかった。

「オーギガヤツ妹はサンシンが好きなのか」

 親父が咳き込んだ。魚の骨が喉に刺さったらしい。妹は泡を食って赤面する。

「ちっがう! ちっがうもん!」
「そうだやめとけ。あいつは少女アニメとクラゲが大好きな変態運動音痴だぞ。クラゲの水槽の隣にフィギュアが置いてあるんだぞ。エロさ満載だ」

 我ながら親友に対してひどい言いようだが気にするまい。親父は涙をにじませながらむせていて、母さんに背中をさすられている。

「む。クラゲの水槽の隣にフィギュアが置いてあるとなぜエロいんだ?」
「清い魂でいたいならスルーな。世の中には知らない方がいい世界があるんや。俺も後悔したことがある」
「だったら清い魂でいられなくなるような話題を出すなオーギガヤツ。オーギガヤツ妹も、それはツンデレってやつだろう? ハナミドーから教わったからな。ツンデレ妹キャラが許されるのは二.五次元までらしいぞ」

 初対面の天使に諭されて、妹は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「サンシンは彼女募集中だ。コスプレしてくれる子がいいらしい。ソーリューアスカラングレーっていうキャラクターがツンデレらしいから、それのコスプレをして罵倒したらいい」
「どんなプレイなんだよ」

 慣れたのか、弟が初めて天使にツッコミを入れた。




 汗と潮風でべたついた髪を洗い流した。乳白色の浴槽は久しい。入浴剤のヒノキの香りが心を癒してくれた。

 風呂から上がると、親父はソファに座ってテレビを見ていた。レモン酎ハイを飲みながらの、録画しておいた『世界ふれあい街歩き』は親父の癒しの一つである。

「俺、ちゃんとベースやってる」

 親父の背中が「ん」と簡素に答える。

「ちょっとやめてたけど」
「……父さんはもぎりの方が向いとん」

 息子に未練を押しつけたのだと後ろめたさがあったのか、背中が丸まっている。

 親父はシロちゃんの死をきっかけにアコベをやめた。それに比べて、俺の方が不様ではないか。俺の夢は俺が死ぬまで失われやしないというのに。たとえ松先輩が不慮の事故や病気で急死しても……二度と投げ出すことは許されないのだ。

「俺はこれからも続けるよ」
「ん」
「それにしても……小さい頃、親父が歌っとったやつと、川中島が歌っとったやつが一緒やとは思わんかったぞいや」
「それを言うなや」

 親父は照れ隠しに頭をかいた。

「あいつと少ししゃべってみんけ?」
「いらん別に。ややこしくなっげ」

 霊能力者うんぬんのバラエティ番組は好まない親父だが、俺がなぜ川中島を連れてきたのか、一応理解はしてくれているはずだ。

「……なあ。昔の写真見せてくれんけ?」
「昔っていついや?」
「もぎりやってた頃いや」

 親父はおもむろに『世界ふれあい街歩き』を止めて腰を上げた。レモンソーダを飲みながらソファでくつろぎ待っていると、親父は一冊の分厚いアルバムを持ってきた。写真同士がくっついて、表紙をめくるとべりりと小気味よく音を立てた。

「これ親父やろ」

 俺とそっくりだ。

「これ昔の彼女。可愛いやろ」

 母さんが台所から「お父さんはボインが好きなのよー」と茶化す。母さんの懐の深さには脱帽せざるを得ない。

 糊付けされただけのモノクロ写真には青春があふれていた。当時のナウい服を着て、髪型にして。テレビで聞き慣れた昭和のフォークソング、グループサウンズが遠くから聞こえてくるようだった。

「シロちゃんは?」

 親父が指差したのは、もっさりした黒髪を肩まで伸ばした丸眼鏡の男で、場は喫茶店だろうか、千鳥格子のスーツの女性と肩を寄せ写っていた。ギターを抱え、歌っているのか楽しげに口を開かせている横顔もあった。

「どんな人やったん?」
「笑顔が絶えん奴やった。争い事が嫌であんまり意見を言わんかったけども」

 ページをめくっていくと、写真に色がついて、親父の彼女は消え、シロちゃんの彼女も消え、バンドも消えた。最後はニット帽をかぶっている車椅子のシロちゃん、親父のツーショット。そしてヒマワリが飾られた病室で寝ている痩せこけたシロちゃんとアコベを構えている親父のツーショットで締めくくられていた。ページはまだ余っていた。
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