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十一、十三

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 感傷に浸るサンシンをそっとしておいた。「わがまま言ってごめんなさい」と頭を下げる旭さんに対しておっさんは嫌な顔一つせず、家をそのままの高度にとどまらせた。そのうち感情に一区切りをつけて奴は屋根から降りてくると思う。

 家の中はすっかり元通りになっていて、俺たちは夜食にありついた。その中にはアルファルドさんもいた。彼女はずっとふてくされていて、元カレとの通話の内容を尋ねてみる勇気は一ミリリットルも湧いてこなかった。
「ちゃんとおいしそうに食べないと作った人に失礼だぞ」とハクトーの言葉で場は一瞬凍りついたが、元気を取り戻したおっさんが持ってきたゼリーを食べた途端にアルファルドさんの顔は穏やかになった。おっさんの手料理は宇宙喫茶のまかないに必要だと思う。

 その後、花御堂はいつもの調子を取り戻したらしく、通報されかねない変態的な笑みを俺に見せつけ、店長とアルファルドさんと共に銀河団としての後始末に出かけていった。ツカサも事情説明のために同伴だった。店長は「また明日ね」と帰り際にウインク&投げキッスをして、なぜか雉子が「ワッ」と驚きの声を上げた。

 残されたトールとタケは不本意ながらも終電に乗り遅れる前にと去った。ハクトーは食後の紅茶が飲みたいと言い出して、おっさんは意気揚々と湯を沸かし、雉子がレモンを切る。ハクトーはずっと手伝う気がないようだったが、俺に何かを指示するつもりもないようだった。

 俺はそれに甘えた形で旭さんとふたりきり、操縦室で腹ばいになって地球を眺めていた。

 嵐の後の静けさである。あのハクトーの天使の旋律をそれとなく思い出せばとろけてしまい、そばにいる旭さんの存在が、メイド服で乱れたポニーテールというありえない組み合わせと汗のにおいが相まって、幻惑に迷い込みそうになる。

「こんな夜遅くまで、いていいんスか?」

 俺は形式的な言葉を旭さんに投げかけずにはいられなかった。まだ隣に居続けたくて、手を重ねたい衝動に駆られるも、ついためらってしまった。まだ俺の中には騒動の余韻があり、その興奮の対象が彼女へと転換する恐れがあったのだ。触れてしまえば、あっと電流がほとばしり、勢いに任せて襲いかねない……一度そういう考えを巡らせてしまうと余計に意識してしまっていた。

「いいのよ……ねえ、今夜泊めて」
「えっ」
「部屋が一つ、空いてるんでしょう?」

 ああ、そういう意味ね。マジでびっくりした……。彼女らしからぬいやらしい声に聞こえてしまっていよいよというところである。空き部屋はあるがそこで一泊となるとおっさんに許可を得た方がいいかもしれない。それか俺の部屋に旭さんを泊まらせて、俺はリビングに座布団を敷き詰めて寝てもいい。

 スカートからのぞくしっか部が、黒のストッキングの下からくっきりと浮かんでいた。どさくさに伝線したらしく、肉感的なふくらはぎがあらわとなっていた。教えるつもりだったが、脱いでしまう様子が目に浮かんで口にできなかった。

 右にごろりと一回転すればぶつかる距離だったので、彼女が呼吸で上半身が浮き沈みするのが見て取れる。極めつきには大気の青が透明の床にまで届いてぼんやり明るく、彼女の瞳にはまた小さな宇宙が瞬いているのである。

「俺の部屋でもいいんですよ?」
「それは嫌」

 半ば冗談で言った俺に、色好い返事をしないのが彼女の純情。旭さんはいつもの戸惑いをせず「ウフフ」とはにかみ、とろんと目を細めた。興奮が収まって眠気が襲ってきたのだろう。無自覚過ぎる扇情的な表情を注視できなかった。未成年の俺と違って彼女は成人で、体は成熟して間もない女性であり、処女ならではの恥じらいを秘めている。そんな旭さんの羞恥心が俺にまで伝染して、同様に肩を強張らせてしまっていた。さっきまで呪文を絶叫したり、クラゲと格闘したりしたとは思えない初々しい緊張感だ。

「ねぇ。もしかして落ち込んでる?」
「ウーン……そうですねぇ」

 おっさんは家ごと俺たちを守ってくれた。花御堂は命をかけた。雉子がいともたやすく敵をやっつけた。ハクトーも俺とサンシンを助けた。

「俺マジでなんもしてねぇなーって」

 みんなを支えたいと意気込んでおきながら。以前の俺ならば恥ずかしくて顔から火が出ていたと思う。ムキになっていた自覚もある。その反動で今の俺が覚えようとしているのは空虚感だろう。支えられている人間はこれからも支えられてばかりの人生になるという暗示なのか、ふとアクベンスさんに占ってもらいたくなった。

「オギって頼られたいの?」
「そりゃあ男ならそうでしょうよ?」

 旭さんは「フーン」と吐息まじりに、すこぶる興味なさそうな反応をする。

「頼りない男って嫌じゃないですか?」
「頼りにできない人よりも情けない人の方が嫌い。別にオギは情けなくなかった」
「なんか空気を引っかき回しただけって気がするんですよね。やる気だけあってなんの成果も出さないって、俺はメンタル的にしんどいんですよね」
「オギは経過よりも結果を重んじるタイプ?」
「そういうワケでもないんですけどね。努力さえすればいい結果になるんだったら、結局努力のインフレが起こるじゃないですか」
「だったら頼れる時はガンガン頼っちゃえばいいじゃない。適材適所ってヤツよ」
「そうなんですけどねー……」

 頭では理解しているが心が納得しきれないのだ。

「オギは弱いところを見られたくないのね」
「ンンー」
「それって不公平だと思う。私はオギに泣き顔見せちゃったのに」
「あー……俺もハクトーの前で泣いた」
「そうなの? ずるい」

 下唇をツンと尖らせる彼女に、俺は「ずるいですか?」と笑い混じりに言った。旭さんもつられて静かに笑った。

「夢みたい。私たち、地球を見てる。日本を見下ろしてる。私たち、日本に住んでるのね。泰京はどこかしら?」
「そうですねぇ……」

 旭さんは寝起きのような表情で言葉をつなぐ。

「天使がいて、正義の味方の宇宙人がいて、桃太郎のお供だったかもしれないキジがいて……東京さんも本物の魔法使いだった……私、この家のFが一体何なのか、わかった気がする」

 これがピロートークというやつだろうか。俺は脱力させるのを意識させながら「操縦室じゃ?」と返した。彼女は小さく首を横に振る。

「ううん……“FANTASTIC”のFだったのよ。私の中の現実をオギが破壊した。オギがFをつれてきてくれたのよ。おかげで触発されて……どんどん新たな魔術が生まれてくるような気がしてならない」
「“FANTASY”のFじゃなくって?」
「うん。これが今の私の現実だから。幻想じゃなくて幻想的なのよ。空トンビの幻想的」
「なんか日本語としてどうなんでしょうね?」
「幻想的……ほにゃらら」
「どゆこと?」
「なんでもいいのよ。続きがあるってこと。想像が膨らむじゃない。ムンムンと」
「ムンムンですか?」
「そうだムン」
「酔ってます?」
「かもしれない」

 なるほど、この不自然なまでにエロチックな空気は、Fの部屋の二次的な作用なのかもしれない。この操縦室にいれば、何でもかんでも操縦できてしまい、彼女のあられもない無防備さも、この俺が望んだからによる結果なのかもしれない。幻想的エロチシズムである。

「単なる長い夢だったらどうするんですか?」
「泣く。それはつまりあなたが存在しないということだから。いたとしてもそれは夢物語が構築されるためのモデルにすぎなくて、私とは何の縁もゆかりもない。そんなものを見た自分を呪い殺す」
「すいません、変なこと言って」

 穏やかに言うもんだから、かえって有言実行しそうである。

「俺ってばいつもそうなんですよね。実はこの世界は空想で作り上げたもので、小さい頃の記憶は第三者から与えられたもので、何度も同じ出来事が途中っていうスタートラインから繰り返されているだけであって、実は俺の思考は誰かさんに読まれてて、だからごまかすために脳内ナレーションを……って、シュミなんですよ! ベツに神経症じゃなくて、ちょっとネットで調べた結果が幻想妄想すれすれだっただけで、えっとつまり、幻想妄想っていうのは――」

 自己暗示で仙人を生み出しておきながらすれすれとは笑ってしまうが。とにかく俺の人格の方向性などお構いなしに、少しでも不安にさせたかもしれない申し訳のなさに早口で弁解しようとしてしまった。

「変じゃない」

 その一言で、更なる言葉を失わせる。しくじったと思った。

「変じゃない。Fなんだから。楽しいことも、怖いことも。すべて」

 旭さんは寝返りを打った。彼女の上目づかいのにらみが文字通り目前にあった。俺はその飴色の眼光と薄らと開けられた唇にすくんだ。デートの時はほんのりピンクだったが、今日はリップクリームを塗っただけのようだ。しかし、本来の赤みが強調されて……。

「チンユーシュツ、ゴウユーシュツ。キユーキューイン」

 彼女は口実を低く唱え、俺にキスをした。それから勢いよく反対側に寝返りを打った。白いうなじが丸見えにもかかわらず、上の階に天使がいることへの背徳感か、俺は吸いつくことはなかった。

「次は呪文がなくてもできるといいですね」

 冷静な声を出すことができた。旭さんはか細く「うん」と返事をして身じろぐ。けして心地よくはなかった、ハンコのように押しつけただけのキスは一生自分だけを愛するよう仕向けられた契約……呪いのように思えた。きっと当分の間、彼女自ら呪文を唱え誘うまで、手を出すことをはばかるに違いない。

「旭さん」
「何?」
「旭さん」
「そう何度も呼ばないで……照れるじゃない」
「好きですよ」
「う」
「好きですよ、本当に」
「わ、わかったから。何度も言わないで」

 旭さんは必死で小さくなろうとしている。やっぱりおもしろい。

「ふふふ」
「笑うのも禁止よ」
「ちゃんと口に出さないと伝わらないと思ったんで。人間の特権じゃないですか。無限にある言葉の中から選ぶことができるんですよ?」
「求愛が自然界より難解になったせいよ。ミルクパズルのようにね」
「俺たちは奇跡のようにぴったりですよね」
「はなれちゃ嫌だから……私も好きよ、本当に。そういうロマンチストなところもね」
「旭さんも結構ロマンチストですよね」
「魔術師はそうでなければいけないの」
「俺も素質ありますか?」
「アシスタントとして雇ってあげる。野垂れ死にはさせないから」

 恥じらいは消え、いつもの余裕が戻ってきたようだ。彼女がいればまた落ちぶれそうになっても引っ張ってくれて、どこまでもやっていけそうな気がした。これは幻想的ロマンスだろうか……。



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作者より
次の次で最終回です。
ここまでお付き合いしてくださった方、本当にありがとうございます。
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