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2話

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彼女との出会いは偶然だったのかもしれない。

数日間の留学プロジェクトで海外を訪れていた15人ほどのメンバーの中に僕はいた。

最年少で参加した僕は空港での手続きでトラブルがあり、税関に呼ばれた。
何がトラブルなのか、その時の自分にはわからなかった。

初めての海外で、かなり緊張していたが、税関で呼び止められ、緊張はマックスになった。
空港の外ではほかのメンバーを乗せたバスが僕を待っている。
目の前には体の大きい海外の税関職員がいて、空のウォータークーラーボックスがとんでもない数積んであって、その奥にはショットガンも見える。

恐ろしすぎる環境だ。

子供の僕はあまりの恐怖で英語もまともに聞き取れない。

その後どうやって電話をかけたのか、尋問に待ったをかけたのか、今となっては記憶にないが、留学プログラムのスタッフに電話して、ようやく難を脱した。

マイクロバスに乗り込むと2~3歳上の女子が10人ほど、待ちくたびれた顔をして待っていた。

税関で待たされた理由は、「15歳未満の子供が一人で海外に行く際には親の同意書が必要」だそうなのだが、僕はその書類を持っていなくて、そのためだったと後から聞かされた。

出国した空港の職員のミスだそうなのだが、個人的にはいい経験になったと思っている、と言いたいが、本当に怖かった。今でも忘れられない。


これまで海外に行ったことがないのに、いきなり一人で海外に行き、そこで3週間を過ごす。
これはとてつもないチャレンジだったが、これに踏み切ったのには理由があった。



この留学へと旅立つ1年前。僕はあるキャンプに行った。
それは世界中の人が集まり、2~3週間ともにキャンプをするというものだった。

察しのいい人はこれが何という団体の何というキャンプかわかるかもしれない。

このキャンプを通して、僕は海外の人と初めて話し、交流し、一日中はしゃいで回った。
家を離れて親もおらず勉強をする必要もない。自分を解き放つにはもってこいの人生で一番自由な期間は人生で最大級の思い出補正を掛けられて、今もなお僕の記憶に色濃く残っている。

この活動の中での世界中の人との交流があって、僕は留学に行くこととなる。

ただ、もっともこの時僕がドはまりしたのは海外の人との交流というものではなかった。
実際には英語で話すことと、いつもではない環境に身を置くことにハマったのだった。

英語で話すというのは本当に不思議な体験で、違う自分になれたような気がした。
自分ではない自分。
単に西洋かぶれしているだけに思えるかもしれない。実際には根本そういう理屈だと理解している。
ただ、かぶれだからこそ、英語を話すことでいつもの自分を忘れ、より大胆になることができた。
思っていることをそのまま話すことができたのだ。
僕はそこに快感を感じていた。

また、新しい環境、社会においては何もかもが冒険であった。
これもいつもとは違う刺激を僕に与えてくれるものだった。

僕は他の人よりもわりかし英語ができて、発音は行く先々でほめてもらえて、だからこそ余計自信満々だったのかもしれない。

キャンプから帰ってきて、僕はそんなことまでは考えずただ漠然と「海外に行きたい」と親に事あるごとに伝えるようになった。

親は経験や感性を磨くことに重きを置いてくれていた。
やりたいといったことは8割くらいは承諾してくれていた。
その代わり帰省以外の旅行やレジャーはほとんど記憶にないが、時間とお金のほとんどをわがままに割いてくれていたのだ。

キャンプを終えて2か月ほどが経ち、親は留学を支援するプロジェクトを見つけてきてくれた。
それは国が留学を支援してくれるというものだった。
税金ではなく融資の企業から支援を募り、それを財源に有望な学生を海外に派遣するというものである。

このつたない文章を見てわかるように、僕はあまり頭のいい生徒ではなかった。
高校の偏差値は真ん中くらいで、僕はそこで真ん中くらい。何なら真ん中よりも低いくらいだった。
国がやっている留学プロジェクトの合格平均偏差値は平均60ほど。正直ダメもとだった。

受かった。

倍率が低く、書類と面接の2つしかなかったが、一応受かった。
僕は東南アジアへ、3週間ボランティアとして留学に行くことになった。
準備には相当の時間をかけた。
英語はいくらか勉強したと思うが、それに関してはあまり覚えていない。
髪型は坊主、野球部でもない僕のお気に入りの髪型だ。
長期間の滞在でも髪を切る必要がないから、今回ばかりは親に苦言を呈されることもなかった。

合格から2か月が経ち、7月下旬のある日の夜に日本を発った。
空港では親とは早々に分かれたと記憶している。
あそこで書類をもらえれば、変に緊張してバスに乗ることもなかっただろうと思う。

飛行機の中では水中の酸素の含有量を増やすことで車エビの養殖に成功した兵庫のおじさんと隣になった。
離陸して15分ほどでビールを飲み始め、「一度Hすれば仲良くなれる」というトンデモ論を15歳に繰り出され、面食らっている間に空港に到着した。

そしておじさんとのLINE交換が未成年のためのセキュリティ条項にブロックされたじろいでいる間に税関に着き、生ショットガンを拝む羽目になった。

長々と話してきたが、こうして僕の3週間のボランティア留学が始まった。
バスに乗って始まる、ガキ使のようなスタートだった。
見知らぬ高校生男女12人。僕はその中でも一番年下の15歳の坊主のガキだ。

宿舎についた。ロビーが万年猫の糞のにおいがするこのペンションで3週間を過ごすことになった。
全員の自己紹介が始まる。

イケイケの女子高生や、世界を変えそうなノリノリのバイタリティにあふれてる人、15歳の坊主のガキ、優等生みたいな女子高生・・・
「女子高生はここまで大人なのか」特に首都圏出身の女子高生の服装を見て驚くなどしていた。
1~2コ上の人が多く、ただ、自分の身長が低かったことや女性経験がないこともあり、とても驚いていた。

男子が2人、女子10人。ハーレムというかもしれないが、一人は声の甲高い坊主のガキで、もう一人は女子ウケしなさそうな、今の僕みたいな人だった。
だから、僕らは僕らだけで会話してあくまでも閉じこもっている、オブザーバーみたいな存在だった。
二人とも「JK」には慣れていない感じだった。
これは留学が終わる、その最後まで変わらない。僕は祈っている。1コ上の彼もまだDTであることを祈っている。

そんなことはさておき、派手な女子ばかりに気を取られたがために、自己紹介で僕にはあまり印象に残らない人もいた。

大半の女子は男子や一部の女子が止まるペンションではなく、もう一つの宿というか、留学プログラムの主催団体が所有している物件に寝泊まりするようだった。
ほとんどはもう一つの寄宿舎に移っていった。

あんまり名前が憶えられていない、というか区別のつかなかった。初対面だから仕方がない。
一番背が大きくなくて、おっとりした人がいた。彼女の名前もわからなかった。
ただ、彼女は大きなカメラを持っていた。よさげなカメラ。キャノンだった。

「よさげなカメラの人」

その人が僕の初恋の相手になった。
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