ロッコ

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10.数えられないもの

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 ロッコはすぐにその考えが間違っていると思いました。

 ロッコには自由に動ける体があり、朝が来れば目覚め、体内時計は騒々しくて食事を忘れたことはありません。

 療養所の患者たちは、手足が腐って動けなくなった者、ずっと眠っている者、食べてもすぐに吐き出してしまう者、様々な苦痛と戦っています。


 ロッコは誰かと比べて実感する幸福に意味はないと考え直しました。

 哀れな患者たちを目の当たりにした時、幸せでも不幸でもなかったはずなのです。

 しかし現実は違います。

 ロッコが幸せになったから頭上の数字が減ってしまいました。


 ロッコは悪意の塊が自分の心の中にも潜んでいるのだと、恥じました。

 そんなものは意地の悪い人間にしか存在しない、とたかをくくっていたのでした。


 ロッコはすぐにこの国を出ようとしました。

 どこか知らない国へ行き、新しいことに触れれば、今日の出来事など忘れてしまうでしょう。



「どこへ行くの? あなたは何を怖がっているの?」

 出入口に最も近いベッドから聞こえました。

 ロッコは背筋がぞわっとして、振り返りました。


 ベッドにはロッコと同い年くらいの少女が寝ていました。

 少女の頭上には見慣れた数字が浮かんでいます。

 ロッコは74048と自分の数字を比べました。


 自分より多くの幸福が残っていて、近づいても目すら開けてくれない少女に少し腹が立ちました。

「恐れているとも。君とは違うことだから、きっと分からないだろうね」

 少女は目をつぶったまま言いました。

「ごめんなさいね。私は目が見えないの」


 ロッコは本当に目が見えないか確かめました。

「僕の頭上の数字は?」

 幸福の国の住人ならその小ささに驚くはずです。

 少女は顔色一つ変えません。

「分からないわ。自分の数字だって分からないんだもの」

 少女は目を開けましたが、焦点は合っておらず本当に何も見えていないことが分かりました。



「君の数字は74048だよ」

 ロッコは少女を元気付けるために教えましたが、少女は笑ってくれません。

「あなたの数字は?」

「……1」

 ロッコはついさっき1つ減らしてしまったことを、改めて後悔しました。


 少女は微笑みました。

「まあ、良かったわね」

「良くなんてない――」

 ロッコは怒って部屋を出ようとしましたが、少女に

「あなたはどうしてここにいるの?」

 と聞かれ、自分に与えられた仕事を思い出しました。


「ここにいる人たちの話し相手になるため」

「じゃあ、私とおしゃべりするってことね!」

 少女が愛らしく笑うので、ロッコの心が弾んで何も言えません。

 少女はそんなロッコが見えているみたいに

「きっと私はとっても可愛いのね!」

 とクスクス笑っています。


 ロッコは少女といると、自分が自分でないようなフワフワした気分になるのでした。

 それからは手伝いのほとんどの時間を、少女とのおしゃべりに費やしました。

 少女は他の患者のように、体が痛いと泣いたり大声で歌ったりしません。

 ロッコが旅での出来事を話すと

「あなたは本当に色んな国を知ってるのね」

 と話の続きを聞きたがるのでした。


 この日は珍しくロッコが少女の話を聞く側でした。

「あなたは幸福の国から来たのでしょう? 私は、不幸の国から来たの」

 この世界で頭上に数字を浮かばせているのは、幸福の国の住人と、もう一つ、不幸の国の住人だけです。


「私は生まれた時からたくさんの不幸を抱えていたんですって」

 ロッコはあの日から1つも減っていない少女の数字を見ました。

「あなたの数字がとても小さかったから褒めたのだけど……」

 不幸の国では、幸福の国とは正反対に、頭上の数字が0になるまで不幸が続きます。

 少女は数字が大きいため不幸ばかり続き、ロッコは数字が小さいから幸福を避ける人生を強いられていたのでした。


「ねえ、私の数字は今、どうなってるの?」

 ロッコは少女を悲しませないように

「74046だよ」

 と少なく答えました。


 ロッコの優しい嘘は声色をほんの少し変えてしまったので、少女に伝わりました。

「それは良かったわ!」

 少女の声色はいつもと違いましたが、いつもと同じように笑ったので、ロッコは気付けませんでした。


「そうだよ! ここで休んでいれば、病気だって治るよ! そしたら僕が旅に連れて行ってあげてもいい」

 ロッコは幸せでも不幸でもない場所は、少女にとっても良い場所だと思いました。

 一方で少女は浮かない表情でした。

「私の病気はもう治らないの。こんなにたくさんの不幸が残っているんだもの。私はもう――」

 ロッコは耳を塞いで部屋を飛び出してしまいました。



 ロッコがゆりかごの部屋へ行かなくなってから、1週間が経ちました。

 施設長は患者のおしゃべり相手になるように促しますが、ロッコは明日行くとそっけなく返事するばかりです。

 
 それからさらに1週間後、ロッコは少女が気になって気になって仕方がありません。

 いつか少女が言っていたことが頭をグルグルと駆け巡ります。

「私たちはほんのちょっぴり上手くいかないだけで、大きな不幸を抱えた気分になっているんだわ」

 ロッコの幸せと少女の幸せ、ロッコの不幸と少女の不幸は果たして同じものでしょうか?


 ロッコは少女に気付かれないように、そーっと部屋に入りました。


 少女はぐったりとしていました。

 桃色に染まっていた頬は真っ青で、痩せこけています。

 ロッコは思わず

「大丈夫か?」

 と声をかけました。


 焦点の合わない目はうるみ、口をパクパクするだけで声が聞こえません。

 ロッコが顔を近づけると、ようやく少女が何を言っているか分かりました。


「……私は……あなたの……話が……大好き……よ。これから……も……聞か……せて……くれ……る……?」

 少女はとても苦しそうです。

「もちろんだよ! 僕は君が大好きなんだ!!」

 ロッコは少女にハグをしました。

 幸せとはこういうものだと思って、不幸ばかりの少女に与えたかったからです。


 すぐさま体を戻したロッコの顔は、燃える夕日のように真っ赤でした。

 それは少女の目に映ることはありませんし、いつものように茶化してももらえませんでした。


「目が……見え……ない、こと……は……不幸……じゃ……ない……わ……。だっ……て……あなた……が……こう……やっ……て……おはなし……して、くれ……る……」

 少女は両親を失ったり、病気にかかったり、これまでたくさんの不幸を経験してきました。

 それでも頭上の数字はびくともしなかったのです。


「私……、あなた……を……愛、して……る……わ……」

 少女は眠るように息を引き取りました。

 そしてロッコと少女の数字それぞれが、1減りました。


 ロッコの頭上に浮かぶ数字はついに、0になったのです。

 けれどそれを悲しむロッコはいません。

 本当の幸せと不幸、彼が本当に求めていたもの――。

 それに気付くのがあともう少し早かったら、彼には何かできたでしょうか?



 突然、患者の一人が歌い出しました。

 それはロッコの知っている歌によく似ていました。


 ロッコは少女の額に口付けすると、施設長に深々と頭を下げて療養所を出ました。

 施設長は、頭上に0を浮かばせたロッコの背中がどんどん小さくなっていくのを、見送ることしかできませんでした。
 

                                 (おわり)
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