制御不能な最適愛

カニカマ

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プロローグ

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 この都市には、揺るぎない秩序がある。
 交通機関は狂わない。列車は秒単位で運行される。天気も大気も予測どおりに維持される。人の生活、人間関係、食事、すべてAIの設定された最適化指標に従って管理されている。それを知っていても、誰も疑問を抱かない。
 むしろ、従った方が楽だ。便利で、何も考えず、迷わなくて済む。人々は喜んでこの支配を受け入れている。実際、犯罪率と自殺率はAIが導入される以前よりも顕著に低下。対して就職率、結婚率、幸福指数までもが安定して上昇している。だから誰もこのAI管理の日常に疑問など口には出さない。

 私、五十嵐千景は、この都市の中枢に位置する指令局に勤めている。
 この都市が日々保っている秩序は、指令局に属する人間によって調整されている。だがそれはあくまでAIの補助でしかない。実際に判断しているのはAIであり、指令局の存在は通訳にすぎない。

 指令局のオペレーションフロアには、透明な端末群と、薄い光を放つモニターが整然と並ぶ。聞こえるのは、AIのアナウンス音声と、指示を復唱する管理官たちの声だけだ。
 部屋中に広がる監視網のデータは、絶え間なく私の視界に流れ込んでくる。犯罪予兆、ストレス値の上昇、感情逸脱の傾向、再教育の発動率の推移。
 再教育とは逸脱傾向が検出された市民に課される短期の調整だ。AIが作成した行動計画に沿って面接、認知訓練、服薬、必要に応じて行動制御デバイスの装着が行われる。犯罪防止に適したシステム、とされている。
 
「五十嵐管理官、エリアB、防犯設備に数値の誤差があります。向かわせましょうか」

「いえ、まだ。警告で足ります」

「了解しました」

 私はブロック内のスピーカーへ軽く指を走らせ、AIが提示した文章を確認し、承認印を押す。淡々とした文面の最後には、「安全のための警告です」と記載されていた。AIは言葉遣いにも慎重だ。人間が反感しないよう、表現には細心の注意が払われている。

 隣席の同僚がこちらを見た。彼のデスクの前には、カップに入った赤い飲み物。確か果物と野菜をAIの推奨比率で配合したものだと聞いた。自動販売機で買える。私は飲んだことがない。彼に感想を聞いてみたが健康だから、と苦い顔で飲んでいる。

「相変わらず冷静ですね、五十嵐さん。実はAIなんじゃないかって噂されてますよ」

「私よりAIのほうが、柔軟でしょうね」

 そんな真顔で言われても、と苦笑される。周囲からも、小さな笑い声が漏れた。正直な感想を口にしただけなのだが、冗談に受け取られたらしい。相手にどう受け取られるかは、予想がつかないものだ。

 ここに就いたのは八年前、二十歳のときだった。自分で選んだわけではない。人は二十歳になるとAIによって就職先を割り当てられる。
 身体能力、遺伝子傾向、生活行動パターン、言語処理能力、倫理判断の偏差。そういったあらゆる要素が統計として常に収集され、AIが総合的に演算する。それに従えば生活は安定し、職場もストレスなく勤めることができる。
 従わない自由も存在するが、それは「逸脱」として生涯記録に残り白い目で見られることは確かだ。

 私に割り当てられたのは、指令局の管理官。都市の安全と秩序を維持する職の中でも、上層の階級にあたる。
 AIの判断は的確だった。ここでの仕事は、私にとって居心地が良い。ノイズの少ない空間、明確なルール、曖昧さのない業務。AI判断による就職に離職率が低いのもうなずける。
 
 それでも、今日のように居心地の悪さを感じる場面は多い。きっと私は、この社会の枠にはまりきっているわけではないのだと思う。

 今日は早くに帰宅した。家の外壁は滑らかな金属パネルで覆われ、角には半透明の防犯カメラがある。隣家との距離は一定に保たれ、音も光も漏れない設計。私の動きを感知して、玄関扉の上にある青いライトが静かに点滅した。

 部屋はいつも通り整っていた。掃除は自動クリーナーが行い、温度はAI制御の空調が心地よい温度に保っている。冷気が静かに室内にたまり、照明は私の動きに反応してゆっくりと灯る。

 居住空間はプライバシー保護域に指定され、室内映像は収集されない。脈拍や騒音などの生体や環境数値は匿名化され、基準値判定だけが上層に上がる。だから、この部屋の細部を知るのは住人だけだ。

 私はネクタイを緩め、ソファに腰を下ろす。背中の力を抜くと、途端に全身が重く感じられた。スーツから着替えようかと思ったが、どこか気が抜けて、そのまま目を瞑る。
 やることがある。食事の用意、入浴室の掃除、手動でやらなければ動かないものもいくつかあるんだ。眠気が襲う前に着替えなければ。ネクタイに指をかけたところで、玄関のロックが解除される音が響いた。

 少しだけ、肩が跳ねる。

 この都市に合鍵はない。同居者権限として登録した生体認証の一致で、扉は自動的に開く。
 無言のまま入ってきたその姿は制服のまま。うっすらと血のような汚れが見える。何をしてきたのかは、聞かなくてもだいたい察しがつく。規定では制服は着替えて帰るべきだと書いてあったが、守る気はない様子。
 
 同居人。
 天城烈人。私の義弟で、唯一の家族。この世界の統制と秩序とは、正反対の性質を持つ人間。

 視線だけで私を捉えると、烈人は一言も発さず、まっすぐこちらへ歩いてきた。
 銀色に染めた髪が、今日もまた光をはじいている。その色にしたのはいつだろうか。先月は違ったはずだ。耳や舌、見えないところまで、彼は金属を好んで身につけている。派手な出立ち。初めてそれを知ったときの驚きは、もうとっくに風化していた。

 「おかえり」と声をかけた瞬間、頬に衝撃が走った。

 乾いた音が室内に響く。反射的に手を伸ばすが、眼鏡はどこかへ転がっていった。レンズは割れていないだろうか。

 烈人は私を一瞥し、開いた手をひらひらと振った。

「仕事で、ムカつくやつがいてさ。今日一日ずっと、邪魔ばっかしてきやがるの」

 その声音に怒りや苦しみの色はなかった。
 まるで道端の石につまずいたような、あるいは飲み物が出ない自販機を叩くような口ぶりで。殴ってきた理由は私ではないらしい。少しだけ緊張が解けた。

 メガネをしていないと何も見えない。探したいが動いていいだろうか。下の方へ飛んでいったであろう方向を目で追う。
 
「おい、そんな顔すんなよ。気分が悪い」

 今度は腹を蹴られた。息が詰まり、膝が崩れる。
 烈人は、私が苦しんでいることを確認しない。ただ、上にまたがり、手早く私のシャツのボタンを外しはじめる。
 優しさも、確認もない。そこに、罪悪感もない。悪いことをしているという意識が、彼にはないのだ。
 私は抵抗しない。
 服が滑り落ち、露になった肌が冷気に触れると、ひやりとした感覚が背を走る。
 
 眼前で銀髪の烈人が、私を押し倒しながら服を脱いでいる。無遠慮な手つきはいつもと同じだが、今夜は少しだけ荒い。目の奥に何かが渦巻いている。彼の身体は引き締まり、傷と筋肉と装飾が混じり合い、どこか猛獣めいていた。
 肩のあたりに古傷がある。いくつかの小さな切り傷も見える。それはAIが推薦する動作ルートを無視した逸脱の代償かもしれない。
 そのすべてが、烈人らしさでもある。

 一方の私は、何の特徴もない。髪を染めているわけでもないし、鍛えてもいないから筋肉だってほとんどついていない。ただそこにあるだけの、壊れやすいもののようだった。少し痩せているかもしれない。最近、食事も決まった分量しか摂っていなかった。空腹ではないのに、体は冷えていく。

 私は彼の髪を見つめながら、ふと考える。その銀色は、彼自身で決めた色なのだろうか。街中でこんな色をしている人間なんて見たことがない。

「烈人。髪色、また変えたのか」

「ん? ああ。前の色飽きたから。似合ってるだろ?」

 自慢げな顔で笑う烈人の笑みは、昔よりずっと色っぽく、そして危険な香りがした。先程までの機嫌の悪さは治ったように見える。これ以上暴力は今日はなさそうだ。と安心した途端に殴られた左頬がヒリヒリと痛む。
 顔を殴られるのは困る。隠すつもりだが、もしも見られてしまったら職場で言い訳が面倒だ。肌の色をAIに調整してもらう必要があるし、口の中に傷があると喋るたびに痛みが走る。
 それでも、烈人は容赦なく手を伸ばす。

 
 今日もAIによるアナウンスが流れている。

「今日もご協力ありがとうございます。最適な幸福指数を維持するため、今夜もよくお休みください──」

 私はソファに背を押しつけながら、その声を聞き流す。
 白い天井。烈人の体温。震える腹部の痕。赤く染まった唇の端。

 私たちは、似ていない。

 名前も、顔も、性格も、生き方も。何一つ似ていない。殴られるたび、抱かれるたび、烈人と自分がここにいると実感する。誰にも許されないこの関係が、唯一生きていると感じられる瞬間だった。
 AIがこの関係を審査すれば、即座に「不適合」と判定するだろう。
 
 それでも、彼が私を必要とする限り、私は拒まない。
 拒めない。拒むことで、彼の視線が私から逸れてしまうのが怖い。
 そんなことになったら。私の存在理由なんてなくなるから。
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