麦わら帽子の約束

カニカマ

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修学旅行

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 九月が過ぎ、十月が近づく。空はどんどん高く、朝のランニングは空気の密度が薄くなるぶん、呼吸がしやすい。川沿いの欄干に肘を乗せ、太腿の裏を伸ばす。土手の草は刈られて、青い匂いが靴底にまとわりついた。
 学校は、受験モードの張りつめと、秋祭りの余白みたいな緩さが同居している。
 廊下の掲示板に「修学旅行 実施要項」
 この四字を見ると、さすがにクラス全体の空気が一段明るくなった。
 
「ついに来た⋯⋯!」
「受験は一旦忘れよう!」
「忘れすぎるなよ!」
 
 担任の牽制も、今日は誰も本気で聞いちゃいない。

 行き先は関西。京都・奈良、それから一日は大阪で班行動。二泊三日、旅館とホテルが一泊ずつ。旅程表を配りながら担任が言う。
 
「体調に不安があるやつ、薬の申告は必ず保健室へ。班は五人、自由に組め。夜更かし禁止、消灯厳守。——以上!」
 
 保健室。薬。俺の視線は自然に湊のほうへ滑った。湊は「うん」と小さく頷いて、すでに保健の先生と話をつけてある、とさっき言っていた。
 班は、俺と湊、友人三人。友人がパンフレットをテーブルに広げて、目を輝かせる。
 
「蕎麦!湯葉!饅頭!鹿!」
「鹿食うのか?」
「鹿は鹿せんべいで服従させる。で撫でる」
「屈服してるのはお前だろ」
 
 湊は、笑いながら地図の端を押さえた。
 
「僕、行きたいのはこの展示会かな」
「え、タイミング合う?」
「ちょうど会期中みたい」
 
 そういう情報に速いのも、湊の良さだ。友人が「わかった、午前はそっち、午後は食い倒れ」と即座に割り振る。俺はうんうん頷きながら、湊の顔色も同時に読む。
 
「歩きすぎたら、すぐ言えよ。こまめに座って糖分入れろ。薬も絶対忘れるなよ、俺が朝チェックするから。携帯の電池も絶やすな、それから」
「東堂いつから王子のママになったんだよ」

 準備は、案外やることが多い。校外学習のしおりを読み込み、持ち物のリストを作る。旅館の部屋割りは男子五人部屋。ちょうどグループで組める。
 放課後、湊とバスの座席表を覗く。出発日のバスは前から二列目。俺は通路側、湊は窓側。
 
「酔い止めは?」
「大丈夫。昔よりは平気」
 
 書き込みを終え、しおりを閉じる。表紙の校章が、光でうっすら浮いた。

 面接の準備も、旅行の準備と並行で続ける。放課後の図書室で、俺は面接ノートの見直し。湊は問題集を進めつつ、俺の答えの語尾を鉛筆でなぞる。

 保健室にも寄った。湊が事前申告の紙を提出する。医師の指示のコピー、薬の種類、発作時の対応。保健の先生は慣れた手つきでファイルに綴じ、俺にも顔を向ける。
 
「東堂くん、念のため知っておいてね。久遠くん、歩きすぎると体温調整が追いつかないときがあるから、こまめに休憩を。冷えも禁物。甘いもの、塩分、こまめに。」
「はい」
「それから、無理して“みんなに合わせる”をしない勇気。これは久遠くんね」
「⋯⋯はい」
 
 返事の音は小さかったけれど、芯があった。それから、俺だけちょっと残ってと言われて先に湊が出る。

「久遠くんには言わない方がいいかな。実はね、久遠くんのお母さんが今回の修学旅行の許可出した理由、東堂くんがいるからって理由なの」
「え!?せ、責任重大?大事な息子を俺に任せるってこと?」
「そんなに気負わずに、でも気にかけてあげてね⋯⋯普段から気にかけてるから大丈夫とは思うけどね」

 そんなに信用されていたのか。照れるな。保健室から出ると湊が待っていた。一緒に歩く。
 
「高校の保健室って、安心する匂いする」
「たとえば?」
「ワセリンとアルコールの匂い、カーテンの洗剤」
「よく嗅いでるな」
「昔の習性、かな?なんてね」
 
 その“昔”を、今は少し冗談にできる。修学旅行で湊も浮き足立っている様子だ。歩幅が半歩分、軽くなる。

 家でも、修学旅行の話題は弾んだ。夕飯のカレーを食べながら、母さんが「八つ橋買ってきて、親戚の分もね」と言い、父さんは「鹿のツノには気をつけろ。でも足も強いから安易に背後に回るの良くない」と真顔で忠告してくる。なぜ鹿と戦う前提なんだ。とりあえず軍資金だけもぎ取った。
 
 部屋に戻って、キャリーに詰めるものを床に並べる。Tシャツ、替えの靴下、充電器、モバイルバッテリー、面接ノートは⋯⋯さすがに持って行かない。旅行の日くらい、頭を切り替える。

 十月のカレンダーに赤丸が増える。出発二週間前、志望理由書の清書を提出し、担任から「この調子」と短いコメント。ふとした瞬間、胸の奥で不安が顔を出す。
 
 ——もしも、面接本番で言葉が出てこなかったら。
 ——もしも、湊が本当に海外に行くことになったら。
 
 湊と並んで下校する道で、ぼんやり考えて頭を振る。
 
「京都、雨だったらどうする?」
「雨の日の寺って、綺麗だよ」
「お、経験者」
「昔、病院の療養で京都にいた時期が少しだけあって。窓から見える瓦屋根、雨の日は色が深かった」
「へぇ。湊はいろんな景色を知ってんだな。俺はずっとここにいるからなぁ」
 
 ほとんど合図みたいな会話。足音が二つ、同じリズムになる。

 出発前日。学年集会で諸注意の最終確認。遅刻厳禁、班長は名簿と緊急連絡先を携帯、貴重品はファスナーのある内ポケット。
 
「あと、夜は——」
「——男女交際禁止!」
 
 誰かが先に言って、体育館が笑いに包まれる。学年主任が静かに、といいつつそこまで諌める様子はなかった。
 帰り際、湊が肩で笑う。
 
「皆、恋愛話が好きだよね」
「なんだよ、達観しやがって」
「蓮司くんも全然恋愛話しないでしょ」
「話題がまずないからな、って言わせるなよ虚しくなる」
 
 バカみたいな会話で緊張をほぐしながら、昇降口へ。靴箱の金属のきしみまで、今日は機嫌がいい音に聞こえた。
 夜。布団に入る直前、スマホが光った。
 
『明日、楽しもうね』
『おう。薬は用意したか?なんなら通話で確認するか?』
『大丈夫、兄様と確認したから、ありがとう。おやすみなさい』
『おやすみ』
 
 画面を伏せると、心拍がすっと落ち着いた。受験も、面接も、海外の話も、ここではいったん脇に置こう。明日は、修学旅行だ。
 にしても恋愛話か。俺が恋愛話をしたら、多分、湊は拗ねるというか、また泣き出すんじゃないか。あいつは俺のこと大好きだよな⋯⋯変な意味じゃなくてな。
 俺は湊のこと大事だし好きだ。けれどどういう意味で好きかは、深くは気にしない。別に一緒にいて楽しければいいだろう。なんて考えているうちに、眠気が襲い夜が過ぎていく。

 修学旅行の当日。俺は鏡の前で染め直したばかりの髪を撫でた。
 茶に遊んでいた色はすっかり消え、真っ黒が額の上でおさまっている。いつもは前髪を上げているが今日からは下ろす。ピアスは前々から外している。受験が近い。形から入って気合を入れる。ドライヤーの温風が止むと、部屋の空気が急に冷えて、胸の奥もきゅっと締まった。
 
「——よし」
 
 声に出して、集合時間をもう一度確認する。早起きは得意だ。走る朝に比べれば、修学旅行の朝も怖くなかった。

 昇降口に入ると、友人のひとりが二度見して目をひん剥いた。
 
「誰!? ⋯⋯え、東堂!?」
「お前、髪! 違和感すごいな!」
「おら褒めろ」
「いや、なんか⋯⋯お前本当顔整ってるんだな」
「今更か? 褒められても菓子しか出ないぞ」
 
 笑いが弾ける。あちこちから「マジで黒だ」「誰かと思った」「前髪下ろした方が似合うじゃん」と囁きが飛ぶ。俺は肩をすくめて受け流した。
 湊が人の合間から近づいてきた。冬の朝の光で色がやわらいで見える。
 
「おはよう、蓮司くん、黒髪も似合ってるね」
「おう!そろそろ受験だしな」
 
 口にした瞬間、周囲の空気がすこしだけどんより沈んだ。
 
「——今日は受験の話なしな!」
 
 慌てて付け足すと、友人に後頭部を軽く小突かれた。
 
「言い出したのお前だろ!」
「いてっ。⋯⋯はい、旅行モード」
 
 担任の点呼が始まり、点呼の返事が朝の空に並ぶ。バスに乗り込む頃には、受験の二文字はちゃんと置いてきた。

 京都に近づくにつれて、窓の外の緑が濃くなる。座席表どおり、湊が窓側で、俺は通路側。湊は窓の外に顔を向け、時々、説明書きみたいに短く教えてくれる。
 
「あれ、◯◯川だよ。昔の名前は⋯⋯。向こうは◯◯橋。⋯⋯わぁ、きれい」
「へぇ~」
 
 湊が「きれい」と言うと、景色は一段きれいに見えるから不思議だ。名称はよく聞き取れなかったが、まあ雰囲気で俺は楽しめる。
 初日はルートが決められている。清水寺から。参道の小さな店に、八つ橋の香りと湯気。舞台から眺める街は薄く霞んで、修学旅行生のざわざわが、音の膜みたいにあたりを包んでいた。
 
「あんまり手すり覗くなよ、落ちるぞ」
「落ちたら拾い上げてね」
「余裕」
 
 湊は笑って、手すりの向こうの空を見上げる。班の友人が「たこ焼き行こうぜ!」と腕を引っ張り、俺たちはふたたび人波へ。寺と寺のあいだに食べ物の屋台とお土産が挟まるこの街は、文化と胃袋が共存してる。

 旅館に着く頃には、空がオレンジを越えて濃い藍に沈み始めていた。浴衣とタオルが積まれた部屋。窓を開けると、どこかから線香の匂いが微かに流れてくる。試食の八つ橋を食べ過ぎた俺と友人は布団にダウンしていた。湊は他の友人とまだ長風呂。俺は長風呂が苦手で体を洗ってすぐに出た。
 
「東堂、スクワットすんなよ。畳が悲鳴上げる」
 
 腹ごしらえに動こうと思ったのに友人が先手を打った。俺は正直に手を挙げる。
 
「今日、走ってないからさ。せめてプランクと腕立て伏せだけ——」
「やめろ! 暑苦しい!畳も悲鳴あげるぞ!」
 
 畳と友人に負ける。暇は、どうしても体を疼かせる。寝転んで天井を見ていたが、じっとしていると逆に眠気が遠のいた。
 
「散歩してくる。ついでにまだ風呂に入ってる湊を回収してくる」
「確かに消灯前だからな。よろしく~」
「走るなよ、今後の下級生らが来れなくなるからな」
「はいよ」

 廊下に出ると、風呂上がりの湿った熱がまだ漂っていた。角を曲がったところで、湊とばったり出くわす。
 
「あ」
「お」
 
 湊は浴衣の上に薄いカーディガンを羽織って、頬が少し赤い。髪はまだところどころ濡れていて、ふわっと温度を含んだ湯気が残っている。
 
「今、戻ろうとしてたよ」
「おう」
 
 俺たちは廊下の突き当たり、窓の外が見えるスペースへ。窓の外には黒い庭と、遠くの屋根の稜線。風呂場のほうから湯桶の音が時々響いて、すぐにまた静かになる。
 
「眠いのか?」
「ううん」
 
 湊は目をこすって、ゆっくり首を振る。指先が目尻に触れる仕草は、子どもの頃の名残みたいで、胸の奥がやわらかくなる。
 
「——蓮司くん」
「ん」
 
 名を呼ぶ声が近づいて、次の瞬間、湊の額が俺の肩に、そっと触れた。
 浴衣の襟から漏れる熱と、シャンプーの匂い。肩に置かれた重さは驚くほど軽い。だけど、心臓はすぐに重く跳ねた。
 
「⋯⋯離れたくない」
 
 小さい声。窓ガラスの白い反射に、二人分の影が寄り添って映る。
 
「離れねぇよ」
 
 反射的に出た声のあと、俺は慌てて続けた。
 
「今は連絡手段、いくらでもあるだろ。最悪、海外に行ったとしても顔見て話せる。ビデオ通話。時差計算は⋯⋯俺に任せろ」
 
 冗談に逃がしたつもりが、声は少しだけ震えた。
 湊が顔を上げた。想像よりずっと近くにいて、思わず息を呑む。湯気がまだ残るような肌には赤みが差していて、髪の先がこめかみに貼りついている。目元の整った輪郭、睫毛の影。そして、ぽつんと浮かぶような淡い色の唇に、視線が吸い寄せられた。
 
「——蓮司くんは、僕が遠くに行ってもいいの?」
 
 問いの形をした刃先が、やわらかいのに、鋭い。
 大丈夫、と言ってやった方が湊の将来を縛らずに済む。でも言ったら崩れそうな何かが同時に喉につかえた。
 
「⋯⋯俺は、お前が決めたこと、応援する」
 
 やっと出した答えは、誰にだって言える正しさだった。湊のまつ毛が一度だけ震え、瞳が俺の奥を探すみたいに揺れる。
 ぎゅっと、腕を抱きしめられる。顔を擦り寄せれるぐりぐりと額を当ててくる。風呂上がりのいい香りがくすぐる。
 くそ、こいつ浴衣の着方が下手だ。胸元が少し開いていて、白い肌がちらりと覗く。わざとじゃないのはわかってる。けど、目が勝手にそこへ吸い寄せられて、やたらと意識してしまう。
 
「湊、こっち向け」
 
 これじゃ歩いている途中で脱げる可能性もある。俺だって浴衣なんてよくわからないが、とりあえず強めに腰の紐を締めておく。うわ、細いな。
 
「ありがとう」

 湊の頬はまだ赤く染まっている。長風呂しすぎだ。色っぽい雰囲気はそのせいに違いない。浴衣を治してやった後もまた肩に頭を置いてくる。どうすればいいんだ、と窓の景色を眺めていると。
 遠くで先生の見回りの足音がして、湊が肩を離す。体温が、肩からすっと抜ける。
 どちらともなく、並んで歩き出す。襟元から風が入り、冷たさが火照りを素早く整えていく。部屋に入ると友人らはもう寝ていた。朝まで起きているとか言ってたくせに、体力のない奴らだ。湊の足音が半拍遅れで続いて、布団に入る瞬間に目が合った。
 
「おやすみ」
「ん、おやすみ」
 
 手を伸ばせば、指先が触れそうな距離だった。俺は伸ばさなかった。

 修学旅行が終わって、日常が帰ってくる。京都、奈良の写真がアルバムアプリに並び、クラスメイトがSNSで「楽しかった」を量産して、廊下の笑い声は旅行中のまま少しだけ明るい。
 ——なのに、俺は勝手に距離を置いた。
 湊が「帰り、一緒に」と言えば「今日、補習あるわ」と嘘をつく。露骨に避けることはしないが、前みたいにずっと一緒にいる、みたいなことをしなくする。
 廊下の窓に自分の顔が映る。前髪を下ろした黒髪。ピアスのない耳たぶ。受験生の外側に、受験生の中身を無理やり詰め込もうとしてる顔。
 湊に、友人以上の感情を抱いてしまう——前から思ってはいたが、もう域をはみ出し始めていた。
 教室で笑っていても、心臓は不定期に加速する。授業中にノートを開いても、隣が気になって仕方がない。
 ——切り替えろ。面接は十一月。
 俺は自分に命じるように、靴ひもを固く結び、土手に出た。
 夕方の川沿いは風が冷たく、空は早すぎるグラデーションで青から黒に落ちていく。いつものウォームアップを短くして、いきなり心拍を上げた。呼吸を強制的に荒くし、肺に冷たい空気を流し込む。
 走れ。
 足音がリズムを作る。腕を振るたび、肩に残った温度が振り落とされていく。
 “離れたくない”が、耳の奥で反響した。
 “俺は、お前が決めたこと、応援する”。
 正しい。正しいけど、そこに俺はいない。
 走れ。
 土手のカーブをひとつ、ふたつ。呼吸が喉で焼ける。太腿が熱を持つ。心拍の数字はいつものラップよりも高い。
 面接ノートのページが浮かぶ。志望理由の一行目。“教える側”の言葉を、俺は書いた。なら、逃げるな。
 走って、汗をかいて、息を切らして、立ち止まる。
 冬が来る前の風が、頬に冷たかった。
 胸の中心に、きちんと痛みがある。
 これは、隠すためじゃなく、抱えて走るための痛みだ。
 俺は息を整え、薄暗い土手道を引き返した。黒髪が風を切り、耳たぶに残る記憶の重みが、一拍ずつ軽くなっていく。
 十一月は、もうそこだ。
 俺は俺のやることを、ひとつずつやる。
 そして、いつか伝えられる時が本当に来たら——その時は、逃げない。
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