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第三章 倒せ大川スパローズ

第10話 長所は君にもあるはずだ

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 江草めぐみにどういうメールを送ればいいのか? 西詰にとって、これはなかなか頭の痛い問題だった。同世代の女の子を相手にメールするなんて経験、非モテ独り身の彼には殆ど縁のないことなのだ。
 とはいえ、テイターに頼まれた以上、放っておくわけにもいかない。彼は(面倒くさいし投げ出しちまおうかな)とも考えたのだが、しかし、なにせ困っている人間を見捨てられない性分である。

 あぁだこうだと悩んだ末、結局彼はめぐみにメールを送り、大田区内の某所にある学生向けのコワーキング・スペースに彼女を呼び出したのだった。



 西詰がコワーキング・スペースの施設内に入ってみると、めぐみが奥の方の席に座っているのが見えた。黒のスリッポンに緑のクロップド・パンツ、それにグレーのクルーネックのTシャツという服装をしている。いかにも彼女らしい、西詰は思う。
 彼女は本を読んでいる。近づいていき、声をかける。

「こんちは、江草さん」
「こんにちは、西詰さん」

 めぐみは読書をやめて、その本を机の上に置く。西詰は彼女の真正面にある席に座り、会話を始める。

「テイターから聞いたんだけどさ、なんか悩んでるんだって? こないだの試合のことで……」

 めぐみは、どこか寂しそうな顔をしながら返事をする。

「実は、私、ファルコンズ辞めようかと思って……」
「えっ……マジ?」
「うん」

 思わぬ展開に、西詰は強く驚く。

「そりゃなんで?」
「だって、私って才能ないっていうか、いつもみんなの足を引っ張ってばかりで……。こないだもあんなエラーしちゃって」
「いやだからさ、それはもういいって。俺は気にしてないんだし、みんなだって気にしてないって」
「そうかな?」
「そうだと思うよ。だってさぁ、エラーなんて誰でもやるじゃん。そりゃ、やらないに越したことはないけど、そうはいったって人間やっぱやらかすもんだし。それ考えたら江草さんを責めれる人なんて誰もいないって」
「でもね、やっぱり思うけど、私は駄目だよ。全然駄目。高校生の時だって、テニス部じゃみんなのお荷物で、試合に出ても活躍できないし、先輩にも後輩にも迷惑かけっぱなしだったし」
「俺だって中学の野球部時代はそんな感じだったよ。まるで駄目だった。でも今は前より良くなってる、練習したからね。江草さんだって練習すればもっと上手になるよ、足引っ張るどころか逆にみんなを助けるぐらいになれる」
「そうかなぁ……。そうは思えないけど……」

 めぐみは大きなため息をつき、話を続ける。

「私ね、テイターとはずっと友だちだけど、あの子と一緒にいるとなんか引け目を感じちゃうんだ。別に嫌いってわけじゃないけどね」
「どういうこと?」
「だって、私なんかより全然凄くって、運動神経いいし可愛いし。テイターと一緒だと自分が情けなく思えてきて……。野球やってるとそういうの強く感じちゃって、それも辞めようかなって思う理由かなぁ……」
「うーん……」
「野球でもそうでしょ。こないだだって、テイターは大活躍したけど私は無安打で終わっちゃった」

 鎌崎ジャイアンツの試合における江草めぐみの成績は、三打席無安打。まぁ……ダメダメである。

「でもさ、野球はバッティングだけじゃないよ。プロだって、打撃はいまいちだけど守備力あるからスタメンって人いるじゃん」
「私、守備も下手だもん……。あのエラーだけじゃなくて、テイターなら捕れるゴロ取れないし、そもそも肩弱いし……」
「そこまで下手じゃないって」
「慰めはいいよ。なんだっけそういうの、英語だとコールド・コンフォート(cold comfort)って言うんだっけ? 慰めにならないような慰め、そんな意味だったよね」
「そうなの? 俺さ、あんま勉強得意じゃなくて、暗記してもすぐ忘れちゃうんだよ」
「うん、確かそんな意味だったな。コールド・コンフォート、慰めにならないような慰め。せっかく励ましてくれてるのに申し訳ないなぁって思うけど、やっぱり駄目だ、私は。誰か別の人がセカンドやったほうがいいよ……」

 どうにも湿っぽい雰囲気だ。このままずるずる行くと嫌な結論で話が終わりそうである。流れを変えねばなるまい。
 西詰は口を開く。

「俺、思うんだけどさ。人には誰にでも事情があって、どんな凄い人だって、欠点とか弱い部分とか苦手分野とか、そういうのがあるんだよ」
「うん」
「テイターだってさ、英語凄そうに見えるけど、文法苦手だったりするでしょ。江草さんテイターに色々教えてるわけだし、それは知ってるでしょ」
「まぁ、それはね……。うん」
「生きてく上で大事なのはさ、短所よりむしろ長所じゃない? そうだよ、長所だよ長所、自分のいいとこ見つけて大事にするってのが必要なんだよ」
「でも私に長所なんてある?」
「俺はあると思ってるよ。だって江草さん勉強得意じゃん、さっきだってコールド・コンフォートなんて言葉、すぐ言えたし。英語だって文法凄いじゃん、帰国子女のテイターより上ってのはマジ凄いと思うよ」
「それはそうかもしれないけど……」
「自分に短所があるっていうなら、長所で補えばいいんだよ。あっ、そういやさ、江草さんって試合の時にスコアブックつけてたよね?」
「うん。私、データ記録したり眺めたり、そういうの割と好きだから……」
「野球でさ、セイバーメトリクスっていうのあるんだけど、知ってる?」
「えっ? せいばー、め……?」
「セイバーメトリクスだよ、セイバーメトリクス。ビル・ジェームズって人が始めたんだけど、野球の色んなデータを分析したり研究したりしていい結果を出す、そういうのがあるんだよ」
「なんか抽象的でよく分かんないなぁ……」
「えーとね、ちょっと待って。もっと具体的に説明するから」

 西詰はバッグから筆記用具を出し、メモ帳から一枚の紙をちぎって机に置き、そこにあれこれ書きながら喋っていく。

「たとえば、打点たくさん稼いでるバッターは凄いって印象あるけど、それって本当かなってことをビル・ジェームズは言うわけ」
「え、なんで?」
「だってさ、打点を稼ぐにはランナーが必要でしょ。自分一人の力で確実にとれる打点って、ソロ・ホームランだけじゃん。ソロ・ホームランを三十本打ったら打点三十。そうでしょ?」
「うん」
「でもさ、まぁ滅茶苦茶な仮定だけど、もし満塁ホームランを三十本打ったら打点百二十でしょ。どちらのバッターもホームラン三十本、でも打点は三十と百二十の違いがある。これってさ、成績だけ見たら後者の方が凄いって感じだけど、いやそれっておかしくない?」
「あー、つまり、百二十の人の場合、打つ時にいつも満塁だったから打点が稼げた。でもそれってただの偶然、運が良かっただけで、ホームランを打つ能力自体はどちらのバッターも同じ……」
「うんうん、そうそう。打点ってさ、要するに単なる目安なんだ。そりゃ実力なかったら打点稼げないけどさ、仮にあったとしてもだよ、運が悪くていっつもランナーがいない、それじゃあ稼げないよ。セイバーメトリクスってのはそういうことを考えていって、じゃあどうしたら選手の実力をきちんと正確に測れるか? 評価できるか? また、それを試合に応用できるか? まぁそんな感じなわけよ」
「へぇ~……」
「俺も中学時代に少しやっただけだから、これ以上詳しいこと分かんないんだけどさ。今はいろいろ研究本が出てるし、ネットでも考察してるサイトたくさんあるし。江草さん勉強してみなよ、せっかく頭いいんだから。それに、さっき本読んでたでしょ? 違う?」
「うん」
「読書好きならセイバーメトリクスの本だってバンバン読めるよ。江草さん確かにテイターより下手かもしんないけど、テイターより頭いい、そういう部分あるんだからさ。頭脳面でファルコンズに貢献したらいいじゃん、俺そう思うよ」
「なるほどね~……」

 今のめぐみの声には、不安や悲哀の雰囲気が含まれていない。西詰はそれに安心する。

「江草さん、もうちょい野球続けようよ。ここで辞めちゃうのもったいないって」
「でも、どうしよっかな……」
「何かあったらまた俺が相談乗るからさ。それに、もしここで辞めたらテイター悲しむと思うよ」
「あっ、そっか……」
「今度あれでしょ、大川スパローズとの試合あるじゃん。かなり強いって噂だしさ、そういう時江草さんがいて相手の作戦とか見破ってくれたら心強いよ」
「私にそんなの出来るかな?」
「出来るって、まぁそれが無理だったとしても、スコアブックつけるわけでしょ? そのデータ見てればなんか攻略方法思いつくよ」
「うーん……」

 少しの間、めぐみは考え込む。そして言う。

「じゃあもう少しだけやってみようかな……。辞めるにしても、せめてスパローズとの試合が終わってからにする」
「おー、いいじゃん」
「今日はごめん、嫌な話に付き合わせちゃって……」
「気にしなくていいって、困ったら助け合うのがチームメイトってもんじゃん?」
「うん、確かに」
「まぁ力になれてよかったよ」

 西詰はめぐみの頬が少し紅潮しているのに気づく。だがめぐみ自身は自分のそういう体調変化に気づいていないらしい、今までと同じような調子で話し続ける。

「西詰さん優しいね。本当ありがとう」
「んなこたないよ……」
「でも本当にありがとう。その、良かったら……今後もよろしくね?」

 何故だろうか、めぐみの声にどこか特別な響きが入っているのが感じられる。思わず西詰はドギマギする。ちょっと照れたような口調で彼は返答する。

「あっ、うん……よろしく」

 やれやれ、こっぱずかしい連中である。
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