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第四章 ファルコンズ最高!(Falcons rules!)

第17話 城さや子の喫茶店

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 城さや子。二十代前半、日本人女性、職業は実家の喫茶店の手伝い。昔は会社勤めだったのだが、両親に「店を手伝って欲しい」と頼まれて退職、そのまま今に至る。
 ファルコンズではレフトを担当し、右投げ左打ちの俊足巧打タイプ、打順は一番や二番を任されることが多い。彼女について西詰が知っている情報はこの程度である。

 そして彼は、さや子のことをもっと知りたいと思っている。小さなことも大きなことも、何でも知りたいと思うのだ。初めて会ってあの笑顔を見た時から、ずっとさや子のことを考え続けているのである。
 そういうわけで、ちょっとした暇ができたある日の午後、彼は、城一家が経営するその喫茶店を訪れた。



 六月はとっくのとうに過ぎ去って、今はもう七月。朝顔や向日葵が美しく感じられる季節だ。
 家の外は朝から暑く、太陽の光の中を歩けば嫌でも汗をかき、そのうち喉が渇いてくる。だから、西詰が目的地に辿り着いた時、彼は一休みしたい気持ちでいっぱいだった。

 年代物のビルの一階にあるその喫茶店のドアを開け、中へ入る。店のカウンターの中から誰かが声をかけてくる、さや子だ。

「いらっしゃいませー。あ、西詰くんじゃん!」
「ちはーっす……」
「一名様ご案内~! いま空いてるからさ、そこ座ってそこ座って!」

 言われ、そのカウンター席に座る。

「はい、お水。一杯千円ね」
「千円!? マジですか……?」
「あはは! そんなワケないじゃん、タダだよタダ、ロハ! ちょっと冗談言ってみただけだよ!」
「もう……」

 楽しそうに笑うさや子をよそに、西詰は水を飲む。程よい冷たさの液体が喉を潤していき、少しずつ気分が良くなっていく。
 人心地ついたところで彼はさや子の様子を見る。店の制服なのだろうか、黒色の膝丈スカートに白のブラウスを合わせ、その上に黒のカマーベストを着ている。まるでイタリア料理店か何かのウェイトレスといった感じだ。

 さや子が話しかけてくる。

「どう? 外、暑っついでしょ?」
「そりゃあもう。おかげで喉乾きましたよ……」
「水だけじゃ足んないでしょ。じゃあ何か頼んじゃおうよ?」
「えっ……」
「まさか水だけ飲んで帰るつもりじゃないよね?」

 さや子は見る者の背筋を冷たくするような笑顔を浮かべている。西詰の本能が彼に囁く。

(命が惜しいならノーと言ってはいけない……)

「と、とりあえずメニュー見ていいですか?」
「うん、どーぞどーぞ!」

 彼は大急ぎでメニューのドリンク欄を流し読みし、適当に頼む。

「じゃあオレンジ・ジュースで……」
「かしこまりぃ! ちょっと待ってね」

 カウンター内をごそごそ動き回り、彼女はオレンジ・ジュースをコップに注いで出す。

「はい、どうぞ」
「いただきます……」

 一杯四百円のそれは、薄色な見た目とは裏腹に濃い味で、少し酸味があり、生の果汁に近いというのだろうか、とにかく新鮮である。

「美味しいですね、これ……」
「でしょう? ねね、食べ物も注文しよ? トーストも、サンドイッチも、パンケーキもあるよ?」
「それってみんなさや子さんの手作りなんですか?」
「モチよ!」
「料理上手なんですね……」
「そうじゃなきゃ、仕事にならないからね。で、頼むの?」
「いや、今日は遠慮しときます。あんまりお腹空いてなくて……」
「そっかー、残念だなぁ。でも注文したくなったらいつでもいいからね、お姉さん大歓迎だよ?」
「はは……」

 西詰の視界の隅に何枚かのサイン色紙の姿が映る。

「さや子さん、あれって……」
「あれはね、横浜ベイスターズの選手たちのサイン!」
「ベイスターズ好きなんですか?」
「うちは昔、横浜にいたからね。お父さんもお母さんもあたしも、一家全員ベイスターズ・ファンだよ」
「へぇ……」

 店内を軽く見まわしてみると、あちこらこちらにベイスターズ・グッズが存在しているのが分かる。ペナント、小さなフラッグ、選手たちの写真。
 中でも、大魔神佐々木のサイン色紙が丁寧に飾られているのが目立つ。ベイスターズ・ファンにとって、彼の存在はやはり特別なのだろう。

「西詰くんはさ、好きな球団あるの?」
「ドラゴンズですね」
「ドラゴンズかー。もしかして名古屋生まれ?」
「いや全然。東京生まれの東京育ちです」
「じゃあなんでドラゴンズなの?」
「まぁ過去に色々あって……」

 カウンター内のさや子は、先ほどから食器を布で磨いている。その仕事姿は実にサマになっていて、いかにも社会人という感じだ。
 西詰は思う。

(俺もいつか、こうやって仕事するようになるのかな。大学を出て、就職して、経済的に自立して。そうやって大人になっていくのかな……)

「どしたの、西詰くん。ボケッとしちゃって」
「いや、何でもないですよ。ところで、今度の試合のこと、なんか話って聞いてますか?」
「うーん、特にはないなー。前回のあらましは教えてもらったけど。時間切れで引き分けになったんでしょ、惜しかったね。悔しかったでしょ?」
「そりゃあもう! さんざん遅延行為されて、雨ざぁざぁになって。せこいんですよあいつら、みみっちいというか……」
「あぁいうの酷いよね。スポーツマンシップがないのかねぇ……」
「ホントですよ。あいつら次もやってきますかね?」
「それは分かんないよー、まぁその可能性はあるんじゃない? でもさ、最初から大量得点でやっつけちゃえば大丈夫だって! 昔のマシンガン打線みたいにさ、十点でも百点でも取ってぶっ飛ばすんだよ!」
「百点はさすがに無理っすよ……」
「あはは! そりゃそうだ!」

 さや子と喋っていると、時間がどんどん過ぎていく。時間というのは不思議なもので、嫌なことをしていると進みが遅く感じられ、楽しい時は早く感じられる。
 この時も例外ではなく、気が付くと西詰は一時間以上も話しこんでいた。

 ついさっき頼んだ二杯目のオレンジ・ジュースを飲み干し、西詰は言う。

「すんません、なんか長々と喋っちゃって……」
「いいのいいの、気にしないで! お客さんとお喋りするのも商売だから」
「ありがとうございます」
「おし、いい返事だ! それでね、スパローズだけどさ、あたし出場して二番やるから」
「ケガの方は大丈夫なんですか?」
「まぁOKでしょ。プロだってさ、ケガして治療して一軍に戻るってあるわけだしね。それでも、優秀な選手なら活躍するじゃない。あたしだってそうだよ」
「自信家っすね……」
「人生は気合だよ、気合! いつも強気でいかなくちゃ、悪い奴らに負けちゃうからね! まぁ兎に角、今度の試合、得点力はバッチリだから安心して! あたしが打ちまくるから!」
「よろしくお願いします」
「西詰くんはマウンドしっかり守ってよ。期待してるからね!」
「頑張ります!」
「いい返事だ! じゃ、また次の練習でね!」

 会話が終わろうとしている。けれど、西詰としてはまだ喋っていたいのだ。
 とはいえ彼にもやるべきことがあり、そろそろ帰宅しなければならない。だから、次に希望を繋ぐため、彼は質問してみる。

「あの、また来ていいですか?」
「そりゃもちろん! お客さんはいつだって大歓迎だよ、是非是非よろしくね!」
「はい!」
「できたら今度はいっぱい注文してね? サンドイッチとかすっごく美味しいからさ」

 そう言って、さや子はにこやかに笑う。その笑顔の輝きに心を奪われつつ、西詰は「はい!」と返答し、そして店を後にした。
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