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第6章 レヴェリー・プラネット運営方針

第102話 美人のメイド Bitchy maiden

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 治は自宅であるマンションに帰りつく。玄関から中に入り、オートロックの扉を開け、エレベーターへ向かう。
 この物件は鉄筋鉄骨コンクリート製、優れた耐火性と耐震性を備え、近くに交番があるおかげで治安もいい。

 さらに述べるなら、借りている部屋は2LDKだ。彼は自身と家事手伝いロボットの2人暮らしなのだから、広い空間を自由に使える。
 それでいて家賃は相場の3分の1だ。いったい治はどこでこんな優良物件を見つけたのだろう?

 種を明かせば簡単だ。社宅なのだ。治はチェスナット社に就職する際、これへの入居を勧められ、当時は何も知らなかったせいで喜んで借りた。
 今、エレベーターで上昇中の彼は思う。入った直後は確かに満足していたよ、と。では不満はいつ頃から生まれ始めたのか?

 おそらくそれは、「監視社会の実態を知った時から」だろう。入社時の治がもっと賢かったら、こんなクソ物件、死んでも借りなかったに違いない。
 そんな後悔を胸に秘め、治は自分の部屋の前に立つ。ドアの鍵を開けて入り、言う。

「ただいま……」

 奥で料理を作っているガイノイドがこたえる。

「おかえりなさいませ」

 聞いているだけで癒されるような、穏やかな声だ。実際それはそうだろう、ガイノイドのメーカーは「落ち着いた印象」を目指して製造したのだから。
 彼女は声だけでなく見た目も麗しい。そして性格は羊のように従順で、そういった古風な女を求める男には大ウケしている。

 だが、治はこのガイノイド、ジェーン(Jane)という名前だが、こいつが嫌いだ。大嫌いだ。もし可能なら即座にぶっ壊したい。
 もちろんそんなことは不可能だ。ジェーンは、チェスナット社が「社員の福利厚生の向上」という名目で貸し出している。つまり会社の備品だ。

 壊せば弁償するはめになる。治の給料まるまる1年分に相当するようなお金など、払えるわけがない。
 今の治にできるのは、この不快なジェーンとのストレスフルな同居生活を送ること、ただそれのみ。

 こみあげてくるいら立ちを抑え、治はリビングに入る。食卓を見る。
 温かいシチューの入った器が1つ置かれており、近くにはフランスパンの入ったバスケットと数枚の皿もある。

 台所にいるメイド服(ロング丈のワンピース、濃紺)のジェーンが言う。

「治さま、いつでもお召し上がりください」

 家に誰かがいて、自分のかわりに食事を用意しておいてくれる。これはとても有り難い話だというのは治だって承知している。
 だがそれでも思う。こんなクズ鉄は死んでもいらない、消え去れ! ちくしょう!

「治さま、どうしました?」
「べつに……」
「手洗いとうがいはされましたか?」
「まだだよ」
「洗面所は夕方に掃除しておきましたが……」
「わかってる、ありがとう」

 不機嫌に言い捨て、洗面所へ移動する。
 壁に掛かっている鏡を見る。疲れた顔の自分が映っている。視線を下の洗面台に向けると、小さなプラスチック瓶に入ったうがい薬がある。

 そいつをつかみ、コップに中身を数滴たらし、水で薄めてうがいする。
 手を洗う。近くのタオルでふき、ようやく少しの解放感を味わう。少なくともこの空間なら、ジェーンの監視から逃れられる。

 そう、監視だ。ジェーンと共に暮らす限り、治の行動はすべて彼女に記録され、データという形でチェスナット社に報告されていく。
 もちろん社はLMと繋がっているから、データは情報局にも回される。

 ジェーンの真の仕事は、もちろんこの監視任務だ。家事手伝いはあくまで建前に過ぎない。
 サッカーやバスケで行われる1対1のマーキングのように、ジェーンは治につきまとい、見張る。

 また、彼女はただ監視するだけでなく、必要に応じて治の健康管理も行う。まるで家畜を監督するように治を監督し、あれこれ言う。

「お疲れですか? 栄養ドリンクはいかがですか? それともサプリメントのほうがよろしいですか?」「声の調子が悪いですよ。風邪のひき始めかもしれません、内科に行かれてはいかがですか?」「休みの日だからといって遅く起きては駄目です、規則正しく平日通りに目覚めましょう」「夜更かしはいけません、23時までには寝るようにしてください」「お酒は1日にビール300ミリリットルまで、ワインなら100ミリです」「治さまは煙草を吸われる方ではないのですから、たとえ電子煙草であっても試さないようお願いします」「最近あまり運動されていないように思います。晴れた日は散歩などいかがでしょう?」

 何かあるたびにこんな調子では、誰であっても窮屈に感じるだろう。治はそんな苦しい毎日を生きている。破壊衝動がこみ上げて当たり前だ。
 だがチェスナット社としては満足だろう。社員を社宅に入れて逃げ場を封じ、ジェーンで監視・監督すれば、労働者としての理想的な状態を保てるのだから。

 もし治が仮病で休もうとしたら? ジェーンに調べさせればいい。寝坊しそうなら? ジェーンに叩き起こさせればいい。
 このビッチがいる限り、治はずーっとずーっとそういう暮らしをするしかない。

 豚小屋の豚が、プライバシーも何もない環境で管理され、人間の利益……すなわち食肉とされるために飼育される。
 今の治はそれと同じだ。会社の家畜、社畜だ。社宅というプライバシーのない環境で管理され、チェスナット社の利益のために飼育される。

 人によっては「そんなに嫌なら引っ越せばいい」という意見を持つかもしれない。だがそれは賃貸契約によって封じられている。
 厳しい条件を満たすか、退職するか、どちらかの場合に限り契約を破棄できる。治はどれも不可能なのだから、結局この社宅に留まるしかない。

 彼は小声で「クソッ……」と毒づく。そう、小声でだ。うかつに大きく言うとジェーンに聞きつけられ、あとで意図を追及される。そんなのは御免だ。
 ふと空腹を感じる。さっき見たシチューのことが思い出される。

 そろそろリビングに戻って食事にしなければ。もし食べ始めたら? 給仕の名目でジェーンが席に着き、治と会話していろんな情報を探るだろう。
 もちろんその情報は社とLMに送られる。だから危険なことを喋らないよう気をつける必要がある。

 生き地獄とはこういうことをいうのだろう。「クソッ……!」。治は覚悟を決め、洗面所から立ち去る。
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