TSUBASA〰リングで羽ばたく少女たち〰 その3

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第3章 英国遠征

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第3章 英国遠征


「‥‥さむ‥‥」
 長時間のフライトを終え、降り立ったイギリスは寒かった。
 4月の下旬だと言うのに、日本で言う真冬の寒さだ。
 大きな旅行用トランクを地面に降ろし、少女――川部愛美は、寒さに思わずコートの襟を立てた。

「はい。これがイギリス行きのチケット」
 KIZUNAファクトリー社長室。
 いきなり葛城南総帥から手渡されたそのチケットに、愛美は目を丸くした。
「え‥‥」
 イギリス遠征が決まった愛美だったが、現在、銀行残高を含めその財政は逼迫していた。
 前の所属団体とのマネージメント契約を解約してから、リングには一切上がっていない。
 試合をしていないのだから、収入がないのは当たり前である。
 KIZUNA道場に厄介になる前は、上京してきている友だちのアパートに居候し、コンビニ店員などアルバイトで生活費を稼いでいた。
 少ないが貯金もしていた。
 現在、KIZUNA道場での生活には一切、お金を使っていない。
 食費光熱費等生活費はトレーニングが満足の行く形になったら、KIZUNA関係の試合に出場すると言う条件で、貸しと言うことになっている。
 しかし、イギリスへの旅費、滞在費等にはとてもじゃないが足りない。
 1週間程度の旅行ではないのだ。
 なので、懐具合が寂しいので、短期のアルバイトで渡航費と当座の生活費を稼ぎに行きたいという相談に来た愛美だった。が、それを言い出せないまま、出された葛城オリジナルブレンドのコーヒーに口をつけていた。
 なんとか切り出そうと口を開こうとした瞬間、愛美の目の前に葛城が「そうそう、忘れていたわ」と、チケットを差し出したのだ。
「さすがにファーストクラスで直行便、というわけにはいかなかったんだけれど」
 そう言いながら、葛城がカップに口をつける。
 愛美が社長室に訪れたついさっき、葛城が自分の手で煎れたコーヒーだったが、一口飲んで、葛城の眉が微かに動き、カップの中身を見つめた。
 今日のコーヒーはモカをベースに南米産の豆を葛城自身が複数ブレンドしたオリジナルバリエーションのものなのだが、イメージしたものよりも香りと味のバランスが違っていたようだ。
 コーヒー党である深沢拓海統括の影響を受け、葛城自身、自分で豆のブレンドを始めるほどこだわりを持っていた。
 葛城と深沢のフロントトップのふたりして、お互いのオリジナルブレンドを競い合うというのが、KIZUNA社長室の名物でもあった。
 愛美自身、コーヒーはブラックで飲むほど好きなほうである。
 なので、社長室で葛城、深沢のふたりのブレンドコーヒーをお呼ばれするのは、楽しみのひとつだった。
 ものすごく美味しい、と愛美は思いながら、お代わりまでしていたのだが、ブレンドした張本人に取っては味も香りもまだまだ改良の余地があるようだった。
 だが、今はコーヒーのことよりチケットのことだ。
「あの、せっかくなんですけど、私、チケット代が‥‥」
 テーブルの上に置かれたチケットに目を落とし、あたふたとしながら愛美が言う。
 カップの中身に視線を落としながら、なにやら思案していた葛城が、愛美の言葉に顔を上げた。
「チケット代?」
「はい。私、今、ちょっと経済的に厳しくて‥‥。だから、あの‥‥短期のバイトに出たいんで、そのお願いをしようと思ってたんです‥‥」
 恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、愛美が言った。
「気持ちはわかるけれど、ウチに居る以上アルバイトなんてする暇があるのなら、練習することを考えなさい。あなたもプロなんだから。」
「ですけど‥‥」
 プロ失格と言われればそれまで。どうしようもないが、先立つものが無ければ立ち行かない、それが現実なのだ。
「それに、いつ私がチケット代を払えなんて言ったかしら?」
「え? でも、それは‥‥」
 私はKIZUNA所属じゃないし、と言いかけた愛美の言葉を葛城がさえぎった。
「書類を交わしていなくても、ウチに寝泊まりして練習している今のあなたは、誰が何と言おうとKIZUNAファクトリーの一員なの。所詮、KIZUNAがあなたにとっての一里塚に等しいものであっても、KIZUNA道場で練習している以上、あなたは私が指導しているプロレスラーなの」
「あの‥‥ですけど、練習させてもらって、生活まで面倒を見てもらっているのに、こんなことまで‥‥」
「ウチに来た者は誰であれ、トレーニングにのみ専念できる環境を用意するのがKIZUNAなの。それにイギリス行きは正式にKIZUNAファクトリーとしての派遣なのだから渡航費、最低限の生活費は出します。だからあなたはそんな心配をしなくていいの」
「‥‥すみません‥‥私‥‥」
 うつむくしかない愛美。まさか、そこまでしてくれるなんて‥‥。
「下宿になるけれど宿泊場所もお願いしてあるから、あなたは余計な心配しないで、プロレスをすることだけ考えなさい」
「‥‥ありがとうございます。ホントになにからなにまで‥‥」
「お礼を言われることじゃないわ。そうそう、悪いけれど、イギリスからのギャラはウチのほうで諸経費諸々引いた額の翌月末振り込みになるから」
 選手派遣を主とするKIZUNAファクトリーでは、個々の選手のギャランティーは全額団体に支払われ、諸々の諸経費等を引かれた額が各選手に支払われるシステムとなっている。「ギャラの天引きは吉本並だから」と所属選手は皆、笑いながら語る。だが、他団体と違ってKIZUNAでは、寮に住んでいる限り、生活にお金を使うことがほとんどない。
 月2万円の寮費を払えば、それ以上の寮での食費、電気、電話等の寮での生活料金、遠征費用等々そう言った諸経費のほとんどが団体持ちとなる。
 寮費も、最初に諸経費の一部として引かれているので、支払われるギャラはすべて個人が自由に使えるお金になるのだ。
 各種保険も完備してあり、その保険料もすべてKIZUNAで支払うため、実際、団体としての黒字はほとんどないのが現状だ。
 母体となるスポーツジムからの補填と、好意的なスポンサーのおかげで団体としての体裁を保っているのだ。
 フロントが諸経費として引いているお金は、それ以上のものとなって選手たちに還元されている。選手たちもそれを理解し、感謝しているからこその、笑い話なのである。
 もちろん、愛美自身、その恩恵に預かっている。
 葛城からの話は悪いもなにも、文句を付けるところが見当たらない。
 イギリスから支払われるギャラの額など、今日までの愛美の生活費に到底及ぶものではないはずなのだから。
 それなのに、渡航費、生活費の他にギャラをちゃんと支払うと葛城は言っているのである。
 KIZUNAファクトリーに来てから何度目かわからないが、ただただ頭を下げるしかない愛美だった。

 2ヶ月というロングシリーズへの参戦となる今回のイギリス遠征。
 長期就労ビザの取得など慌しい準備を終え、日本を発つ日になった。
 イギリス行きは愛美ひとりではなく、天野真琴と一緒だった。
 KIZUNA所属選手のなかで、愛美が理想としているスタイルを体現している真琴との遠征に、一番驚いていたのは愛美自身だった。
 そして、今日、愛美はイギリスに降り立ったのだ。
 諸外国の入国審査が厳しくなった昨今。一時間近くかかって、税関を抜けたふたりは、空港内の喫茶ルームで一息入れることにした。
 カップ1杯のコーヒーが、ポットで出てくる紅茶よりも高いことにビックリしながら、頼んだコーヒーに口をつける。
 その味に個性がまったくなく凡庸なのにも、愛美は思わず目を丸くした。
 長くイギリスで生活していた真琴が注文したのは、お約束通りにミルクティー。
 日本ではストレートティーやレモンティーが幅を利かせているが、本場イギリスでポピュラーなのは、ミルクティーである。
 たっぷりのクロテッドクリームとすぐりのジャムが添えられたスコーンを摘みながら、小雨が振り続く外を眺める。
 日本で荷物をまとめている時に、真琴から着替えには冬物を持っていくように言われた理由がやっと理解できた。
 これまでも外国にはなんどか足を運んでいたが、訪れたアメリカ、メキシコ共々夏に行ったため、服はジーンズにTシャツで充分だった。
 確かにイギリスは地球儀や地図上では、かなり北にあるのはわかっていたが、こんな寒い国だとは思いもしていなかった。
「あの、天野さん」
「なんです?」
 酸味の効いたジャムのほのかな甘みと濃厚なクロテッドクリームの風味を楽しみながら、嬉しそうにスコーンを口に入れていた真琴に、愛美が問い掛けた。
「あの‥‥私の宿泊先ってどこなんでしょうか」
 葛城からはイギリスに行けばわかるからと言われ、泊まる所についてはなんの話も聞いていなかったのだ。
「え?」
「あの、だから私の宿泊先‥‥」
「あ、すみません。もしかしてまだ言ってませんでしたっけ、わたし?」
 目を丸くしている真琴に、愛美がうなずく。
「宿泊先って言うほど、大した所じゃありませんけど。わたしの家なんで」
「はい? あ、天野さんの家‥‥ですか?」
 真琴の家族がイギリスで生活しているのは知っていた。
 しかし、まさか宿泊先が真琴の家だとは思いもしなかったのだ。
「ええ。これまでもKIZUNA関係でイギリスに来た人たちは皆、わたしの家に泊まってもらってますし」
 そう言って、心配するなと言わんばかりに真琴が笑顔を見せる。
 宿泊先を真琴の家にしているのには理由があった。
 初めての海外長期遠征である愛美に取って、余計なストレスを感じさせ無いようにということと、娘がプロレスラーである天野家では食事を含め、プロレスラーに対して理解が深いからである。
「は、はあ‥‥。あの、よろしくお願いします‥‥」
 小一時間ほど休憩し、タクシーに乗ってロンドン市内へと向かう。
 市内に入ると、ロンドン名物の2階建てバスが見える。
その大きな車体に、愛美の目が輝く。
 改めて、自分はイギリスに来たんだなと実感する愛美だった。
 真琴たちが所用を終え、ロンドン郊外にある天野家に着いたのは、日も暮れはじめた頃だった。
 英単語の読み書きは出きるものの、愛美の会話能力は堪能ではない。
 アメリカへ行った時は、けっこう身振り手振りと、日本語交じりでも通用したものだったが。
 これからしばらくの間、この国、イギリスで生活するのだ。
 文化はもちろんの事、生活習慣も違うし、同じ英語でもアメリカとは違う。
 日本とはまったく違う生活のスタートに、今になって不安を感じ始めた愛美だった。
 イギリスの地理にも詳しく、母国語並に英語が堪能な真琴と一緒の遠征で助かったと言うのが、愛美の偽らざる本音でもあった。
 これまでもKIZUNA関係で何人ものレスラーが訪れている天野家である。
 優しい笑顔のお母さんが、娘と一緒にやってきた愛美を笑顔で出迎えてくれた。
「しばらくお世話になります」
 手土産の菓子折りを差し出しながら、愛美が玄関先で頭を下げる。
「はい、いらっしゃい。自分の家だと思ってゆっくりしてね」
 ふくよかな感じで、優しい印象の真琴の母、洋子がそう言って家の中へ招き入れる。
 愛美の部屋が用意してあるはずだったのだが、手違いで部屋の掃除等がまだ間に合あっていないため、今夜のところは真琴の部屋で寝ることになるらしい。
 取りあえず部屋にトランクを運び、まずは食事をすることになった。
 食卓には、天野家の家族全員が揃っていた。
 初めて会う真琴の家族に、愛美は少し緊張していた。
 大手商社のイギリス支社長を務める父、康介は気難しそうな雰囲気を持っていたが、話してみると物腰が柔らかい人だと感じた。
 弟の拓哉は現在大学に通う21歳。ちょっとぶっきらぼうだが、少し話してみると、その印象は悪くなかった。
 食卓に並んでいるのは、普通に日本で食べられるメニューがメイン。
 鳥のから揚げにハンバーグと肉じゃが、それに具だくさんの味噌けんちん汁と、食卓だけ見ているとイギリスに来たとはとても思えない。
 主食はもちろんご飯。父、康介が家でくらいは和食を食べたいと言うことで、日本からわざわざ取り寄せている、福岡県は久留米産の筑後米に玄米を混ぜた健康食だ。
 当然のように愛美の前にはドンブリでご飯が出されるが、真琴の前には普通の茶碗。プロレスラーなのに食の細い真琴は、KIZUNA寮に居る時からさほど食べるほうではなく、普段から普通盛りの茶碗で2杯も食べると苦しそうにしている。なので、身体を作る、維持するために真琴は、量ではなく食べる回数を増やしていた。
 小腹が空いたらバナナなどフルーツ類を食べ、サプリメントで足りない栄養素を補給している。
 最近は、栄養をサプリメントで補給し、量を取らずに粗食を中心とするレスラーも多い。
 だが、KIZUNAではサプリメントはサプリメントとして取るのはいいが、食事は食事できちんと取ることを推奨している。
 摂取するエネルギーや栄養の分、消費すればいいだけのことだ。
 日々、それだけのトレーニングをやっているのだから問題はない。
 見栄えを重視し彫刻のような筋肉美を作るのであればまた違うのだが、女性らしい柔らかく、しなやかな身体作りこそが女子プロレスラーと言う考えをKIZUNAでは持っている。炭水化物ばかりではなくたんぱく質を多く取り、栄養のバランスも考えはするが、個人が食べたいものを食べるようにしている。
 過酷なトレーニングで疲弊しているのに、食事制限で精神的なストレスを蓄積させないということも理由のひとつである。
「身体が資本だもの、たくさん食べてね」
「ありがとうございます」
「一応、わたしもそうなんだけど‥‥」
 母、洋子の愛美への言葉に、真琴がつぶやくように言った。
「あなたは昔っから量、食べられないじゃないの。メキシコに居たときも、プロレスラーになるって言って、ご飯を無理して食べようとしてはお腹壊してたんだから」
 ぴしゃりと言われ、なにも言い返せなくなる真琴。から揚げを口に放り込んで、もぐもぐとしながら、そんなことないもん、とでも言うような目をしている。
 そんな様子を見て、仲が良いんだなと、愛美は思った。
 隠し味としてカレー粉がまぶしてあり、ピリッとしたスパイスがアクセントになった鳥のから揚げは、愛美の口にかなり合い、ご飯のおかずとして最適だった。
 ハンバーグもおろしポン酢がかかったあっさりとした和風の家庭の味で美味しい。
 それに根菜がゴロゴロと入った味噌けんちん汁はおかずとしても充分で、食を進ませる。味噌汁はその栄養価以上に健康食である。根菜や野菜がたっぷりと入ったけんちん汁となっているのも、アスリートには最適だった。
 それ以上に、お米を食べるのに味噌汁があるのとないのとでは、やはり日本人にとっては違うのである。
 かなり緊張していた愛美だったが、天野家の家族団欒に触れている内に、張り詰めていた気持ちも落ち着いてきていた。
 薦められるままにお腹一杯ご飯を食べ、食後のお茶を飲む時には、すっかり打ち解けていた。
 食事を終え、お風呂に入り、真琴の部屋へと戻る。
 居住性は各国違いがあるが、欧米諸国ではゆとりのある空間を大事にする傾向があり、ほとんどの家は、日本の家屋よりもゆったりと広い。
 一般的なアパートではなく、一軒家である天野家は、かなり広めであった。
 2階にある真琴の部屋も例外ではなく、12畳ほどのフローリングの部屋はかなり広い。家具や私物があまり多い方ではないということもある。
 部屋の家具と言えば、窓際に作りつけられたセミダブル大のベッドと、樫の樹で作られた机と椅子。机の上にはブックスタンドに並んだ教科書が置かれてあり、端のほうにスヌーピーとチャーリーブラウンなど、ピーナッツのキャラぬいぐるみが数個並んでいる。
 部屋の真ん中には、小型の家具調コタツがテーブル替わりにあり、それがちょっとだけアンバランスな印象だ。
 コタツの周りには座布団替わりなのだろう、大きめのクッションが置いてある。あと目立つ家具と言えばクローゼットがひとつと、小説や雑誌、CDなどが並んでいる小さな本棚がひとつ。本棚の上にミニコンポが置かれているくらいだ。
 カーテンも落ち着いた色調のもので、年頃の娘の部屋にしては地味と言うのが、真琴の部屋を訪れた誰もが抱く感想である。
 今は、部屋の隅に愛美の旅行トランクが置かれ、真琴のベッドの隣に布団が敷かれている。
「すみません。明日には愛美さんの部屋の掃除終わるって、お母さん言ってましたから。今夜はわたしと一緒でいいですか?」
「あ、はい。こちらこそホントにすみません」
 イギリスは真夏でも23度前後までしか気温が上がらない。日本では、すでに春真っ盛りである4月下旬のこの季節でも、イギリスでは昼間も寒いが夜になると日本の冬並に気温が下がる。
 真琴と愛美はふたりして、コタツにあたっていた。
 エアコンもちゃんと部屋に付いてはいるが、やはり日本人はコタツにあたっているほうが身体も心もあったまる。
 コタツの上にはあんずジャムのクッキーが盛られた菓子皿と一緒に、ティーセットが用意されている。
 差し向かいでいる真琴と愛美の前には、ミルクティーが温かな湯気をたてていた。
 いつもなら就寝している時間だが、時差ボケのためか、全然眠くない。
 しんと静まった夜。ミルクティーを飲みながら、こんな風な夜に異国の地でひとりでホテルに居たら、きっと寂しくてたまらなくなっていたかも知れない、と愛美は思った。
 きっと、そういうのをホームシックと言うのだろう。
 自分を真琴の実家に下宿させる意味が、なんとなくわかったような気がした。
 とりとめのない話をしていたはずが、いつのまにか愛美は、イギリスマットのことを根掘り葉掘り聞き始めていた。
「BAWLの一番の特徴は、タイトルマッチとか大一番になると、シングルはラウンド制が採用されるところですね」
「プロレスでラウンド制ですか?」
 ボクシングならいざしらず、プロレスにラウンド制が採用されるなど愛美にはカルチャーショック並に驚きだった。
「ええ。イギリスでは、元々ラウンド制でやっていたんですね。最近は他の団体は皆、時間一本勝負なんですけれど、BAWLでは普段は時間一本勝負でやって、タイトルマッチや記念試合とか大一番の試合は、伝統のラウンド制で試合をするんです」
 真琴の説明を聞いても、ラウンド制のプロレスと言うものが感覚的に理解できない。
「ゴングが鳴って1回ごとに仕切り直しになるんですか?」
「はい。元々はボクシングと同じで3分1ラウンドだったんですけど、BAWLでは5分1ラウンド12回戦と言うのが一般的ですね。ゴングごとに試合は中断して、大体1分のインターバルを置いて仕切り直しになります」
「なんていうか‥‥不条理な気がしますけど‥‥」
「日本やアメリカの一般的なイメージで言うプロレスから考えたらそうかもしれませんね。わたしも最初にメキシコからイギリスに来て、ラウンド制で試合をしたときは、なんなんだろう、この試合形式って思いましたし」
 当時を思い出したのだろう。
 苦笑した真琴がミルクティーで喉を潤した。
 お母さんの手作りのあんずジャムのクッキーを摘みながら、愛美はさらに尋ねた。
「でも、それだと自分が攻めてる時にラウンドが終わって、仕切り直しになって負けちゃったら嫌ですよね‥‥、あ、このクッキーすごく美味しい」
 あんずジャムの爽やかな酸味が甘さを控えたクッキーの味を際立たせ、ミルクティーによく合う。
「たくさんありますから、どうぞ。‥‥そうですね。わたしも最初はそう思いました。でもボクシングは完全ラウンド制ですし。慣れればそんなにでもないですよ。ちゃんとした戦略を組み立てておけばラウンド制も苦にはなりませんから。それに逆もあるわけですし」
 そう言われてもなあ、と愛美は思う。
 話を聞けば聞くほど、ラウンド制というのは、これまで愛美がやってきたプロレスとは、まったく別物じゃないかという気がしてくる。
「あとイギリスのリングマットは日本の3倍くらい堅いんです。日本のリングマットは緩衝材も間にあるし、スプリング効果で受け身も取りやすいですし、投げ技のダメージをマットそのものが軽減してくれるんですけれど」
「堅さが3倍‥‥ですか?」
「計ったことはないですから、3倍って言うのは正確なものじゃなくて、わたしのイメージ的なものですけど。でも、本当にマットの堅さは日本やアメリカ、メキシコの比じゃないですよ。ボディスラムでも、受け身がちゃんとできないと息が詰まりますし。初めてイギリスで試合したレスラーの中には、試合開始直後にボディスラムの受け身をしそこなって、そのまま立てなくなった人もいましたから」
「はあ‥‥」
 ボディスラムで息が詰まる。
 場外戦ならいざ知らず、リングマットがどれだけ堅かったらそんなことになるのか、愛美には想像もできない。
「わたしがイギリスで試合をしていた頃はもっと堅いところもありましたよ。分厚い樫の板を組んだ上にカーペットを少し厚くしたくらいの布を被せただけで。あのリングは、すごく痛かったなあ」
「樫の板って、痣だらけになるんじゃ‥‥」
 痛いなんてもんじゃないだろう、と、当時を思い出して、また苦笑を浮かべている真琴を見つめながら愛美は思った。
 下手をしたら、ただの床の上で受け身をするのと大差ないのだから。
「だから、大ケガしないように、受け身だけはホントしっかり練習しました。逆に日本に帰った最初の頃は、マットがふわふわで安定しないなあって、思ってましたから」
 日本女子プロレス界の中でも、その上手さに定評のある天野真琴の受け身の秘密が、マットの堅さにあったと言う事実に愛美はビックリした。
 そんな堅いマットでダメージを殺す受け身ができれば、柔らかい日本のリングマットの上なら、序盤はダメージをほとんど受けずにいられるだろう。
「BAWLのマットはある程度は改修されてますけど、それでも日本マットに比べたらかなり堅いですよ。堅いって言われるメキシコのマットよりも、わたしの体感では堅いんじゃないかな。スプリング効果もあまりありませんし。そう言う意味ではシビアなプロレスになるとは思います」
「日本だとそんなに大技じゃない技でも決まりそうですね」
「今の日本マットだと大技も複数出さないとダメですけど、イギリスだと一発の大技で終わることが多くて、特にパイルドライバー系は一撃必殺の威力になります。取りあえず受けとこうなんて試合をすると、そのまま終わり、なんてことありますから」
 序盤、流れを作るために取りあえずロープに飛ぶ、取りあえず相手の技を受ける。
 プロレスラーならば、試合の中で誰もが一度はやったことのあることだ。
 だが、堅いイギリスマットでは、ロープワークならまだしも、相手の技を不用意に受けてしまうとそのダメージで、そのままフォールを取られてしまいかねない。
 相手を投げる技、叩きつける技は、マットの堅さによってその威力が変わる。
 元々、プロレスのリングマットに既定があるわけではない。
 日本のように団体ごとの差があまり無いということのほうが、実は珍しいことなのだ。
 だからこそ、戦略と高度なレスリングが重要になるのである。
「同じプロレスですけど、イギリスってまったく別なものみたい‥‥」
「そうかもしれませんね。でも、プロレスってひとくくりになってますけど、各国でスタイルが違いますから。メキシコのルチャはプロレスですけれど、ルチャ・リブレって言う独自のものに等しいですよ。会場の雰囲気も試合も、技術も。ちゃんと知らないから同じだと思ってる人も多いですけど。日本とアメリカは近いかな。欧州は欧州で、地域ごとにまた全然違いますし」
 世界は広いというが、同じプロレスでもその地域、文化ごとに違いがあるんだなあ、としみじみ感じてしまう。
 深まる夜のお茶会もお開きな時間だ。
 そろそろ休みましょうかと、真琴がティーセットを片付け始める。
 真琴が階下の台所へティーセットを片付けに行く。愛美は立ちあがり、部屋の窓から外を眺めた。
 静かな夜。いつもはどんよりと曇り、星ひとつ見ることはできないらしいのだが、小雨が降っていた昼間とうってかわって晴れた夜空には、星が瞬いていた。
 すぐに真琴が部屋に戻ってきて、真琴はベッドに、愛美は布団に入った。
 温かなミルクティーのおかげなのか、身体がぽかぽかと暖かく、いつしか愛美は深い眠りのなかに落ちて行った。

 朝日が昇り、目覚し時計の音が部屋に響く。
 イギリスでの新生活がスタートする大事な初日だと言うのに、愛美はふかふかの布団に包まって、夢の中にいた。
 毎朝6時に起きて近所にある一周2キロの公園で、日本での生活と同じようにランニングをするという真琴と一緒に起きて、早朝ランニングをするはずだった。
 しかし、ただでさえ低血圧で朝が苦手なのに、時差ボケがさらなる輪をかけていた。
 なので、目覚まし時計のアラームが鳴っても、愛美が夢の中から呼び覚まされる気配はこれっぽっちもなかった。
 イギリスと日本の時差は約8時間、日本が先行している。サマータイムになれば、時差は7時間になるが、どちらにしても愛美の時差ボケはかなり重症だった。
 ピピピとアラームが鳴ると同時に目を覚ました真琴が、隣ですやすやと寝息を立てている愛美の肩を揺すり、起こしてみたが一向に起きない。
 昨日は20時間強のフライトで時間感覚がなくなっていたし、慣れない国に来たばかりで愛美は疲れきっていた。
 この状態では、目覚まし通りに目を覚ませというほうが酷と言うものだろう。
 時差ボケを治す一番の特効薬は、とにかく眠って、体内時間をその地域の日照時間に無理にでも合わせることだ。
 少しだけ考え、真琴は愛美をこのまま寝かせておくことにした。
 真琴の場合は、時差ボケに対して耐性がついているため平気なのだが、時差ボケのまま無理して起きてランニングに出ても、疲労するだけだし、身体にもよくないだろう。
 愛美は怒るだろうが、トレーニングは時差ボケが治ってからやったほうが効率はいいのである。
 愛美を起こさないように、静かにトレーニングウェア替わりのカンフー着に着替えると、真琴は部屋を出ていった。
 その間も愛美は、深い深い眠りのなかで、気持ちよく寝息を立てていた。
 7時過ぎに、真琴がランニングから戻って部屋で着替えても、愛美は起きなかった。
 それから、さらに時間が過ぎて‥‥。
 もぞもぞと布団の中で、愛美が寝返りをうった。
 その拍子にふと、愛美のまぶたが開く。
「ん‥‥」
 まるで縮こまるように、愛美は横向きになって丸まって眠っていた。
 まぶたは開いたが、意識はまったく頭と繋がっていない。
 開いていたまぶたが、ゆっくりと降りてくる。
 とても抗いがたい誘惑だ。
 心地よい夢の中へ、愛美がまた戻ろうとした時、意識の隅で、まぶたを閉じたらダメだというシグナルのようなものが、鳴り始める。
 だけど、このままあったかい布団に包まりながら、夢の中でまどろんでいたい。
「う‥‥ん‥‥」
 ゴロンと反対側に寝返りをうった時、部屋の壁に寄りかかるように置いてある、大きな旅行トランクがちょっとだけ目に入った。
 その瞬間、愛美の頭の中でなにかが閃いた。
 パズルのピースがパタパタとはまるように、自分が今、居る所となぜここに自分が居るのか、布団に包まって寝ているのかなどなど、すべてがひとつに繋がった。
「た、大変ッ!」
 自分ではガバッと勢いよく起きあがったつもりだったが、低血圧なので、もぞもぞゆっくりと上半身を起こす愛美だった。
 慌てて時計を見ると、時計の針はすでに午前10時を回っている。
 確か、昨日寝る前に、6時前に起きてランニングに行くって‥‥。
 真琴と昨夜約束した内容が、頭の中に浮かんでは消える。
「い、急いで起きなきゃ‥‥」
 もう起きているのだが、慌てているため自分の言葉のおかしいことに気づかない。
 パジャマのまま、急いで階下に降りると、真琴がホットレモネードを飲みながらリビングのソファに座って、テレビをながめていた。
 ドタドタと大きな音を立てて2階から降りてきた愛美に、真琴が声をかける。
「あ、愛美さん、おはようございます。良く眠れました?」
「すみません! 私、最初の朝からこんな寝坊して‥‥」
 目覚ましをかけておきながら起きることのできなかった自分への怒りと、初日から大寝坊したという恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、愛美が頭を下げる。
 先輩で、しかも一緒の部屋に寝ていた真琴が起きているのに、まったく気づかずにいい気持ちで寝こけていたのだ。
 体育会系の世界ではあり得ない出来事である。
「寝坊って‥‥。昨日の今日で起きるほうが無理ですから」
「でも、天野さんはちゃんと起きてるのに、私‥‥」
「わたしは時差ボケには慣れてますから、大丈夫なんです。時差ボケ治すには思いっきり寝て、体内時計を合わせるしかないですから」
 だから気にするなと、真琴は笑った。
「ですけど‥‥」
「時差ボケが治らないままだと、なにかやろうとしても身体がついて行かないですよ。今日はオフと言うことにして、身体が本調子に戻ってからトレーニングを再開するということで、気にしないでください」
 真琴の言う事が正しいことはわかる。
 だけれど、「そうですね、あはは」と頭をかいて終わらせられるほど、愛美は融通が利くほうではなかった。
 さらに頭を下げようとした時、キッチンにいるお母さんから声がかかった。
「ほらほら。朝ご飯の用意ができたから、顔を洗ってらっしゃいな」
 考えてみれば起きてすぐだったので、まだ顔も洗っていないし、ブラシもかけていないから髪の毛もぼさぼさだ。
 早く早くと急かされて、洗面所で顔を洗う。
 そこで、まだパジャマ姿なのに気がついて、2階の真琴の部屋へと慌てて戻る。
 セーターとジーンズというラフな格好に着替え、寝癖がついてはねている髪にブラシをかけてから、キッチンへと降りていった。
 キッチンのダイニングテーブルには、ベーコンエッグにトーストと言う、まさに英国風な朝食が用意されている。
 テーブルの上にはバターの他に、マーマレードとイチゴのジャムが並び、グラスにはフレッシュオレンジジュースと冷たいミルク。
 もちろんミルクティーも暖かな湯気を立てている。
「普段は朝もご飯なんだけれど。ごめんなさいね、今朝はタイマーかけ忘れててご飯が炊けてなかったのよ」
「あ、いえ、大丈夫です。私、パンも好きですから」
 トーストにバターだけをぬり、かじる。
 海外の朝食では、ジャムをトーストにぬって食べることが多いのだが、愛美にはそれがどうも口に合わない。
 トーストにはやっぱりバターかマーガリンだけって言うのが、本道のような気がする。
 エネルギーとしての糖分を効率よく朝から取るために、ジャムは最も適した食品である。愛美も、パンを焼かずにそのままジャムをぬるのなら好きなのだが、トーストにジャムというのはどうも座りが悪いというか、トーストを食べている感じがしないのだ。
 まあ、とにかく今は、腹ごしらえをしなければ。
 今日は、午後からBAWLの事務所へ挨拶に行くことになっているのだから。
 だからこそ、この朝寝坊は愛美にとって、精神的に痛かった。
 半熟の目玉焼きをフォークでつぶし、トーストにのっけて頬張っていると、リビングから真琴がキッチンへとやってくる。
 思わず、のどに詰まらせてしまい、慌ててオレンジジュースで流し込んだ。
「そんな慌てて食べなくても大丈夫ですよ」
 真琴がそう言うが、先輩を前にして悠長に朝ご飯を食べているわけにはいかない。
「いえ、すぐ食べますから」
 口のなかにトーストを押し込んで、愛美がもう一度、オレンジジュースで流し込む。しかし、案の定、喉につかえてしまう。
「ほら、慌てて食べるから。しっかりしなさい」
 ほら、みなさい、とお母さんが愛美の背中をさする。
 オレンジジュースが気管に入り、ケンケンと愛美が涙を浮かべながら咳き込んだ。
「す、すみません‥‥」
 恥ずかしくて、カッコ悪くて。
 穴があったら入りたいと思いながら、愛美はナプキンで口の周りを拭いた。
「落ち着いて食べないから。食事はね、ゆっくり落ち着いて食べないとだめよ」
「そうですよ。別に急いでいませんし」
 お母さんと真琴にそう言われ、愛美がさらに落ち込みかける。
 ある程度食べ終わった頃、プレーンヨーグルトのフルーツカクテルあえが、愛美と真琴の前に用意される。
 愛美にはデザートだが、真琴にとってはおやつというところなのだろう。
 冷たく冷やしたヨーグルトの酸味とフルーツの程よい甘さが口の中いっぱいに広がり、思わず笑顔になる愛美。やはり年頃の女の子、甘いものを食べていると幸せな気持ちになる。
 食事を終え、後片付けを手伝ってから愛美は、BAWL事務所を訪ねるため、真琴と一緒に家を出た。
 地下鉄に乗るために駅へと向かい、路線図を見て愛美は目を回しそうになった。
 日本の都内も複数の路線が複雑に絡み合い上京したばかりの学生が迷うというのは、ほとんど風物詩にようになっているが、ロンドンの地下鉄事情もかなり入り組んでいた。
 ロンドンの地下鉄は、初心者が乗ろうとしても絶対に目的地に着かないとい言われるほど、迷路に等しい路線となっているのだ。
 心のそこから、イギリスに詳しい真琴と一緒でよかったと思いながら、地下鉄に乗ってロンドン市内へと入る。
 真琴の家から、一時間半ほど離れた街にあるBAWL事務所は、リングが設置してあるジムが併設してある、こじんまりとしたものだった。
 ちょうどお昼時とあって、事務所内は閑散としていたが、BAWL代表であるブライアン・バーカーがパソコンを前に、なにやらキーボードを叩いていた。
 英国マットで長年プロモーターとして辣腕を振るっていたブライアン。見るからにナイスミドルという外見が、52歳という年齢を感じさせない。
 どうやら老眼鏡らしい眼鏡を外しながら、デスクから立ちあがり、真琴たちを迎える。
「ご無沙汰してます」
「マコトも元気そうでなによりだ。ジェニーは元気にしているかな?」
 応接セットのソファを薦めながら、ブライアンが尋ねた。
 BAWL重役であり、ご意見番でもある英国女子プロレス界の鉄人ジェニー・セイントは、日本に行きっぱなしなのだった。
 結果として、ジェニー・セイントが日本に居るということが、提携などさまざまな諸問題が円滑に解決することとなっていたのだが。
 ブライアンとは、真琴がイギリスマットを主戦場としていた時からの顔見知りである。
 それだけではなく、所属選手、フロントスタッフに至るまでBAWLには、真琴の昔馴染みばかりが居る。そのため、真琴のBAWLにおける発言力、影響力は計り知れない。
 英語で、真琴がにこやかにブライアンと談笑している。
 隣に座っている愛美には、なんとなく世間話程度のことなんだろうなとは感じるのだが、なにをしゃべっているのかその内容はちんぷんかんぷんだった。
 自国語並に流暢に英語を操る真琴に、愛美は尊敬にも似た気持ちを感じてしまう。
 ブライアンが用意した書類に目を通しながら、サラサラと真琴がサインをしていく。
 基本的な契約は会社間で合意がなされているが、最終的な確認と契約書へのサインは、全権限を委任された真琴が行うことになっていた。
 書類内容を確認しながら、真琴が愛美にもその内容を教えてくれる。
 真琴たちがイギリスへ遠征に来たのは、KIZUNAファクトリー、SPWA、BAWLの三団体認定による新たなる王座の新設が最大の目的なこと。
 日本、カナダ、イギリスの三カ国・三団体によるグローバルなチャンピオンシップを目指し、新王座はGQC(グローバル・クイーンズ・クラウン)と命名されること。
 今回のシリーズでは、三団体の代表によるシングルトーナメント戦、タッグリーグ戦を行って、初代王者を決定すること。
 もしかして、私はものすごく大事なシリーズに参加するんじゃないだろうか。
 そう考えて、背筋に冷や汗を感じる愛美。シングルトーナメントへのエントリーが真琴なのは、理解できる。
 しかし、タッグリーグは‥‥。
「あの、天野さん。まさかと思いますけど、タッグリーグって‥‥」
「ええ。わたしとのタッグで申し訳ありませんけど、愛美さんにはわたしと一緒にタッグリーグにエントリーしてもらうことになります」
「は?」
 まさかと思いながらも、予想通りの答えが真琴から返ってきた。
 日本マット界で、有数のタッグ巧者と呼ばれる真琴とのタッグは、それこそ望むところだが、初代タッグ王者決定リーグ戦にエントリーと言うのは荷が勝ちすぎる。
「あと、愛美さんのリングネームなんですけど。ゲイシャガールってつけたいらしいんですけど、どうですか?」
 それを聞いた愛美はすかさず言った。
「それは、勘弁してください‥‥」
 海外の団体である。
 オリエンタル風と言うか、ちょっと首をかしげるようなリングネームをつけられるかもと覚悟はしていたが、さすがにゲイシャガールは芸がないし、情けない。
「ですよね、やっぱり」
 真琴のリングネームは、以前イギリスマットに上がっていたときに使用していた『クンフーレディMAKOTO』となると言う。
 愛美のリングネームも、日本でのデビュー当時に使用していた『命』を真琴に合わせて、アルファベットにした『MIKOTO』で、頭になにかつけたいと言うのが、団体側の希望だった。マスクは被らないらしいのだが。
 大会の宣伝のために、この場でリングネームだけは決めたいということで、ブライアンがさまざまな、いかにも外人が知ってそうな日本語っぽいリングネームのアイディアを出してくるが、どれもピンと来るものはなかった。
 フジヤマ、テンプラ、スキヤキ、サムライ、カブキ‥‥などなど。
 どこかで聞いたことのあるようなフレーズが次々とあげられる。
 最終的に、愛美のリングネームは『カミカゼ・MIKOTO』と決まった。
 いいかげん疲れてしまったというのもあるが、どうせオリエンタルギミックでリングに上がらなければならないのだから、それを利用してやればいい。
 それに、カミカゼならゲイシャガールやスキヤキに比べたらはるかにマシだ。
 とにもかくにもリングネームは決まった。団体側の売り出しテーマも理解した。あとは、リングで見せればいいだけのことだ。
 ブライアンと握手を交わし、BAWL事務所を後にする二人。
 練習場所は、BAWLジムをそのまま使えると言うことを確認し、帰路についた。

 BAWL事務所からの帰り道。
 2階建てバスに乗るために、真琴と愛美は大通りへと出た。
市内に出たついでに、シリーズを開催する試合会場を見に行くことにしたのだ。
 地下鉄のほうが早いのだが、やはり、ロンドンに来た以上、名物の2階建てバスには乗らなければ。
しかし、ここでも愛美は、日本とイギリスの違いに面食らうことになる。
 複雑怪奇な路線は当たり前なのだが、2階建てバスに乗るためのバス停が、ロンドン市内には無いのである。
 市内を周回しているバスの後部から、自分の行きたい方へ走っていくバスに、バスが速度を落とした瞬間に、ほとんど飛び乗りに近い状況で乗りこんでいく。
 真琴に続いて、危なっかしい足取りでなんとか後部ドアの手すりを掴むと、愛美はバスに乗り込んだ。空席を見つけた真琴に誘われて、2階に上がっていった。
 ロンドン一の人気者であるこのバス、2階に空席があることが珍しいのだが、窓際に座ることができた。
 窓を開けて、心地よい風に吹かれながら、風情ある街並みを眺めていると、曇天ではあるが自然と心がウキウキとしはじめる。
 見るもの、感じるものすべてが初体験で、初日から寝坊したことも忘れてしまう。
「‥‥なんていうか、ロンドンって全部がロマンチックですね、すごく」
 ニコニコと笑顔で愛美が言う。こんな感動、ずっと忘れていた気がする。
「そうですね。いい面も悪い面もそれぞれありますけど、ロンドンは良い街だとわたしも思います。日本も良い国ですけれど、イギリスはわたしに取ってのもうひとつの故郷でもありますし」
 それは、日本国内で生活しているだけでは、けっして感じられないことなのだろう。
 バスに乗ってから約10分。
 目的地に着いたふたりはバスから降りて、路地に入る。
 土地勘がまったく無いというのもあるが、真琴がすいすいと角を曲がり、細い路地に入っていくのは、もちろん信用しているが後をついていく愛美にとっては不安の元だ。
「ここでシリーズが開幕します」
 路地を抜けた先にある、小劇場のような会場を真琴が指差した。
 規模としては、日本で言うとディファ有明くらいか。
 イギリスマットの中では、かなり大きな会場らしい。
 普段は、演劇やライブハウスとして使用されるホールなのである。
「欧州マットでは1シリーズを基本的に、同じ会場で定期戦を組みますから。なので、試合がある日は、ここに、通いになります」
 中に入ることはできなかったが、真琴の話では、すり鉢上になっていない後楽園ホールと考えればいいと、教えてもらった。
 約2千人規模の会場と言うことだ。
 愛美は、会場の入り口を見つめながら、ふと、耳にリングの歓声が聞こえた気がした。
 ここが、生まれ変わった川部愛美のスタートライン。
 そう思うと、武者震いにも似た感覚を覚える。
 帰る前にどこかでお茶をしていきましょうか、と真琴に誘われて大通りの方へと戻っていくと、幾つかの店の前に長蛇の列ができていた。
 バーゲンでもあるのかな? と、愛美が思っていると、少し離れた路地の外れの列に真琴が並びはじめた。
 他の列に比べると短いが最後尾は店から少し離れている。
 何十年も経っているようなロマンティックな外観だが、その店は看板もなく、外から見ているだけではなんの店だかわからない。
 ぱっと見た印象で言うと、なにやらアンティークショップのような感じだ。
「あの‥‥天野さん。お茶にするんじゃ‥‥」
「ええ。お茶にしようと思って」
 噛み合っているようで、ものすごく噛み合っていない会話。どこか喫茶店で、ちょっと休憩でもするのかな、と思っていたのだがなにかが違う。
 ここでお茶? まるで、人気のラーメン屋の列に並んでいるかのような感じ、と愛美は思った。
 首を傾げている愛美に、真琴が説明してくれた。
「このお店は、観光ガイドとかには載ってない、ロンドンっ子ご用達のお店なんです。やっぱり午後のティータイムは、ゆっくりとしたいですから」
 午後のティータイム。それでやっと愛美はピンと来た。
 午後の優雅なティータイムは英国紳士、淑女のたしなみとしてガイドブックなどでも有名である。
 ロンドン名物の大時計の針が4時を指し、ビッグベンの鐘の音が響き渡ると、店内に案内される。
 落ち着いた店内。すぐに、テーブルの上にボーンチャイナ製の、見るからに高級そうなティーセットが用意された。
 白磁のポットから、湯気をたてるミルクティーをカップに注ぎ、真琴がホッと一息をついた。しかし、愛美のほうは、ついキョロキョロと店内を見回してしまい、なんとも落ち着かない。
「ここは、お気に入りのお店のひとつなんです。お茶も美味しいんですけど、サンドイッチとケーキがホントに美味しいお店なんですよ」
 すぐに、真琴たちのテーブルにも銀製の三段タワーが運ばれてきた。一番上と二段目にサンドイッチ、三段目にいろいろなケーキが並んでいる。
 サンドイッチはパンにバターとキュウリだけを挟んだものと、ハムだけを挟んだシンプルなものが2種類あって、とても美味しい。ケーキもチョコレートケーキにフルーツタルトなど種類も豊富にある。どれも程よい甘さで、いくつでも食べられる。
 無くなるとすぐ、タワーにサンドイッチとケーキをいくらでも補充してくれた。
 お茶も少し冷めると、まだたっぷりと残っていても、新しいものにポットごと取り替えてくれる。
 至れり尽せりのサービスも、イギリスでは当然のことなのだ。
 イギリスにおいて、午後のティータイムとは、お茶、お菓子の単品やセットを売るものではなく、午後のひとときを優雅に、最高のサービスで楽しむものなのだ。
「日本だとランチみたいなボリュームですね」
 美味しいなと、サンドイッチに舌鼓を打ちながら、愛美が言った。
「そうですね。けっこうわたしも、お昼を兼ねちゃうんです。スコーンも大きくてすごく美味しいですよ」
「そうなんですか。サンドイッチがこんなに美味しいのなら、イギリス料理ってすごく美味しいんでしょうね」
 愛美のその言葉に、真琴が一瞬、困った顔を見せた。
「え、と‥‥イギリス料理はあんまりお勧めできないですね。わたしは、慣れもあって、けっこう大丈夫なんですけど‥‥」
「はあ‥‥」
 後日、愛美は、トレーニング帰りに真琴と一緒に立ち寄ったレストランで、この真琴の言葉の意味を痛感することになる。

 イギリス料理はハッキリ言って日本人の口には合わない。
 日本人がイギリス料理を食べた場合、8割以上の人が味を感じないと言う。
 料理に調味料をほとんど使わないのが、その理由である。
 午後のお茶用の軽食やケーキはとても繊細で美味しいのだが、イギリス人に取って食事とはただのエネルギー補給の手段にしか過ぎない。なので、味や見栄えにあまりこだわることがないという。
 日本人は食事そのものに意味を持とうとするが、イギリス人は食事に栄養補給以外の意味を感じない。それが国民性なのである。
 イギリスで美味しいものを食べたかったら、フランス料理か中華料理、でなければインド料理店へ行くというのが、賢い観光客なのだ。
 愛美もせっかくイギリスに来たんだからと、あまりお勧めできないと言う真琴に無理を言って入ったイギリス家庭料理のレストランで、わずか三口で食事の手が止まってしまった。
 その帰り道、露店に立ち寄って、大きな白身魚のフライと皮付きフライドポテトのセットであるイギリスでポピュラーなファーストフード、フィッシュ&チップスを頬張ったのは言うまでもない。
 
 サンドイッチを摘みながら美味しいお茶をたしなむという、日本では経験できない優雅なティータイムを初体験し『イギリスって私に合ってるかも』と愛美は思った。
 日本に居るときは感じられなかった、ゆとりと至福感。
 こんな、ゆったりした時間を過ごしたのはいつ以来だろう。
 これまでの自分は、時計の秒針に追われる様に、ずっと駆け足でいた気がする。
 おしゃべりをするわけでもなく、お茶を飲みながらゆったりと過ごすだけの時間。
 この日より、ティータイムの名店を巡って、ぼーっと午後のひとときを過ごすのが、愛美の楽しみとなった。
 その後、真琴の案内でロンドン市内を時間の許す限り、観光して回った。
 シャーロック・ホームズの事務所があるベーカー街にも行った。
 実際にそこに下宿はなく、ビルの壁面にプレートがあるだけだった。
 ココが本当にそうなんだと言う嬉しさ反面、なんとも拍子抜けしたりしていた。
 家に戻ると、愛美の部屋の準備が整っていた。
 晩ご飯を食べた後で、真琴の部屋に置いていた旅行トランクを運び込む。
 日本で言う8畳間ほどの広さがある角部屋は、窓際にベッドが作り付けられた客間で、窓も大きく、明るい感じだった。
 カーペットが敷かれ、机とイスの他に小さなテーブルとクッションなど、小物なども用意されていた。
 エアコンもついていたが、小さな温風ヒーターも隅に置いてあった。
 トランクを開けて、服を引っ張りだし、作り付けのクローゼットにしまう。メイク用品や日本から持ってきた小物関係の整理を終えてから、お風呂に入って、ひと段落。
 ベッドに腰掛け、ふと、微笑を浮かべた。
 気がつけば、海を越えてイギリスまで来ていた。
 多分、自分や周囲が思っている以上に、愛美はプロレスが好きなのだろう。
 イギリス初日から、いろいろなことがあった。
 びっくりすることもあったし、初めてのこともたくさん経験した。
 気づかない内に、張り詰めていた気持ちが和らいでいた。
 肩肘を張っていても仕方ない。
 今日一日、真琴がそう教えてくれた気がした。
 明日から、一人でやらなければならないのだ。
 真琴もいろいろアドバイスをくれるだろう、協力もしてくれるだろう。
 だが、川部愛美というプロレスラーがイギリスマットに足跡を刻むのは、自分の力だけでやらなければならないことなのだ。
 明日こそは、ちゃんと起きて真琴と一緒にランニングに行こう。
 そう心に誓って、愛美はベッドにもぐりこんだ。
 シンと静まった夜。
 愛美はすぐに、規則正しい寝息を立て始めていた‥‥。
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