すもももももももものうち

棗颯介

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すもももももももものうち

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 「見ないふり」というのはとても大切なことだ。
 思うに人が社会で集団生活を送るために最も必要なものは社交性だが、社交性というのはとどのつまり自分の身を守る処世術だ。それをより具体的に言ったものが「見ないふり」なのではなかろうか。子供がクラスのいじめを見て見ぬふりをするのも、自分の身に面倒と実害が及ばないためだろう。
 どうしてか私は今まで、子供でも備えているであろうこの「見ないふり」という処世術が苦手だった。他の子どもと同じ教育を受け、何不自由なく育ってきたにもかかわらず。
 だから、目の前に“それ”が現れたときも、私は見過ごすことができなかった。同じ失敗を既に重ねていたにもかかわらず。明日以降の予定も白紙だったのに。

「だ、大丈夫ですか!?」

 桃の木というと幹や枝は割と細い印象があったが、目の前にあったその木は突然変異種のように太く逞しい。人一人がよじ登って腰かけても折れないと思えるほどに。
 だから、首を吊るにも都合が良かったのだろう。そこには線の細い少年が縄で自分の首を木の枝を結び付けて静かに目を伏せていた。一体いつからそこでそうしていたのかは分からないが、もしかしたらまだ助かるかもしれない。そう考えて私は急いで彼を地面に下ろそうと四苦八苦していたのだが。

「———やっぱり、ダメか」
「え?」
 
 目前で力なく瞑目していたはずの双眸がゆっくりと開かれた。まだ息があったにしては、その声は紐で喉が圧迫されているとは思えないほど良く通っている。

「おや、お客さんですか?珍しい」

 私を捉えたその視線は、自殺未遂者とは思えないほど慈愛に満ちていた。

***

 町外れにある、既に廃墟と化したその日本家屋は、私が子供の頃から既に空き家だった。空き家と心霊的なものを連想させるのは人の悪癖というべきかもしれないが、そこについては古い時代から続く“曰く”があった。

『百年前、屋敷に住んでいた夫婦が当時あった村の住人を皆殺しにした』

 そんな大事件があったのならどうして犯人の家が今も取り壊されずに残っているのかと問いたくなるが、ともかくその屋敷は大人になった今も厳然としてそこに在る。それだけは確かな真実であり現実だった。
 そんな曰く付きの土地を私が“自殺場所”に選んだのは、単純に人目につきにくい場所だと思ったからで、子供の頃にクラスメイトたちが盛り上がっていた怪談話なんてとっくに忘却の彼方に追いやられていた。なのに。

 ———なんで、死にに来たはずが人命救助してるんだろう私。

「すみません、大したおもてなしもできず。人様に出せるものといえばこれくらいしかこの家にはないもので」
「いえ、お構いなく」

 ———どうして廃墟に人が住みついてて、桃なんか振舞われてるんだろう私。

 廃墟と化し、雨風にさらされて腐りかけている屋敷の庭に面した縁側で私はカットされた桃をつまんでいた。
 縁側からも見える、庭先に生えている一際大きな木で先程まで首を吊っていたこの少年。どういうわけか死に至るどころか後遺症の素振りも見せない謎の少年のもてなしを受けているこの状況を、私は正常に把握することができずにいた。

「そういえば、まだ自己紹介がまだでしたね。僕は桃太郎ももたろうといいます」
「え?桃太郎?」
「あはは。昔話の桃太郎と同じで、なんだかお恥ずかしい限りで」
「あぁいえ、別にそういうわけでは」

 桃太郎という直球過ぎる名前もそうだが、それ以上に桃太郎と名乗る少年に桃を振舞われているというこの状況が、なんだか可笑しくなったのだ。しかも目の前にいる少年は昔話に出てくる桃太郎のイメージからは程遠い、線が細くて柔和な笑みを浮かべている。
 それに。

「私は、仲村寿桃なかむらすももっていいます」
「奇遇ですね、貴方も“桃”の名前ですか。でも、確かすももって厳密には桃の仲間ではないんでしたっけ?」
「えぇ、確かサクランボの一種だったはずです」

 こういう名前のせいで、子供の頃から同じような質問を受けてきたのでもう慣れっこだ。「すもももももももものうち」なんて早口言葉があるが、あれは言葉の響きだけでああいう文章になっているだけで意味的にはまったくの的外れ。知らない人がいたら覚えておいてほしい。

「それで、寿桃さんはこんな辺鄙な場所までどんなご用ですか?」
「えっ?あ、えっと………」

 自殺のためにここに来た。
 そう口に出すのは簡単だったが、つい先ほどの桃太郎の姿が頭をよぎり、素直に言ってよいものか憚られる。というか、ついさっき自殺しようとしていた男の子に事情を聞かれるというこの状況は一体何なのだ。
 どう返答すべきか逡巡していると、桃太郎は僅かに目を細めて口を開いた。

「貴方も、ここに死にに来たんですね」
「えっ?」

 ずばり図星を突かれ、私はさらに思考がスローになってしまう。しかしそれを桃太郎は肯定と受け取ったらしい。

「そういう人、ちょくちょく来るんです。悪いことは言いませんから、おやめください」
「その……人が住んでるとも知らずにすみません」
「いえ、別にこの家に立ち入ったことを咎めているわけではないんです。自ら命を断とうとする行為について言っているんですよ」
「………」
「もし差し支えなければ、何があったか聞かせてくれませんか?僕も少し、人恋しく思ってたところもあるので」

 そう言って桃太郎は笑う。出会ったばかりだというのに、見るからに歳下だというのに、その言葉と立ち居振る舞いには言いようのない余裕と達観が感じられた。先程の首つりの件といい、少なくとも普通の相手ではないことは理解できる。納得しているかはまた別だが。

「———私、三ヵ月前に勤めていた会社を辞めたんです」
「クビになったとか?」
「いえ、私の方から辞めたんですけど、勤めていた会社が不正をしていたんです」
「ほう」
「私、昔からそういうのを見過ごすのが下手で。黙っていることもできなくて、役場とか警察に相談したんです。相談というか、密告みたいなものですけど」
「それで?」
「会社の不正が世間にバレて、いろいろ、荒れました。偉い人は責任取って辞めるし、取引先からクレームとか来るし。でもそれ以上に辛かったのは、不正を知らなかった何も悪くない人たちの生活も立ち行かなくなってしまって。それも大勢」
「それは、仕方ないとしか」
「そう私も思おうとしました。どう考えたって不正を働くことの方が良くないんだって。それで現状が変わったとしてもそれは仕方のないことなんだって。でも……」

 ———お前のせいでこんなことになったんだ。
 ———どうしてそんなことしちゃうかなぁ。
 ———知らないふりしてればみんな幸せでいられたのに。
 ———もうすぐ子供ができるのにどうしてくれるんだ。
 ———あんたが皆を不幸にしたのよ。

 思い出すのは、数えきれない人から向けられる冷え切った視線と、理不尽としか思えない罵詈雑言の数々。そんな環境でこれからも働き続けるなんてとてもじゃないが無理だった。
 口にするだけで当時の記憶と恐怖が呼び起こされそうで、私は言葉を詰まらせる。だがそこまでの話だけで桃太郎は多くを察してくれたようだった。

「寿桃さんは、自分がしたことは正しいと思っていますか?」
「………分からないんです。最初は、正しいと信じていたのに」
「———僕は、ずっとこの家にいるので世の中のことはあまりよく分かりませんが、少なくとも寿桃さんがやったことは正しいことだと思いますよ」
「………ありがとうございます」
「でも、寿桃さん自身は納得できていないようですね」
「納得できていたら、きっと今日ここには来ていませんから」
「そうですね。会ったばかりの人にこんな偉そうなことを言うのも恐縮なんですが」

 桃太郎は縁側から立ち上がり、一歩庭先に歩を進めてこちらを振り返った。

「貴方のしたことが正しかったのかは、少なくとも死んでしまっては証明できない。もし被害を被った人たちが後になって貴方の正しさを理解したとしたら、今貴方が死ぬのは“死に損”だと思いませんか?」
「………」
「それに、死ぬのはいつでも簡単にできます。僕と違って」
「違って?」
「そう、僕が普通の人とは違うことには、既に気付いてらっしゃるでしょう?」

 木に首を吊っても死なない異常性。外見とは不釣り合いな雰囲気と言動。

「君は、いえ、貴方は何者なの?」
「少し、昔話をしましょうか。昔、具体的に言うと百年ほど前、ここら一帯にのどかな農村がありました」

 百年前、というワードが耳に飛び込んできたとき、私は子供の頃にそういう話を聞いた覚えがあると気づいた。

「村で一番大きな屋敷には当時の村の地主夫婦が住んでいて、二人は村人と一緒に桃の栽培をしながら何不自由なく、仲睦まじく暮らしていた」
「ある時、地主夫婦が子供を授かりました。なかなか子供ができなかった二人はたいそう喜んで、仕事で栽培していた桃とおとぎ話になぞらえて、生まれてきた男の子の赤ん坊に“桃太郎”と名付けたんです」

 桃太郎。きっとそれは目の前にいる彼のことだ。
 そして百年前といえば、確か—――。

「でも、生まれてきた赤ん坊は、普通の子供よりも明らかに弱く、そして多くのものが欠けていた」
「たとえば、目。鼻。髪。手足。本来備わっているはずのもののほとんどが生まれてきたときから失われていた“それ”は、もはや人ではなく肉の塊にも近かったそうです。かろうじて心臓の鼓動だけがあった“それ”を、両親はひどく不憫に思いました。どんな姿をしていても、“それ”は自分達の子供であることには違いなかったのです」
「その地主の屋敷の庭に、村で一番大きな桃の木がありました。ご先祖の代からすでにそこに在ったというその木にはある言い伝えがあった。“供物を捧げよ、さすれば神は応えん”と」

 桃太郎の視線は、先程彼が首を吊っていたあの大きな桃の木に向いていた。

「藁にもすがる思いだった二人は、雇っていた一人の使用人を手にかけてしまいました。そしてその遺体を木の下に埋めたのです。確証もないし理屈も道理もありませんでした。既に二人は我が子を救うという妄執に取り憑かれていたのです」
「すると翌日、その木の枝に季節外れの桃の実が生っていたそうです。二人は神が願いを聞き届けたと思い、急いでその実を息子に食べさせました。するとどうでしょう。それまで空洞だった息子の右目に、眼球が現れたではありませんか」
「でも起きた奇跡はそれだけ。明日にも死んでしまいそうな息子を生かすには、とてもではないが足りませんでした」

 そこから先は、言われなくても想像がついた。
 子供の頃に聞いていた“噂”の通りなら。きっと二人は。

「二人は狂気に駆られ、村人を次々と惨殺していった。そしてその骸を木の下に埋め、翌日生った桃の実を摺って何度となく息子に食べさせた。息子に両の目が宿り、鼻が生え、髪が伸び、両手両足が揃っても。気付けば村には息子以外誰も残っていなかった。村人を殺めた両親も、その木に首を吊って命を絶っていたのです。罪のない人々を殺めてしまった後悔ゆえか、それとも哀れな息子のためを思ってか」
「そうして生かされた息子———僕は、今も一人で生き続けている。数えきれない人たちの命を貰ってしまった僕は、どれだけ自分を痛めつけても死ぬことができなかった。百年も生きているのに老いもなかなか訪れない。寝食も必要ないし、世間の人と交わることもできない」

 桃太郎は件の桃の木に歩み寄り、枝の一つを優しく撫でた。

「“生きたくても生きられない人もいる。だから命を粗末にするな”、なんてよく言いますが、死にたくても死ねない人もいるんです」
「その論理だと、死にたくて死ねるのは幸福だから命は粗末にしてもいい、みたいな結論になりそうですけど?」
「そうですね。死にたくなったときに死ねる自由があるのは幸福なことです。僕から言わせれば」

 でも、と桃太郎は言った。

「どうしてでしょうね。自分で命を捨てるような真似をしてる人、をすることもできないんです」
「………」
「どうしたって死ねないのなら、きっと自分が生きていることには何か意味がある。そんな安い気休めでもそう思いこまなきゃ、生きてられないんですよ」
「私のほかにも、そういう人がよく来るって言ってましたよね」
「えぇ。百年前の事件がそうさせたのか、どうもそういう人たちを呼び寄せてしまう良くない気の流れみたいなものがあるみたいで。僕はここで百年前死んでいった方達の供養をしながら、時々死にに来る人たちに説教臭いこと言って追い返すのを生きがいにしてるんです。僕がここに居て目を光らせないと、それだけで大勢の人がここで命を絶ってしまうでしょうから」

 死にたくても死ねず、不本意に生かされ、犠牲になった人たちの怨嗟を感じながら一人でここで生き続けている。それはどんな気分なのだろう。そういうのを“生き地獄”とでも形容するのだろうか。
 他人の不幸と自分の不幸は比較するようなものでもないし、今日出会ったばかりの彼がどんな苦労と生い立ちを抱えていようが自分には無関係だ。このまま彼の言葉を無視して首を吊るなり、そうでなくてもこの屋敷を出た後に別の場所で別の方法で命を絶つことだって簡単にできる。
 でも。

 ———桃太郎くんはああ言ってたけど、「見ないふり」ができないのって本当に、損しかないなぁ。

「分かった。今日は帰ります」
「それは良かった」
「だから明日また死にに来ます。ここに」
「え?」
「ほら、帰って一晩寝たらまた死にたくなってるかもしれないでしょう?私、仕事もなくて実家で暇してるだけだし」

 安い気休めかもしれないが、私が生きていることに意味があって、たとえばそれは、“一人ぼっちの男の子と一緒にいてあげること”なのかもしれない。そうでも思いこまなければ生きていられない。
 桃太郎は先程までの余裕のある態度が崩れ、外見相応の子供らしい驚嘆が顔に出ていた。だが、すぐに元の柔和な笑顔を取り戻し、ゆっくりと頷いた。

「じゃあ、また桃を切ってお待ちしていますね」
「そういえば、いただいたあの桃って—――」

 さっき聴いた話では、庭にあるあの桃の木に生った桃の実を食べて桃太郎が死ねない身体になったと言っていたが、もしかして。
 しかし、私のそんな不安を桃太郎は優しく否定する。

「あぁ、さっきお出ししたのは違いますよ。あれはどこにでもある普通の桃です」
「安心しました」

 そういえば、と私は彼に尋ねた。

「すもも、お好きですか?」
「食べたことがないのでなんとも」
「じゃあ、明日持ってきます」

 「すもももももももものうち」なんて間違った言葉があるが、彼と私に関しては、少なくともそう遠くないところにいる気がする。
 その事実が少しだけ、私に明日を生きる勇気をくれた。
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