夏夜の涼風に想い凪ぐ

叶けい

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4.大切に想うからこそ言えない事

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―貴之―
何度見ても結果が変わらないのは分かっているが、一度消した検査結果画面を再び表示しては凝視してしまう。
「…先生。患者様お呼びしますが」
控えめに声をかけてくる看護師の声に、はっとなって顔を上げた。
「すみません、入れてください」
「はい」
診察室の戸を開け、待合室に向かって名前呼ぶ声を聞きながらため息が出る。無意識に左手が伸びるが、いつも置かれているコーヒーのマグカップがそこに無いのに気付いて手を引っ込めた。今日の外来担当は片倉じゃなく、ベテランの主任看護師なので仕方ない。さすがに年上の看護師に向かってコーヒーを淹れてくれとは言いづらい。
「お願いしまーす」
いつも通り軽い調子で診察室に入ってきた桃瀬の顔を見る。
「体調は」
「変わりなし。何、結果悪かった?」
桃瀬の視線が、デスクに広げた採血結果の用紙に向く。
「はっきり言うけど、お前の検査結果が良かったことなんて一度も無い」
「だろうねー、薬で症状押さえてるだけだもんな」
どこか他人事のような言い方に苛立ちながら、検査結果を見せて状況を説明する。
神妙な顔で聞いていた桃瀬は、俺の説明が終わると、「で?」と言いながらこちらを見た。
「どうしたら良いの」
「どうもこうも、前からずっと言ってるよな」
「手術受けろって?」
頷くと、珍しくため息が返ってきた。
「…そうだね。このまま放っておいたら良くないのかも」
「手術受ける気になったか」
聞くと、桃瀬は上目遣いに俺を見てかぶりを振った。
「今は無理」
「今はって何だ。いつも同じこと言ってるだろ、お前」
「そうじゃないんだけど、ちょっとね」
濁す桃瀬に、思わず言った。
「あいつの事か」
「へ?」
「結局別れてないんだろ、あのボンボンと。柳雅孝やなぎまさたか、だったか?」
名前を出すと、桃瀬の表情が強張った。
「違うって。雅孝とは、別に何も…」
「この間、病院まで迎えに来ていたらしいじゃないか」
片倉から聞いたことをつい言ってしまう。
「それは、あいつが勝手に来ただけで。俺が呼んだ訳じゃないよ」
「へえ。別れた割には、向こうは未練たらたらじゃないか」
「…あのさ、やめない?ここでそんな話」
桃瀬の声が小さくなる。ここが診察室だということを思い出し、わざとらしい咳払いでごまかした。
「…とにかく、これ以上何もしないでいたら、いつか倒れるぞ」
検査結果の用紙を手元に引き寄せる。時系列を確認しても、明らかに数値が悪化の一途を辿っている。薬だけでは、どうにもならないのだ。
「せめて仕事休むとかできないのか」
「適当に休みながらやってるから平気だよ。そんな激務じゃないし」
「桃瀬…」
「大丈夫。自分の体の事は、自分が一番よく分かってるから」
そう言って笑う桃瀬に、それ以上強く言えなかった。

―瑠維―
PHSにかけても出ないのはいつも通りの事だけど、さすがにいつもの自室…じゃなく、旧医局にまで姿が無いとは思わなかった。
「おかしいな…」
今日は夜勤明けでもないし、外来が終わったら体は空いているはずなのに。
ここへ来る前に外科医局も覗いたけれど当然のようにいなかったから、間違いなくここだと思ったのだけれど。
何気なく部屋の中を見渡し、ふと気が付く。インスタントコーヒーの瓶の横にいつも放ってある、タバコの箱が無い。
「…ああ、あそこか」
居場所が思い当たり、僕は部屋を出た。

病院の裏庭に、壊れそうなベンチとイチョウの木が立っている場所がある。
背もたれの部分が割れたベンチに浅く腰掛け、紫煙を燻らす後ろ姿に声をかけた。
「勤務中ですよ、先生。何してるんですか」
俺の声に気づいた世良先生が、ゆっくりこちらを向く。
「何だよ、こんな所まで追いかけてきて」
「確認したい事があったんです。どうしてPHS出ないんですか」
胸ポケットからPHSを出した世良先生は、画面を見て「あ、切れてたわ」と悪びれる様子も無く言った。
「もう。緊急の呼び出しがあったらどうするんですか!」
「俺がいなきゃ困る事なんか、そんな無いだろ」
いつになくやさぐれた世良先生の様子が気にかかり、どうしたんですかと思わず聞いた。
「何かあったんですか?」
「んー?」
「もしかして、桃瀬さんのことですか?」
名前を出すと、黒縁眼鏡の奥の瞳が揺れた。
「今日、診察日でしたよね」
「よく知ってんな」
「…良く、なかったんですよね。検査結果」
今日は外来の担当日じゃなかったけれど、桃瀬さんの事は気になったから、検査結果をこっそり見ていた。
医者じゃないから詳しいことは分からなかったけれど、前回と比べたら明らかに状態が悪い事だけは分かってしまった。
世良先生は、ほとんど先が無くなったタバコを携帯灰皿に押し付けると、また胸ポケットから新しいのを出して火をつけた。
「先生、吸い過ぎですって」
「…無力だよな」
「え?」
ため息とともに吐き出された白い煙が、夕暮れの空気の中へ消えていく。
「嫌だって言われたら、治療を押し付けるわけにはいかない。だけど素直に手術受けるって言われても、正直どうなるか分からないから俺も怖い。…俺があいつにしてやれる事なんか、何もない」
ぼろぼろのベンチが、世良先生の体の重みで鈍く軋む。
「何で医者になんかなったんだろうって、時々思う。何も知らないでいた方が良かったんじゃないかって。あいつがどんなに悪い状態かも、治療に限界がある事も、全部分かっちまうからさ」
「…」
「あ、ごめんな。愚痴言って」
何も言わない僕を見て、世良先生は無理に笑いかけてくる。
「…さ、てと。戻るかー」
吸いかけのタバコを灰皿に押し付け、立ち上がって伸びをした世良先生に近づく。
「…無力なんかじゃないです」
「え?」
桃瀬さんの事を思い出し、必死で言葉を繋ぐ。
「世良先生が医者になったのは、桃瀬さんを助けたかったからなんでしょう?なのに、先生が諦めてどうするんですか。無力だなんて言ってどうするんですか…!」
「片倉…?」
「…先生、信じましょうよ。きっと、桃瀬さんは手術受ける気になってくれるって。手術、成功するって。だから…」
あ、どうしよう。
鼻の奥が、つん、と痛い。
泣きそうになって慌てて俯いたら、ふと、優しく頭に手が置かれた。
「何でお前が泣くんだよ」
顔を上げたら、ちょっとだけ背伸びした世良先生と目が合った。
「…っ、だって、いっつも傲岸不遜で、自信満々で、何でも適当な世良先生が」
「おい」
「泣きそうな顔するからじゃないですか…!」
必死で耐えていた涙が、頬を一筋伝っていく。
風が吹いて、髪がなびいた。僕の頭に載せられていた世良先生の手が下りて、細い指先が頬の涙を拭ってくれる。
「…桃瀬が、時々言うんだ」
掠れた声が、木々のざわめきにかき消されそうになりながら、僕の耳に届く。
「『永遠に続くものなんかない。どんなものにも限りがあるから美しく感じられるんだ』って」
僕の涙でぬれた指先が、握りしめられる。
「…だけど、俺はそこまで達観できねえよ。生きていてほしいって、思うんだよ」
言えないけどな、と、ほとんど息だけで呟く。
「俺は、どうにもしてやれない。ただ、あいつの気が済むようにしてやるくらいしか…」
「先生…」
僕より頭一つ分くらい小さい先生を、抱き締めたくなった。
―と思ったら急に、ちょっと強めに頭をはたかれた。
「いった!」
「ったく、何言わせるんだよ」
「何ではたくんですか!」
「いいから戻るぞ。何か俺に用事あったんじゃなかったのか」
「はっ!そうでした!先生、入院中の…」
「はいはい、戻ってからゆっくり聞いてやるよ」
すっかりいつもの調子に戻って、あくびなんかしながら歩いて行く世良先生の背中を慌てて追いかける。

…先生。
ちょっとだけ弱音吐いてくれたの、嬉しかったです。
僕じゃだめですか。僕じゃ、先生の支えになれませんか。先生の弱い所、受け止めてあげられませんか。
僕は、世良先生が―すきなんです。

「…っ待ってください、世良先生!」
心の中で呟いてしまった本音をかき消すように、やたら早足で歩く世良先生の背中に向かって呼びかけた。
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