神仏混淆と源平の争い

桜小径

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神仏混淆と平氏

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大河ドラマ「平清盛」でも、比叡山の僧侶が神輿をつかって強訴しますよね。

これは僧侶は「社」と「社」の権利、権力または付属物を自由に使えるという立場であることを表しています。

また清盛や後白河が良くお参りする熊野は、熊野権現とよばれ、これも神仏が一体となった神です。平安期の熊野三山は薬師如来、阿弥陀如来、千手観音が祭祀される混交寺院、そしてお山全体が神域となっています。

ドラマでは触れられていませんが、熊野別当というのが熊野一帯の宗教的支配者であり漁業、航海、軍事までも含めた熊野地域の指導者という立場なのですが、熊野別当が平治の乱のおいて清盛に味方したことが平治の乱までの動きや政局に軍事において平家を有利にしたといわれています。

彼ら熊野の勢力は後に、平家優位とされた海戦で義経の采配を支えたとも言われています。

平家納経は法華経が中心の経典でありその主な内容は観世音菩薩への信仰を表すものとされ、観音経ともいいます。

厳島には現在、宗像三女神が祀られています。その中の一柱がイチキシマヒメといいますが、この神名が厳島の名前と通じていますよね。

イチキシマは、弁才天との習合でも有名ですが、弁才天は菩薩信仰の一形態とも認識されていますので、広い意味では、菩薩>観音菩薩>イチキシマ>厳島という連想が想像され、それらは本来同一の神仏の別形態、別名称であるという考えが成立するのもうなづけます。

また観世音菩薩の仏像は女神形態ですので、三女神とも通じます。

清盛が後白河院に寄進した蓮華王院には千手観音が祭られており、後白河院の熊野への信仰と繋がっています。後白河院や清盛は記紀の神と仏教を二つ信仰したのではなく、観音菩薩を窓口に信仰心を高めて行ったと思われます。法華経は密教において重要な経典であり、密教において千手観音菩薩は蓮華王という神名ですから比叡山や高野山とも信仰的につながっていきます。

平家が寄進した三十三間堂、平家納経三十三巻、西国で広がる三十三箇所巡りなど三という数詞もキーワードです。

怨霊対策の基本は陰陽寮がつかさどりますが、仏教の方がより強力な神として認識され、それまでの「陰陽によって災いを避ける」から「密教的な加持祈祷によって神仏の加護をうけ魔や災を調伏」するという方向へと進みます。もちろん仏だけでなく、日本の神々もそれに対応して、神格が変化していき、「魔を避けるための神」から「魔を滅する神」「ご利益を下す神」へと認識が変化していきます。

平宗盛は、その行動の全てを陰陽師に諮ってから決めたといわれ、その決断の仕方が源氏とくに源義経との差になったといわれている人物です。彼の行動、決断というは平安末期の貴族の宗教観を端的に表しているのではないかとも思えます。

「この世をば」で有名な藤原道長の最期は、仏法に囲まれて病気平癒を願いながら、読経を聞きつつ亡くなったという話も伝わっているように平安中期までには仏教が皇族、貴族の信仰対象でした。

熱心な仏教徒であった後白河院や清盛が怨霊をそれまでの貴族のように恐れなかったというか大きく扱わなかったのは「自分には神仏の加護がある」と信じていたからなのかもしれません。

またドラマではここまで、「社家」という立場で平安末期の政治に関与したものを出していませんが、史実的にも極少ない状態です。

義朝の妻、由良の父が上西門院の配下の中級の貴族として熱田大宮司の立場を得て、頼朝の出世を支えたという以外、出てくる勢力は「仏教」ばかりです。ちなみに熱田は古代史的にも有名な草薙の剣が祭られているとされる社です。
無神論者と誤解されている織田信長も熱田への寄進はしています。それと同時に信長は家臣のために寺院も建立していますので、彼も決して無神論者でなく当時の神仏習合の世界の住人です。

古代からずっと、尾張氏と呼ばれる古代豪族で「古代の関が原合戦」と呼ばれる「壬申の乱」で天武天皇の勝利に貢献したという氏族の末裔が熱田社の宮司の座を世襲してきましたが、平安末期より藤原氏の一族の権益となります。由良の母系は尾張氏なので争いの末ということではなかったようですが。。。上西院が有力なスポンサーとして熱田の社についたということなのかもしれません。

この背景にも仏教優位の当時の朝廷の思惑も絡んでいるのかもしれません。

で、どうしても国教的立場にたった寺院が時代が下るにつれ優勢となっていきます。神社という呼び方は明治期に決められたもので、それまでは「社」または「宮」というのが神社の一般的な呼び名となります。厳島も『宮島』とよびますよね。

上記のように、日本の神々は一旦、仏教の神々の化身として、主に仏神としての側面を中心に祭祀され、神格の変化、追加、さらには先祖がえりが行われていくこととなります。

また、平家関連では2013年に三ッ山大祭を行う播磨国総社(はりまくにそうしゃ)の根本を作ったのが平清盛の跡継ぎの平宗盛であるとされています。播磨国内の大小の明神174社の祭祀を一旦統合させました。これはもともとあった射盾兵主社にその他の明神を集めたということで、祭式の簡略化が目的だったのではないかと思います。

これらは貴族の祭祀としても仏教が優位であったからではないかと私は思っています。

また、鎌倉や室町、江戸と続く武家政権の主催者たちは「ホムタワケノ天皇」と祈らず、「南無八幡大菩薩」と祈るように神と仏が同一視すると同時に、仏教寺院の組織を利用して民間祭祀をコントロールしようとする意識をもつようになります。

武家政権時代には神社は民間、お寺は公儀みたいな住み分けもあったのではないかと思われます。小さな神社では当屋制度という、氏子で神職的な仕事を持ち回りする風習もあります。

仏教が中心の「社」「宮」には別当寺が当てられ、それらの管理を寺院が行うようになります。

神が祭祀の中心的存在の「社」には神宮寺が置かれ、政府との交渉、民間布教などを寺院の社僧が担当するようになります。神宮寺は特別大きな祭祀権を持つ「社」「宮」に付属した寺院の呼び名となります。

また江戸期には、熱田神社、鹿島神宮、神田神社と呼ばず、熱田大明神、鹿島大明神、神田明神とよびます。
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