辺境伯と幼妻の秘め事

睡眠不足

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戻らない

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「ニック、おはよう」
「おはよう、ジリー」

 願っていた通りニコラスの腕に抱かれて目覚める毎日。そうなってからというもの、ジュリアは以前より安心して眠るようになった。

 叶わないどころか、全く女性として意識してくれていない片想いの相手。それに加え、断ってもジュリアの意向を無視して迫る求婚者たち。
 思い悩んでいた日々が遠い過去のように思える。実際は、ほんの数日前まではそうだったのに。



 強引に迫る訳ではなくとも、何度も断っているのに聞く耳を持たない相手に疲れるのは無理もない。しかもそれが自分にとっては苦手な相手であるのなら尚更。
 おまけにジュリアの想いに気付いた者の中には、叶わない思慕に振り回されて時間を無駄に費やすより、想ってくれる相手と結ばれる方が幸せだなどと余計なことまで言うのもいた。その言葉をそっくり返さなかった自分を褒めてやりたいとジュリアが思うのも無理はない。


 想いが通じない辛さはジュリアもよく知っている。
 法律上は正式な妻なのに、辺境伯夫人の部屋に足を踏み入れたことのない自分。夫婦の語らいへの恐れはあるけれど、独り寝の寂しさに彼女が枕を濡らした夜は数えきれない。

 ニコラスに抱きつけば必ず抱きしめてくれて、頬に口付けたら額に返してくれる。成人してしばらくするとやめさせられたが、以前は膝に乗っても許してくれた。
 彼が自分を大切に思って、誰からも、何からも絶対に守ってくれるのはジュリアも分かっている。
 だけど決して親愛の情以外のものを受け取る気はないことも分かっていた。彼女が一歩踏み出そうとしたらすぐに察し、可愛い娘の船出が楽しみだと言われ、心を折られるのがもはや恒例行事となってしまっていた程だ。

 そのことも相まって、求婚者たちに想いを返せないどころか、恐怖すら覚えてしまうことが申し訳ないとも思う。
 だけど勝手にこちらの幸せを決め付けないでほしい。
 そもそも一緒にいて精神的な苦痛を感じる相手と結ばれて、自分が本当に幸せになれると思っているのかと問い質したい思いもある。


 そんな毎日に加え、思い出したくもない幼少期からの辛い記憶が苛み、悪夢に魘されることも多かった。
 侍女たちを下がらせている夜に、独り静かに泣きながら眠るジュリアを起こし、悪夢から連れ出してくれるのはいつもニコラスだ。
 どんなに小さな泣き声だろうと、いや、むしろ声など立てていなくとも、必ず気付き寄り添ってくれる。
 不思議な程にジュリアの些細な変化を見逃さず、優しく見守ってくれる彼に惹かれずにいられる筈がない。

 ジュリアが思い返すと、ずっと前からそうだった。


 嫁いで一月が経った頃、まだ殆ど顔を合わせていないニコラスの声で目覚めたことがある。だけど不思議と姿は見えない。
 どうも扉越しに声をかけているらしいのだが、張り上げるどころか囁くような声なのに、なぜか近く聞こえる。
 魘されている様子だけれど、侍女たちを起こすと、君は気に病むような気がしたから。そう言われて驚いた。
 確かにジュリアは、いつも気遣ってくれる彼女たちを煩わせないように心がけている。交流なんて皆無と言っても過言ではないのに、それに気付くとは思わなかった。

 だからと言って自分が部屋に入ると怖いだろうから、こうして声だけを届けて起こしたと聞き、抗いがたい好奇心が込み上げる。
 気付いた時には思わず扉を開けていた。
 普段なら考えられないことだが、初めて会った時から、彼の声には不思議と心が落ち着くような気がしていた。だから声だけを聞いているうちに、もっと近くで聞きたくなってしまったのだ。

 逃げ出したい衝動を抑えて見上げ、驚いた顔で見下ろす彼を直視した瞬間、ジュリアも驚愕に固まった。

「大丈夫か?! 無理しなくても良いのに」
「違う……違います。貴方がニコラス・ワイルド辺境伯閣下なのですか?」

 そう質問しながらも、声は確かに何度も聞いた相手のものだ。
 男性恐怖症のジュリアは至近距離では相手の顔をまともに見られない代わりに、声で識別している。間違える筈もない。
 それでも信じられない程に彼は若かった。
 年齢は父の四つ年下だと聞いている。だけど、むしろ義兄に近い年齢に見えた。それでも声には深みがあり、大人のものだ。それに若い男性にはない年輪を感じさせる佇まいは、彼が背負い守ってきたものの大きさを感じさせた。
 この人が最強の辺境伯だと聞いても素直に頷ける。

「そう。君を守る光栄な役目を引き受けた、君の保護者だ」

 優しく微笑みながらそっと膝を折り、その左胸に右手を当てる姿に思わず見蕩れる。なんて流麗な所作なのだろうと。

「保護者……? 夫ではないのですか?」

 そのようなことを言われたけれど信じてはいなかった。そんな希望に縋って、それを翻されたら立ち直れない。
 だけど一月経ってもまだ自分に指一本触れようとしない彼なら、信じても大丈夫なのかもしれない。

「既に何度か伝えたが、俺は君を妻として受け入れたのではない。ただ、君に安全で安心できる居場所を与えたかっただけなんだ。
 だから君の部屋も、かつて俺の妹が使用していたものだよ。決して辺境伯夫人の部屋を使わせるつもりはないから安心してほしい。
 ここは例えるなら、一時的な避難所だ。君が大人になって、好きな人に出会えた時に、ここから旅立てるように何ものからも守ってみせるよ」

 膝を折ったまま笑いながらそう伝える彼に、どれ程の安堵を覚えたことか。それすらも自分では分かっていなかった。
 その時から一貫した彼の保護者としての姿勢に、どんなに苦しめられることになるか。そんな未来は想像もつかなかった。
 その時、ジュリアはただニコラスに頷くだけで精一杯だったのだから。





 好みのお茶を一口含み微笑みを浮かべる。そしてあの時からこれまでの日々を振り返り、ジュリアは今の幸せを噛みしめた。
 それから心配そうに自分を見つめる美しい人を見つめ返して宣言する。

「あの頃には戻れないのではなく、『戻らない』のです。お姉様」

 しっかりと自分の人生を見据えて決めたこと。決して大人の殿方への一時的な憧れなんて生易しい感情で動いた訳ではない。
 この先にどんな困難が待ち受けようとも、この選択を悔やむことはないと言いきれる。

「そう。分かってはいたけど、それを聞いて安心したわ。晴れて想いが通じたものの、思っていたのとは違うと落ち込んでいないか心配になったの。
 余計な気を回してごめんなさいね」
「私を気遣って下さるお姉様に、余計だなんて思う筈がありませんわ。
 それに、思っていたのと違うのは事実ですもの」

 そう言い顔を赤らめる妹の幸せそうな様子に頬を緩めるキャロル夫人。彼女は、その直後に落とされた爆弾に精神を削られることになるとは思ってもみなかった。



「性交渉って、話に聞いていたのとは全く違いましたの」
「あの、ジュリア、語らいと言った方が良いのでは? それが無理ならせめて閨事とか艶事と言った方が」

 以前から妹の言い回しは慎みがなさ過ぎて困る。そんな表現ばかりでは、興醒めとなる殿方もいるだろう。
 何より陽光が煌めくガゼボに似つかわしくない話題ではないだろうか。
 それにしても、辺境伯家のタウンハウスの庭園は、相変わらず妹が好む花で彩られて美しい。お茶もお菓子も、全てがジュリアのために揃えられている。
 妹がこの家に迎えられてからずっとそうだった。彼女がどれだけ大切にされているかが分かり、喜ばしい限りだ。
 自覚のないままに現実逃避を試みたキャロルを、可愛い妹が無慈悲にも引きずり戻す。

「そんな遠回しな表現では、私の驚きと感動を十二分に言い表せません!!
 むしろもっと直接的にセックスと言うべきですわね。いいえ、肉体を結合させている状態がわかりやすいように、合体の方が良いでしょうか?」
「もうやめて、お願いだから」

 美の女神の化身とまで謳われる妹の口から飛び出す言葉にキャロルは気が遠くなりそうだ。
 だが美と愛の女神たちとは違い夫だけを一途に愛するジュリアなら、言葉は多少、いや、かなり問題ありでもニコラスは笑って受け入れられる。なので悲観する必要はない。

「分かりました、言葉は少し改めますね。話を戻しますが」

(どうして戻すの? お願いだからもうやめましょう)

 姉の心情などお構いなしに、ジュリアは止まらず突き進む。

「ニックは本当に凄くて、初めてなのに、あんなことになるなんて……あまりにも夢中になって、私ったら自分から……何てはしたないことを……でも、毎日とても幸せです!
 あんなに快いことがあるなんて想像もしていませんでしたわ」
「そ、そう、幸せそうで何よりだわ。それでね、」

 このまま続けるとロクなことにならない。いつにもまして激しい暴走をみせる妹を前に、キャロルは話題の転換を試みた。
 だが、ジュリアは今、幸せに酔っている状態だ。そして酔っ払いは相手の都合も構わず好き勝手に話しまくることが多い。キャロルがジュリアに勝てる筈もなかった。

「お姉様も、やはり最初から良かったのですか? 以前お訊きした時の反応から、痛いだけではなかったのは察していました。けれど、あんなに気持ち良くなって、最初は怖くなかったですか?」
「あの、ジュリア、ちょっと」

 大好きなおやつを見た時の息子よりも目を輝かせながら迫る妹を止める術がない。どうやってこの場を切り抜けようか悩む彼女に、救いの手が差し伸べられた。

「こら、ジリー。夫婦の語らいについて他者に話すのはマナー違反だぞ。
 それに他の人はどうだったのかと興味を覚えるのは仕方ないが、そんなことを可愛い妹に訊かれる姉の心情も考慮しなさい」

 どうしようもない悪戯っ子を嗜めるような言葉を、隠しようもない愛情が溢れかえった声と表情で告げるニコラスの様子に驚かされたキャロルは反応が遅れた。
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