火曜日の香り

赤城一

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火曜日の香り

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朝霧が町を包むころ、小さなパン屋「こもれびベーカリー」では一日の仕込みが始まる。店主の陽太はまだ十八歳。高校を卒業してすぐ、亡き祖母から店を受け継いだ。

パンが焼き上がるたび、祖母の背中が思い出される。湯気のむこうで笑っていた、あのやさしい横顔。

陽太には、楽しみにしている客がいた。毎週火曜日、午前九時きっかりに現れる年配の女性——澄子さん。白いマフラーとつえがトレードマークで、決まって「くるみとレーズンのカンパーニュ」をひとつ買って帰る。

「あなたのパンは香りがいいわね」

そう言って、いつもほっとしたような笑みを浮かべる。

火曜日が来るたび、陽太の心はどこか温かくなった。きっと祖母も、こうして誰かの一週間に寄り添ってきたのだろう。

けれど、ある火曜日。澄子さんは来なかった。

その次の週も、またその次の火曜日も——姿は見えなかった。

心配とともに、どこか穴があいたような朝が続いた。陽太は、いつものカンパーニュを焼き、小さな手紙を添えた。

《澄子さんへ  
火曜日のパンが、またあなたの元へ届きますように。  
こもれびベーカリー 陽太》

それを紙袋に入れ、店のカウンターにそっと置いた。

数日後の午後、見知らぬ若い女性が店を訪ねてきた。白いブラウスに、小花模様のトートバッグを抱えていた。

「ここが……こもれびベーカリーですか? 店主の方に、お渡ししたいものがあって」

女性は、そう言って一通の手紙を差し出した。

「祖母が亡くなりました。先週、静かに眠るように……。あなたのパンを、とても楽しみにしていたんです。特に、火曜日が」

陽太は言葉を失いながら、手紙を胸に抱いた。

「祖母がよく言ってました。“ここのパンの香りをかぐとね、体だけじゃなくて、心も少しふくらむの”って。あなたのパンが、あの人の灯りだったんです」

女性はそっと微笑んだあと、深く頭を下げて帰っていった。

陽太は静かに店を閉め、澄子さんからの手紙を開いた。

《陽太さんへ  
あなたの焼くパンの香りが、私に一週間をくれました。  
火曜日が待ち遠しいと思えたのは、あなたのおかげです。  
ありがとう。心から。  
澄子》

陽太はその手紙を額に入れ、店の壁に飾った。

そして次の火曜日、店の奥には「くるみとレーズンのカンパーニュ」が一つだけ、そっと並んでいた。

澄子さんのために——火曜日の香りを忘れないように。

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