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スイッチ
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しおりを挟むいつの間にか救急箱が用意されてた。
圭さんが膝を手当してくれた。
ずっと痛いとは思ってた。
でもこの時になるまで、膝が傷だらけなんて気づかなかった。
「まぁ、それはそれは、よーく寝てたもんな」
寝てるとこ見られてたんだ。
破れたストッキングも見られたし。
ことごとく恥ずかしい…
圭さんに聞かれて考えた。
そもそもどうして寝たんだっけ、私?
記憶をたどってみる。
…そう、光だ。
寝不足と、2日間ろくに食事をしてなかった。
車の点滅するライトを見てたら目眩がして気が遠くなった。
それを説明したら、圭さんは何かボソッと呟いた。
でも、それは聞き取れなかった。
聞き返したけど、もう一度は言ってくれなかった。
仕方なく話題を変えてみる。
「圭さんは、もしかして看護師ですか?」
「ハァ?」
なんか睨まれた…
「て、手当が慣れた手つきだったから…」
「准が子供の頃よく喧嘩して、しょっちゅう傷付けて帰って来たんだよ、」
圭さんは使った物を救急箱に戻すと、静かに上蓋を閉じた。
「ご存知の通り、母親がいないもんでね。俺が手当してたって訳」
ご存知の通り、をひどく強調された…
でも、会話を拒否されることはなかったし、手当は優しかった。
ご存知って、言われたお母さんのこと。
専務に奥様がいないって今朝まで知らなかった。
兄弟にお母さんがいないのは、離婚したから?
それとも亡くなられた?
何も知らないし、何を聞かれても答えられない。
家政婦ならまだしも、専務の婚約者のフリなんて絶対に無理。
やっぱり早くここを立ち去ろう。
会社は辞めたんだし、専務にも二度と会うことはないと思う。
だから毅然と立ち上がった。
もちろん立つ直前に、ぬかりなく自分のバッグは掴んだ。
「一晩お世話になり、傷の手当てまで、本当にありがとうございました」
一礼して顔を上げた時だった。
「奥様、」
お屋敷のどこからか声がした。
奥様がどこかに?
思わず後ろを振り返った。
“後ろ” とは、私が今から逃げ出そうとしていた玄関の方角。
でも誰もいない。
顔を前に戻せば、うなだれて眉間を押さえる圭さんがいた。
「奥様」って呼んだのはもちろん、圭さんじゃない。
声のしたような気もするキッチンを見ると、出入口にちょっとふくよかな女性の姿があった。
「初めまして、奥様」
こちらまで歩み寄って深々とお辞儀をされた。
薄紫色のブラウスにパンツスタイル、白髪混じりの髪はぴっちりと後ろで丸くまとめられている。
顔を上げると
「お世話になっております、家政婦の佐々木 和乃です」
そう自己紹介をされた。
微笑むと年齢相応と思われる、目尻にしわの浮かぶ物腰柔らかな女性だった。
年上の佐々木さんに再度、深々と頭を下げられて
「葉山弥生と申します」
反射的に私もお辞儀で返した。
でも、これって奥様って呼ばれたことを肯定してしまったような…
「和乃さん、」
私の目の前にいた圭さんは、立ち上がると佐々木さんに声をかけた。
「葉山さんは、奥様じゃないから。まーだ、親父の婚約者」
そう言われた佐々木さんの、圭さんを見上げる目が一瞬だけ大きく開いた。
でもすぐに何事もなかったように柔らかな表情に戻ると、
「そうですね、では弥生様と呼んでも?」私に尋ねた。
「ダメです! 様はやめて下さい!」
私は胸の前で両手を激しく振った。
それを見た佐々木さんは、「ふふっ」って笑った。
「では弥生さん、私のことは和乃って呼んで下さい。ご家族皆さんにそう呼ばれてますから」
「…はい」
果たして彼女を呼ぶ場面が訪れるのか。
それでも、とりあえずの返事をした。
「朝食にしましょうか」
圭さんだけじゃなく、私にまで声をかけてくれる和乃さん。
「いえ、私は今から一度帰ろうかと思っていまして…」
キッチンへ向かおうとしていた彼女は立ち止まって、パンツのポケットからなぜかスマホを出した。
腕を伸ばして顔からかなり遠ざけてる。
たとたどしい指使いでそれを操作した。
「旦那様が、」
私と圭さんに披露されたのは、ラインのトーク画面。
お相手の専務のアイコンは…家紋?
「あの人、ライン覚えたてで使いたくて仕方がないんだ」
同じく画面をのぞき込んだ圭さんが言った。
専務の数々の吹き出しは、私への家事の伝授や部屋の案内などの指示だった。
その最後のトークには、
“まずは朝食を”って表示されてた。
「俺にも来てる」
なぜか圭さんまでも私にスマホの画面を向けた。
やっぱりラインのトーク。
相手のアイコンは…家紋…
“葉山君は一度自宅に帰るかと思うので、荷物を運ぶのを手伝うように”
「だってさ」
すごい…専務。
先手必勝。
逃げ道がどんどん奪われていく…
「バスルーム、2階の突き当たり曲がったとこ」
スマホをテーブルに置くと、圭さんは私に言った。
バスルーム……お風呂?
「帰るにしても、それで外に出たら襲われたと思われる」
それで、と言った時足元に落とされた視線。
自分で自分を見下ろしたら、無残な足だった。
「脱いだら、食って。それから出かけるから」
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