初愛シュークリーム

吉沢 月見

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☆同棲はじめます

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 群馬と長野の県境に、北海道のような景観の場所がある。キャベツ畑が広がり、空がとても広く感じた。きれいな場所に心奪われて、私と郁(いく)実(み)はそこへ引っ越すことにしたわけじゃない。ただ、流されるように移住する。
運命という単語はずるくて好きじゃない。勢いでもなかったし、二人できちんと決めたこと。
 郁実は私の恋人で、私たちは女同士だ。私が27歳になったばかりで郁実が今年30歳なる。自分たちのことながらレズも百合という言葉もしっくりこなくて、でも世間から見たらそれにカテゴライズされるのだろう。
 家の契約を終えて鍵を受け取り、まだ荷物もない家に足を踏み入れる。
 湿った、まだ他人の家の匂い。
 郁実が窓を開けて換気をする。その背に私は聞く。
「キャベツがシュークリームの語源だから?」
 郁実はそこでシュークリーム屋をオープンさせることに決めていた。
「そうじゃないけど、北海道だと遠いし通販とかも別途料金かかるから。利紗子だって東京に近いほうがいいでしょ?」
 一階が元レストランの店舗で二階が住まい。築20年らしいが、そんなに古くもなく補修の必要はないようだ。
カツカツと店舗部分を歩く郁実のブーツの靴音が響く。
「利紗子(りさこ)、写真撮って。どこになにを置くか考えよう」
 郁実は真面目だ。私はずぼらというか面倒臭がりで、実物の物がないと配置の想像ができない。
 建物自体が個性的。扇形を立体にしたような。以前はフレンチのレストランだったそうだ。だから厨房の什器は万全。困ったことに夜逃げに近かったようで、内覧をしたときには二階には生活用品が残っていた。
 ここを賃貸ではなく、買ってしまった。
 郁実がこの地でどうやって生きていきたいのか詳細をまだ聞いていない。ただ、店から窓外を眺める郁実の横顔がきれい。
「景色がいいね。今までで一番天気がいいんじゃない?」
 私は言った。
「うん」
 郁実が乗り出すように窓から景色を眺める。空と山と緑しかない。確かにきれい。まさか、このためだけにここを買うことをほぼ即決で決めてしまったのではあるまいか。郁実にはそういう一面がある。
 子どもみたいに目をキラキラせる郁実とは違い、
「窓の掃除が大変そう」
 と私は言ってしまう。
「雨できれいになるよ」
円を4分の1にした外側のような窓。高さもある。雨が流れやすいように弧の形。割れることはないのだろうか。幾らぐらいなのだろう。地震保険に入らなくちゃ。私はやや心配性。
 郁実はやはり店のキッチンが気になるよう。冷蔵庫も台もそのままだ。使えることは不動産屋さんのお墨付き。所々にある傷や凹みがここに人がいたことを彷彿とさせる。
 ここを買うことが決まって一度清掃に入ってくれたそうなのだが、ちょっと砂っぽいのは強い風のせいだろうか。もう先程とは雲の形が変わっている。不思議な場所。山に近いからだろう。
 私は階段をのぼって居住スペースへ。郁実に言われた通り、写真係に徹する。二階は謎だ。6帖のフローリングの隣りに3帖くらいの小部屋。家族では狭すぎる。前の住民は店主一人だったのだろうか。
 お風呂とトイレは新しくしてくれた。ダイニングもある。そして、二階の半分以上がただ空間。部屋ではない。なんの場所だったのだろう。わからない。くつろげるスペースではあるが窓もない。ヨガもできそうだ。
 私はデザインの仕事をしているので、そのスペースは有り難かった。今年は暖冬だったけれど春前なのにまだ底冷えする。
「ここは利紗子の作業スペースだね」
 階段をのぼってきた郁実が言う。
「うん」
 部屋のほうがいいとは言いづらい。私は隅っこが好きなのだ。こんなに無駄に広いとかえって困る。ちょうどいい机でも探してみよう。棚を置いて仕切りにするのも悪くない。
 壁には小窓がランダムにあるだけ。黄緑色のガラスで20センチほどの正方形。泥棒避けだろうか。外から見てお洒落にしたかっただけかもしれない。
 謎だらけのこの家にもうすぐ郁実と引っ越す。
「ずっと思ってたんだけど、どこで靴を脱ぐの?」
 郁実が気づく。
「ああ。部屋のところ?」
 私もなにも考えずに靴のまま歩き回っていた。部屋との境は引き戸だけ。
「前の人はどうしていたんだろうね」
 郁実も首を傾げる。
「さあ。靴で生活していたのかしら」
フローリングといっても木目のシートが張ってあるだけ。
「一階は店だから仕方ないとして階段をのぼるところ? ルームシューズ履く? 靴のままでもいいけど、利紗子気にする?」
 郁実もこだわりはなさそうだ。ブーツのままあっちへこっちへふらふら移動する。
「ベッドは置けないよね。部屋が埋まっちゃう」
 私は言った。
 今になって頭を抱える。部屋が仕切られていないほうがまだまし。3帖のほうなんてクローゼットもない。ここがむしろ荷物置き場なのだろうか。
 まともに部屋として機能するのが一部屋だとすれば、私は郁実と同じ部屋で寝起きするのかな。えへへへ。
「暮らしながら考えよう」
 郁実はおおらかだ。
「うん」
 と私はいつも頷くだけ。
「じゃあ帰ろうか。もう暗くなる」
「そうね」
 外に出るとひゅうっと冷たい風が吹いた。3月なのにちっとも春の気配がしない。山のせいだ。近くの山は雪で覆われている。凛々しい。
「浅間山だよ」
 郁実が教えてくれた。
 運転は私が担当。車は時間で借りたものだ。
「こっちで暮らすなら車が必要だね。退職金で買えるかな」
 私は今、有給消化中である。
 砂利の駐車場から道へ出る。周囲には家らしき建物が見えない。ここで静かに二人で暮らすのだ。不安だし、同時に楽しみでもある。自分の仕事をしながら郁実を手伝う。ハーブでも育ててのんびりとしたい。きっと妄想の通りにはならない。私は短気だし、郁実は斜め上を行く気分屋。
 まだ道の脇には雪が溶けずに残っていた。
「車っていくらくらいから買えるの? 利紗子の好きなやつ買えばいいよ。少しなら工面するし」
 郁実は前だけ見ている。ネットの検索もしないし、ナビの設定すらしてくれない。郁実と一緒なら平気って言いたいのに、喉の奥が熱くて言えない。
 すごく嬉しいの。こんなことになるなんて思ってもいなかったから。
車の中っていつもよりも距離が近い。指を絡められないのは女同士だからではない。恋人にはいつも遠慮してしまう。嫌われたくないと委縮する。
 やっと信号待ち。なだらかな下り坂がずっと続いて遠心力に疲れちゃう。ふうっと息を吐くと、郁実が頬にキスをしてくれた。おかしいよね。愛してるって言い合ったこともない、将来の約束もしていない。それに、女同士だし。それなのに一緒に暮らすの。ここで、二人で。視線を感じたら大きな鳥が飛んでいった。
 大丈夫、誰にも見られていない。ううん、見られてもいい。隠さない。私たちはもうすぐ二人で暮らす。それが、すごく嬉しい。
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