初愛シュークリーム

吉沢 月見

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☆同棲はじめます

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 山が近くに見えても雨のとき山は雲に隠れる。あれは霧なのだろうか。長くここにいたら日常のことになって幻想的と感じなくなるのだろう。
 郁実からは火曜にこっちへ来ると連絡が来た。
 当日の、もう夕方5時を過ぎています。音沙汰なし。向かってはいるのだろうか。
『今どこ?』
 とメッセージを打っては削除。連絡がないということは、郁実にとっては滞りなく動けているということだ。私は焦らず待てばいい。
 普通、何時着の連絡をすると思う。郁実は連絡が来るほうがドキッとすると言う。
 郁実は人を待ったことがないのだろうか。不安を知らないのだろうか。
 自由で、優雅で、おいしいお菓子を作る人。人を不安にさせていることも知らずにお菓子のレシピでも考えているのだろう。夕日に照らされた雲がクロワッサンみたいね。きっと同じことを考えている。そういうところだけ似ているのだ。
 大体の時間を教えてくれないとこっちも何時に迎えに出ればいいか逆算できない。あなたを待ちながら空ばかり見てしまう。ピンクと紫の中間のような空の色、なんて言うんだっけ? 習った気もするし、目を逸らして調べずに生きてきたような気もする。赤紫じゃない。こういう中間色は日本の色のほうが詳しく分類されているはず。菖蒲色、いや石竹色。真朱のところもあるし退紅、薄柿の部分もある。郁実のお菓子作りはCMYKのパーセンテージのようにくっきりしていない。
「手伝えること、あるのかな」
 とりあえず、お店の紙袋でも考えよう。前の会社で包装紙のデザインを担当していたおばさんはものすごく怖かった。
「仕事舐めんじゃないわよ」
 と怒鳴る職人さんみたいな人で、細い腕でパソコンに向かって、スケッチブックにささっと書いたり、塩を投げつけてみたり。きっと彼女は画家になりたかったのだろう。自分で絵を描く人は他にもいた。美大を出た人間が画家になれるなら世の中、画家だらけ。生きていけないから考えあぐねて会社勤めをする。割り切って自分の時間に絵を描き続ける人、作品を公募に出す人、様々だ。
 きれいな線を描く人だった。器用すぎると社会に適応することがさほど苦痛ではないのだろう。自分で描いた図を取り込んで画面上で修正して。私が入社したときには40代だったから、きっと今は50代。模様は素晴らしかったし、配色も完璧で、ロゴを考えることもあった。しかし、ついぞ私は彼女の絵を見ることはなかった。仕事だけの付き合いだからではない。絵にはたぶん自分が投影される。彼女はそこを私には見せずに隠した。郁実のお菓子もそうなのだろうか。
 フリーの素材を見ていたら、彼女のことを思い出した。腕があっても、人脈があっても、自分の才能を信じても、報われない人っている。地味に生きることが自分に合っていると思って殻を破れずに彼女は毎日まだ満員電車に揺られているのだろう。そして、それもまた幸せのひとつ。
 泣いたらだめ。他人を勝手にかわいそうって思えるような状況下に私はいない。あっちから見たら、私は恋人にくっついて仕事を辞めたクズ女だ。
 電話が鳴って、
「一番近くの駅に着いたけどタクシーもないし、とりあえず歩き出した」
 と郁実が言う。
「迎えに行く」
「悪いね」
 よく知りもしない土地をどうして歩けるのだろう。もう真っ暗だ。
 失敗を繰り返しても改めないのだろう。失敗とも郁実は思わないのかもしれない。
 車のライトをつけて発進。郁実のスマホにGPS機能のアプリを入れてもきっと怒らない。疑っていないし疑われるようなこともしない。一切合切が面倒なの。
 駅までの道で車とも人ともすれ違わない。こういうところのほうが芸術家には合っているんだろうな。静かで星がきれいとか。たぶん、郁実ならそう言う。
 私の車に気づいて、手をぶんぶん振って車道に出てきた。
「危ないよ。轢かれるよ」
 私は路肩に車を止めた。
「利紗子だろうと思って」
「この車、初めてでしょ?」
 借りた車は赤のコンパクトカー。
「小さくていいね」
 郁実が後部座席に荷物を入れる。
「一ヶ月借りたの。やっぱり車ないと生活できないわ。どうしよう?」
 夜だから、こんな場所だから、
「ただいま」
 と郁実が抱きついて来た。
「おかえり」
 外で抱き合うことも初めてで、星に見下ろされるだけだから私も郁美の背に手を回せた。
「隣の県なのに電車すごい遠回りでさ。乗ってきた電車の次だと2時間後なんだよ」
 走り出した車の助手席で郁実が笑う。
「栃木まで迎えに行ってもよかったのに」
「利紗子は利紗子のすることあったでしょ?」
 あった。たくさんあった。住所を移して免許の住居変更、電話に保険。郁実に相談したいこともあった。ネットの契約とか、光熱費の名義はどうするかとか。都度連絡しても郁美は、
「任せる」
 と言うだけ。
 家に着いて、後部座席の郁実の荷物を手にしてびっくり。
「重い、冷たい。これなに?」
 保冷袋から郁実が取り出す。
「肉。ホテルの料理長が餞別にくれた。4キロないくらい?」
 夕食を考えてくれただけ良しとしよう。
 私は既にカットされたサラダを皿に盛った。郁実は、
「寒いね」
 と自分の段ボールから扇風機型のヒーターを出す。
「それ、あったなら言ってよ。凍え死ぬかと思った」
「使ってよかったのに」
 だってそれが『リビング』の段ボールに入っているなんて知らないもの。
 それから肉を切り、岩塩だけでひたすら食う。
「豚肉だね」
 私は言った。
「うん。あばらのこのへんかな」
 郁実が食べながら自分の腹を擦る。
 会いたかったのに、さっきまであんなに寂しかったのに、ちょっと苛ついていたのに私はもう笑ってた。
 郁実とここで暮らすんだ。やっと決意みたいなものが生まれた。
 酒も飲まず、米も食わず、焼いた肉と時折サラダ。
「うまい」
 って郁実が笑うから、なんでも許せちゃう。
 そう、郁実はずるいの。
 元オーナーからのルセットを開いてしまったら会話もしてくれない。お揃いのスリッパを買ったことを褒めてよ。
 夜は寝苦しそうに布団の中で寝返りを打ってばかりいた。
「郁実、寝られない?」
 布団を二組敷いたら6帖はほぼ埋まってしまった。
 私はもうその部屋の、四角が巨大化してゆく包装紙のような天井の模様に見慣れていた。
「布団で寝たことなくて」
 と郁実が告白する。
「人生で一度も? 修学旅行で雑魚寝しなかった?」
 そんな人がいることに私はびっくり。
「しなかった」
「温泉宿は?」
「ベッドだったよ」
「いいところばっかり泊まってるのね」
「落ち着かない。眠れるかな」
 郁実のため息は珍しい。疲れているときでも、ぼーっとすることはあってもため息はつかない人だ。
 私のへんてこなライトが郁実の頭上にあるから気になるのだろうか。
「郁実、こっちおいで?」
「うん」
 一緒に眠るだけで幸せなんて馬鹿げてる? でもね、これがずうっとなの。本当に一生続きますようにって願った。
 二人だと温かい。大丈夫、生きてゆけそう。一人だったらへこたれていた。郁実がいて嬉しい。ああ、私も郁美に言っていないことばかりだなと思いながら眠りに落ちる。
 朝起きたら二人とも横を向いていた。郁実が私を背中から抱きしめていた。膝まで同じ角度で笑っちゃう。もう少し寝たふり。
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