花カマキリ

真船遥

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Scene 2-2

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 キャンピングカーみたいなロケバスの中で、俺は余ったカツサンドを冷蔵庫に入れて、昨日のホテルでのセックスに愚痴をこぼしている由依と専属メイクの会話に耳をそば立てていると、由依が鏡越しに俺が冷蔵庫を開けているのに気がついて、「そこに入っている飲み物勝手に取っていいから、ついでに私の分も取って」とメイクをされながら声をかけてきた。俺は冷蔵庫の中から、ペットボトルの水を二本とって、鏡の前に一本置くと、専属メイクが俺に話しかけてきた。
「新しいマネージャーさんでしょ。この映画のメイク担当の、近衛ハルヨです」
 ハルヨは、香水の匂いがキツイ、四十歳前後の派手な服を着たやせぎす女で、頭にはバンドを巻き、皺のない綺麗な額を顕にしている。仕事上、密接することが多いからなのか、ただ単に経験豊富な年上の女性だからなのか、由依は自然にプライベートなことを打ち明けている。手際の良さと自信に満ち溢れた態度から、この仕事を長く続け、この映画業界を裏で支えている確かな技術が彼女の慣れた手つきからは感じられる。俺もここでは何となく、いつも通りの態度で過ごしても良さそうだ、と思い淡白な態度で「如月竜です。よろしくお願いします」と名前と挨拶だけの自己紹介をすると、ハルヨは俺の態度なんて気にする素振りどころか、由依の顔から目を離さず、「最近の名前ね。この仕事は初めて?」と訊いてきた。
 ええ、と答えると、いきなり手を止めて、俺の目を見て、「いきなり貧乏くじ引いたわねー」と言って、作業に戻った。
「なんか彼女のことでわからないことがあったら、私に言ってね。この子特に難しいから」
 俺は昨日のクスリでハイになっていた彼女の姿を思い出して、
「そうでしょうね」と言った。
「デビューする前から見てるけど、こんな素直じゃない子は初めてよ。一気に人気女優になって、まだ未熟なまま、こーんな特殊な大人の世界に迷い込んじゃったから」
「どう言うこと?」と舌打ちが聞こえてきそうなしかめ面をして由依が問いかけると、「そのままの意味よ、はい終わり」、と由依の両肩を叩いて、その辺のタオルで手を拭いて、メイク道具を片付け始めた。
「はい、これ私の番号。この子のことで、なんかあったら、気兼ねなく電話して。深夜でも基本的に出るから」と化粧ポーチから取り出した名刺をテーブル伝いにスッと渡してきた。俺はそれを器用に受け取り、自分の名刺を取り出そうとすると、「堅苦しいのはいいから、その番号に、今かけて」と俺に指示をしてきた。俺は携帯電話を開き、名刺に記された電話番号にかけると、化粧台に置いてある携帯電話が着メロとバイブを鳴らした。宇多田ヒカルのAutomaticだった。彼女は折り畳まれた携帯電話を、パカリ、と開けて、電話に出ずにその場で電話を切って、キサラギ、と電話帳に登録して携帯電話をたたんでポケットにしまった。
「よかったじゃん、若い子の連絡先が手に入って」と由依がハルヨを茶化すと、ハルヨは、ほらね、と言った顔をして俺と目を合わせる。由依は、イヤな感じ、と言って、頬を膨らました。
 彼女のマネージャーとして初めて来た撮影現場で、ようやく、くつろげる所を見つけ、強張った体を弛緩させて、その辺の椅子に座り込み、ペットボトルの蓋を開けて、喉を潤した。喉の渇きなんてほとんど感じていなかったのに、いくら水を飲んでも、なかなか喉が潤った気がしない。俺も初めての現場で、随分緊張していたのか、忘れていた感覚が戻ってきたみたいだ。そういえば、さっき食べたカツサンドの味も思い出せない。胸ポケットから手帳を取り出し、今後の予定を確認した。尻目に見える由依は、誰かと絶えずメールをしている。昨日の男だろうか。他のスタッフがゾロゾロとバスに入ってくると、由依は携帯をいじるのをやめて、外向きの態度に変容させた。俺も、すぐに立ち上がり、今日初めて会う、他の事務所のマネージャーやスタッフたちに、挨拶をして名刺交換をした。仕事用の自分の姿を確立していない俺は、いつもの俺との振る舞いの乖離に辟易した。由依が俺やハルヨと接する時と態度が違うのは、単純にそっちの方が楽なのかもしれない。俺も人付き合い用の自分みたいなものを用意しておくほうが気が楽だ、と思う隣で由依は、次のカットの打ち合わせを監督や他の俳優陣と熱心にしていた。由依は監督が開いている台本を真剣に覗き込みながら、入念に確認作業を行なっている。それが終わると、皆でバスを出て行き、ハルヨと二人きりになった車内で、解放された気分を味わっていた。そんな俺に、ハルヨは話しかけてきた。
「キサラギは彼女の演技見たことある?」
「まだ見たことないです」
「昨日あの子、男と寝てたでしょ。すごいものが見れるかもよ」
 由依の人気は一過性の流行や、見た目だけでなく、役者としての実力に裏打ちされたものだった。正直、俺の仕事に彼女の演技力がどれだけ影響するのかなんて関係ない上に何より演技自体に興味が湧かない、ただ、こんな仕事を始めたのだから記念程度に見て行こう位の軽い気持ちで撮影現場に向かってみた。由依の演技を見るためにクソ暑い中集まっているスタッフ一同を睥睨するように見ていると、監督の合図と共に撮影が再開された。
 そして、演技がはじまった時の由依の雰囲気の変化に思わず俺は息を呑んだ。彼女が、一歩ずつ主演俳優の元へ歩いていくだけで、俺の動機は徐々に大きくなり、彼女の演技を見ることに体中の神経が集中し、聴覚と視覚以外の機能を失い始めると、肌を滑る風や汗の感覚がなくなり、暑さも忘れ、息の詰まる二人の演技を見ているだけで、俺は呼吸の仕方を忘れ、息が苦しくなっていった。ここにある風景はすべて彼女のものだった。彼女が髪を耳にかける動作を合図に、そよ風が金色の美しい髪を靡かせ、白銀色に照り映える川の水面のさざめきは日光を反射し、彼女の肌を微かに照らす、形を止めようとする雲の形も、マイクが拾う鳥の囀りも、風に撫でられた草木の揺曳も、これら全ての偶然が計算された現実の模倣に融け込み、特別な現実へと姿を陶冶させていく光景に、俺は確かな感動と焦燥を覚えていた。監督の合図でこの光景が終わってしまうという悲劇的な焦燥は、手元から何かが滑り落ちていく感覚を明確に感じさせた。
 監督が、カット、と言うと、俺は催眠が解かれたみたいに、いつもの現実に引き戻され、手からペットボトルが滑り落ちていることに気がついた。溢れる水が土を泥に変えていっている。ペットボトルを取り上げ、俺はまだ先ほどの余韻に浸っているのか、表面の汚れなど気にせず、思いっきり喉を潤した。彼女の演技を見たスタッフたちは固唾を呑んでその場で立ちつくし、中には目に涙を浮かべているものもいた。彼女の魅力に磁石のように皆が吸い寄せられていた。
 この光景を見た時、感動するって意味を心の底から理解し、俺の人生は大きく変わった。お前らは、こんな些細なものを守るためにお前は人生を賭けたのか?、と俺のことを笑うかもしれない。構いやしないが、あんたらだって、やりたくもない仕事、聴く気のない授業、どこにでもいるような顔の旦那や女房のために、少ない人生すり減らして、与えられた地位とか金とか才能を半ば強引に受け入れる形で嫌々納得して、ありきたりな人生を消費しているんだろ?。もっと顔が良ければ、運が良ければ、頭が良ければ、金があればとか思って、無い物ねだりばかりしている普通の人生を送っている致命的につまらないお前らは、内心俺の事を羨ましがってるくせに、滑稽に見える俺を笑って、人生のくだらなさを誤魔化すんだろ。俺は彼女の遺作を見た時、今ここで死んでも何も後悔はねえって思えたよ。お前らはどうだ?自分の好きな女のために生きた俺をそれでも笑うのか?これは俺の復讐劇だ。俺は一つだけ嫌いな言葉があった。満足した豚より、不満足なソクラテスでありたい。賢者でいようなんて立派だよ。それでも俺は、人生を振り返った時、心の底から言うね、『俺の人生は満足だった』と。
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