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しおりを挟む記憶を含めれば、三十年以上。
俺は、エリスに触れていなかった。
ずっと――触れたかった。
心が乾いていくのを感じながら、己に枷をはめ続けていた。
だが今、その枷は、音もなく解かれた。
月明かりの中、ベッドに横たわる彼女の姿があった。
黒髪が白いシーツに広がり、その肌は夜の光に照らされ、幻のように美しかった。
「エリス」
小さく名を呼び、肩に手を添える。わずかに身体が震えた。
「っ……ライナー」
俺を見上げるその瞳に、揺れがあった。戸惑い。羞恥。そして、拒絶ではない――受け入れの色。
その瞬間、俺の中にあった最後の理性が、音を立てて崩れ落ちた。
「……悪いが、今夜は一歩も引けそうにない」
そう告げると、エリスの頬が赤く染まり、息を詰めるように震える声が返ってくる。
「……っ、は……ずるい……っ」
「何が?」
「そんな顔して…そんな声で……っ」
その続きを言わせる前に、俺は迷いなく唇を重ねた。
彼女の息が、熱が、すぐそばにある。求め合う感覚に、胸の奥が軋んだ。
この六年間――いや、過去の記憶までも含めれば、それは飢えるほどに長く、深い渇きだった。
それを今、ようやく満たすことができる。
エリスの細い指が、俺の衣を掴む。
逃げようとはしない。ただ、縋るように。
俺は、彼女を抱き締めた。心も、身体も、すべてを包むように。
そして、囁くように言った。
「……もう、お前を離さない」
この夜が終わるまで、いや、これからの生涯をかけて――
俺は、彼女を一瞬たりとも手放すつもりはなかった。
朝、目が覚めると、エリスがいた。
俺の腕の中で、静かな寝息を立てながら眠っている。
黒髪が枕にふわりと広がり、透き通るような白い肌に、窓から差し込む朝の光が優しく触れる。
整った横顔には、昨夜の名残がわずかに色を残していて、何とも言えない甘さがあった。
――この光景を、どれほど夢見てきたことか。
六年。いや、あの記憶を含めれば三十年を超える時間。俺は、触れたくて、傍にいたくて、それでも手を伸ばせずにいた。
ようやく手にした、ただ一つの真実。もう二度と、この手を離すつもりはない。
「……エリス」
そっと指先で頬をなぞると、長い睫毛が微かに揺れた。
「……ん……?」
低く掠れた声とともに、ゆっくりと彼女の瞼が開く。
黒曜のような瞳がぼんやりと俺を映し――
「……っ!!」
直後、彼女の顔に一気に血が上った。
「~~~っっ!!」
思わず噴き出しそうになるのを堪えながら、俺は口角を上げる。
「そんなに驚くことか?」
「……っ、なんで…、そんなに普通なんですか…っ!!」
布団を引き上げ、顔を隠す彼女の声は、どこか震えていた。
「普通ではないな。…ただ、幸せなんだ」
「~~っ! そ、そういうのがずるいんです…っ!」
顔を真っ赤に染めながら、彼女は布団の奥へと潜ろうとする。
だが、俺はそれを許さなかった。
布団ごと引き寄せ、逃げ道を塞ぐようにその身体を抱き締める。
「…エリス」
「……な、なんですか?」
「逃げるな」
囁くように言い、彼女の黒髪に唇を落とす。
「今さら、恥ずかしがるな。俺たちは…、夫婦だろう?」
「…っ……もう…ほんとに…」
悔しそうに顔を背けるその仕草すら、愛おしくてたまらない。
柔らかな温もりを抱き締めながら、俺は静かに目を閉じた。
この朝を、何度でも繰り返したいと心から願う。
――これは、やっとたどり着いた“始まり”なのだから。
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