いつかペンと制度の力で 〜公書士アンリエッタ〜

ktktkenji

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第2話「インクの告げる邂逅」

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 入室した際に嗅ぎ取った医薬由来の独特な匂いは、いつの間にか鳴りを潜めている。
「どう? ここは痛い?」
 ややしなびた太い親指に左肩の付け根を押されると、その奥にはまだ鈍痛があった。アンリエッタはわずかに眉をしかめつつ、頷く。
「ちょっと、痛みますね」
「腫れも残っているようだしね。重い感じ?」
「はい」
「ふむ。あと一週間は固定した方が良いな」
 初老の医師はそう言うと、後ろに控える助手に指示を出す。預ける間に拭いてくれたらしい革のバンドを、アンリエッタの首にかけた。
 五日前、マティルドに到着した早々に怪我をし、担ぎ込まれた診療所である。ロランの事務所での仕事が始まってから、最初の休日。アンリエッタは治療の経過の確認のため、医師ジョゼフの診察を受けている。
 横に座って触診をしていた彼は立ち上がると、隅の壁付けの机の傍へ寄る。着席はせず、机上に置いたペンを取った。
「一人の時は、上手く着けられてるかい?」
 カルテに書き付けをしつつ、ジョゼフはそう訊ねてくる。
「ええ、なんとか。片手で仕事をするのにもだいぶ慣れました」
「そりゃあ頼もしい」
 会話をする隣で処置が進む。直角に曲げたアンリエッタの腕が、L字形の革帯にすっぽりと収められた。水に浮かぶ鴨を横から見たような形状をしたそれは、腕と接する部分にベルトがいくつかあって、固定のために締め付けられていく。
「さて、忘れ物はないね? ではまた一週間後に」
 処置を受け終え、次回の診察の予約も済ませたアンリエッタは診療所から出る。
 街の北東部、運河にほど近い区画の舗装は幾分黒く薄汚れていた。
 ポォォー、とやや離れて耳に届く汽笛の音は、おそらくは列車ではなく汽船が出したものだろう。行き道を引き返すアンリエッタは、馬二頭くらいであれば並んで進めるかという程度の幅の路地を進む。
 二つ目の交差点に差し掛かったところで、足を止めた。
 右を見る。交差した道の角度は幾らか曲がり、他の地区よりも密集傾向にある建物たちによって先の視界が阻まれているものの、西の丘陵区域の方面にしばらく繋がっているのではないかと思われた。
 ちょっとの間、その場で考えるアンリエッタ。
 どうして立ち止まったのかといえば、行きに使った目抜き通りが非常に混雑していたからである。あちらの道は広いが、中央から大部分は馬車のために空けてあるし、その沿いに週末の青空市が並ぶので、人の通行路は平日よりもいっそう狭い。すれ違うのに苦労するような所まで生じるような有様で、同じ道を戻るのには、やや抵抗感があった。
 結果、初めての道を進む。
 午後はニーナとの約束があった。慈善事業に明るいらしい彼女に例の浮浪児について相談をするつもりで、訪問に当たって手土産を探したい。けれども正午に近付いて雑踏もさらに勢いを増すであろう時間帯、週末市場で探すのは止した方が良さそうに思われた。
 きょろきょろと左右へ視線を配りながら、石畳の路地を歩く。やがて、舗装が消え道が平らに打った土に変わった頃、少し広い場所へ出た。
 建物があるはずの一区画分がちょうど空いたみたいな空間、二手に分かれた道に囲まれるような格好の、細長い公園めいた土地を目にする。
「花……」
 目にして、一人呟く。
 膝ほどの高さの煉瓦塀がまばらに立てられた中にはそこだけ石が敷かれ、濡れた井戸と、花壇と、腰かけるためであろう丸木の椅子が置かれる。赤と紫のアネモネが植わる土にはぼうぼうと別の蔓や葉の緑があって、たぶんそれはこの庭仕事の計画にはなかったものだ。
 アンリエッタは近付いてそれらの植物を見下ろすと、ちょうど建物に囲まれて中庭のような格好になっているそこから一帯を見回した。集合住宅だったり、何か店の裏手であろう外観があったりする中で、一件の建屋に目を留める。粗末に朽ちた板張りの外壁、二階。両開きの出窓の顎には外へ張り出した飾り棚があって、豊かに伸びた髭のように蔓草が垂れ下がる。花壇の中に息づく雑草と同じ種類、瑞々しく伸びて覆う下には灰色に枯れた別の植物が見え隠れして、きっとかつてそこで育てていたであろうことが窺われた。なんとは無しに、アンリエッタは目に付いた観葉植物の跡形に視線を注いでしまって、ふと――手を触れられる感触があった。
 振り向き、それから下を見る。
 一人の少女が、濡れた手のひらでアンリエッタの指先を掴む。その指の節、昨日の仕事から取れずに点々と残っている鉛インクが、瞬間ぼうっと白く色付いた。
 たすけて。
 聞こえたこえは妙な感じがして、アンリエッタは目をしばたたかせる。奇妙な響き、それにじっと見つめていたはずの少女の唇の動きを見逃していて、起きたまま夢でも見たような感覚に陥る。
(魔法?)
 思うや否や、少女の手が瞬時に下げられた。こちらを見上げて、見つめ合って、うろたえたふうに後ずさる。アンリエッタは茶色がかった金髪の少女の瞳ばかり見つめていたから、そこでようやく彼女の全身に意識が向いた。少女は大人用の丈のスカートを精一杯たくし上げて、脇の下から身に纏っている。
「……私の、服?」
 思わず呟いた。どちらかというとエプロン代わりに重ねばきをする用のそれは厚手の生地を使っていて、赤とか黄色とかの糸を用いたカラフルな刺繍がなされる。南方の異国文化を参考にしたその柄はアンリエッタの実家に特有の飾り付けで、少なくともトーリア周辺では見ない装飾だ。
 少女はあからさまにびっくりした様子で目を瞠って、あちらこちらに視線を彷徨わせた。
「――イタ、カモメ」
 ひどく掠れた声で呟く。つい口から漏れ出たといった感じで発した言葉は脈絡がなくて、アンリエッタは眉根を寄せる。
「板とかもめ……が、どうかしたの?」
「――っ」
 訊ねれば、いかにも失態を犯したというふうに口元を押さえる。左右に震えて頭を揺らし、少女は弾かれたように踵を返した。
「ちょ、待って!」
 アンリエッタは追い縋って、ほとんど走り出さない内に捕まえる。少女は取られた腕を振り解こうと、捕獲された家鴨あひるのようにばた付いた。アンリエッタは暴れる体を片手で押さえるのに苦心しつつ、少女へ叫ぶ。
「盗んでないっ」
「!」
 上がった声に、少女は身を竦ませて動きを止める。アンリエッタは力任せに肩を引いて少女をこちらに向かせると、目を合わせてもう一度、じっくりと口にする。
「盗んで、ない。拾っただけ。ね、そうでしょう?」
「……」
 どう了解したものかと言った具合に、少女は滲んだ瞳で呆然と見つめてくる。アンリエッタは小さな肩から手を離してその場にしゃがみ、少女の纏うスカートを摘み上げた。
 内心必死に、けれども努めて笑顔を作る。
「可愛いよね、私も大好き。拾ったものだとしても、着たくなっちゃったっておかしくない。あなたに気に入ってもらえて、私も嬉しい」
 言い募る。
 その内に敵意のないことを認識したのか、少女の怯えた眦から強張りが消える。おずおずと腕をこちらに寄せ、指先で触れてきた。そっとそこにアンリエッタは手のひらを重ねて、微笑みかけてやる。少女は短く息を詰めて、それから深く吸った。震える吐息と涙がこぼれた。大丈夫、大丈夫だよとアンリエッタは少女を見つめ、話しかける。
「あの子……ええとたぶんあなたのお兄さん、だよね。今どこにいるの? ……大丈夫、大丈夫だから。心配しないでいい。私はあなたたちのこと、助けたいの」
 濡れる自身の頬を少女は手のひらで拭う。再び、アンリエッタに触れる。インクが灯る。
 助けて。
 アンリエッタは聞いて、確かに頷く。
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