いつかペンと制度の力で 〜公書士アンリエッタ〜

ktktkenji

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第3話「子どもたちについて」

3ー2

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「待ちなさい! エッタ!」
 がちゃりと、勢いよく応接室の扉を開いたのとマルタの声が重なった。どうも母の目論見に巻き込まれたらしいルグラン氏に申し訳なく一瞥と目礼を送ると、アンリエッタは苛立ちのままに床を踏み締め、その場を辞去する。
 結婚についての話し合い。それが、此度の面会の主題であった。事前の通達もなく他の親族の同席もない辺り、まず間違いなくマルタの独断専行だ。
 話の顛末は次のようになる――
「あなたが帝都に行くに当たって、こちらのルグランさんの所であればどうかと思ったんです」
 それが、三人顔を合わせてからの挨拶もそこそこに、マルタが切り出した言葉だった。「どうか」という言葉の意味合いが最初アンリエッタには飲み込めなかったが、「嫁ぎ先としてどうか」というのが母の意図だ。根回しを疎かにする前のめりさを見せる母と比べるとルグランは冷静で、アンリエッタの意思について聞いた。一切関知していない話のわけで、当然、承服できない。知人を余計なことに巻き込んだマルタを責めて、言い合いになる。
 そうしてしまいに、部屋を出て来てしまったというわけだった。
 荒々しく自室へ押し入ったアンリエッタは耳の後ろで揺れて鬱陶しいリボンを横に放って、ベッドへ倒れ込む。ドレスの方も脱ぎ去ってしまいたかったが、それも落ち着いて出来ないくらい面倒な気分だった。ぐだぐだと布団の上で身じろぎをして、徹夜だったのもあってその内に寝入ってしまう。
「また、そんな格好で寝て」
 呆れるような叱るような声が聞こえて、目を覚ました。寝起きで据わった視線を向ければそこには今し方部屋に入って来たらしいマルタがいて、彼女はベッドの縁に引っかかっていたリボンを取り上げ、丁寧に畳んでいる。
 時間が経っていた。戸棚の上、座ったくまのぬいぐるみと並ぶ置き時計の針は二時を指して、三時間ほど眠っていたらしいと知る。
「ルグランさんは、お帰りになられましたよ」
 こちらが起きたことに気が付いたマルタが、やや冷たい声で告げる。母は部屋の椅子に座った体をこちらへ向けて、まっすぐに視線を注いだ。
「何が気に入らなかったんです?」
 訊かれて、わっと言葉の断片が頭を駆け巡ったが、それらを上手く組み上げることはできなかった。アンリエッタは母から目を逸らして、言う。
「だって、歳が離れ過ぎて」
「つまりルグランさんに不満が?」
「えっと……」
 そう言われたもののそういうわけでもなかったので、言葉を詰まらせる。年齢差にしたってあり得ないという程ではあるまいと、アンリエッタも自分で思う。
「ルグランさんは何も、怒るということはしなかったんですよ」
 嗜める口調でそう知らせてくる。
「知った関係で、寛大で、仕事ができて、家の助けにもなりそうで。きっとあなたがしたい仕事だって尊重する方のはずでしょう。他に何が必要なんです? あなたは、結婚のことなんて深くこだわってはいないと思っていたのに」
「……」
 母の分析に間違いはない。アンリエッタの気持ちにしたって、彼女は正しく言い当てている。こちらがじっと黙って眺めたのを抗議を含んだものと思ったのか、「だって」とマルタは言葉を続けた。
「色恋に関わることに、あなたはずっと前から興味を持たないじゃないですか。それこそ結婚なんて私から働きかけない限りは」
「わかったから」
 言い募るマルタを遮って、アンリエッタは今度こそ布団に包まる。
「わかったから、ちゃんと、将来のことも考えるから。今日の話はもうよして」
 分厚い布の下で、自身の声はいつもよりも跳ね返って聴こえた。隔てた所からマルタが、「考える」と復唱する。
「また、妙なところに飛んでいかないといいけど」
 妙なところ。自分が公書士になることだって、この母からしてみれば妙なことなのだ。嫌な感情が胸に迫り来るのを感じながら、マルタの退室する気配を読み取る。キイィ、と扉から音が響く。
「服はちゃんと着替えて。それと食事、あなたの分は取り置いてあります。気が向いた時にでも食べなさい」
 放っておくとすぐ粗末なもので済ませるんだから。
 嘆く調子で独りごちつつ、床を踏む音が去っていく。アンリエッタは布団を強く握り締めると、それから深くため息をついた。どっと、背中には脱力感があった。
 ルグランは、帝都に腰を据えて商いをする商人だ。帝都で働けば公書士として文句のない経験と実績を積むことができるというのは、今さら言うまでもない。彼自身、おそらくは有力な公書士への口も利くだろうし、一緒になれば少なくとも生活は安定する。つまり縁談は、アンリエッタにとって確実なメリットのあることだった。今までそういう対象として見たことがないにせよ、ルグラン個人に悪い感情を抱いているというわけでもない。己の領域が保証されるのであれば、アンリエッタは別に、結婚してしまったって構わなかった。だけどもそれは同時に、自分が母の影響下に入ってしまう、ということでもある。
 家族に対する情は当然あるし、実家を出たいがばかりに公書士を目指したということも、無論なかったが。そうは言ってもアンリエッタの意向や希望に何かと対立しがちなマルタと暮らすのには、窮屈な思いがあった。だから、急に身辺を囲い込むようなやり方でアンリエッタを管理下に置こうとした母の手口に、強い拒否感を覚えてしまった。
 その相入れなさは感情の波の和らいだ今も、続いている。否応なしに、アンリエッタにその考えを呼び起こさせる。
 二十代の最初の歳の終わり、誕生日を目前に控えた時のことだった。あらゆる手続きを母に内密に済ませたアンリエッタは、親しく思う人たちに何通かの手紙だけ残し、実家を飛び出た。
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