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第4話「波乱と平穏と」
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「――裁判だな」
翌朝、ロランは自身のデスクでうさぎのワイン煮込みを口にしつつそう言った。事務所の上の部屋でアニーが温めたというそれからは、バターと香草の香りが混ざって漂う。きちんと聞いたことはないが、事務所がその一階に位置する雑居ビル一棟がどうやらロランの持ち物であるようで、アニーは住み込みでこそないものの建物全体の管理を任されているらしかった。
おはよー、と当の管理人が声を上げながら事務所に入ってくる。
「なんだ、もう食べちゃったの?」
椀の底を匙で削るロランを目にして、上から戻って来たアニーが言った。せっかく焼いて来てやったのにと、皮をパリパリにしたバゲットとカフェオレをデスクに追加する。
「……」
「なに、おかわり?」
終わりのひと匙を掬って底に目を落とす彼のその仕草だけでアニーが察した意図はどうやら正しいらしく、男の頷きが返る。
「ふー。そんじゃ、鍋ごと持ってきますかね」
まんざらでもなく息をついた様子の事務員の眼差しが、こちらに向く。
「アンちゃんは? 何かいる?」
「いえ私は」
「ほれ遠慮すんな。たまの母性を満たして頂戴な」
「ええと、でしたらコーヒーを」
「かぁー、このガラっこは。振る舞い甲斐がないよね」
期待に応えられず申し訳ないが、きちんと朝餉にパンとナッツを摂って来た胃袋には荷が重い。アンリエッタは、外へ引き返して行ったアニーを見送ると、一切れをさらに半分に裂いたバゲットで椀を拭うロランに目をやる。どうも次は、パンのおかわりでとんぼ返りをさせるのではと思われた。
「決裂、ですか」
「そうなる。組合の爺様方が怒り狂ってな、預金を残らず引き揚げろとすっかり喧嘩腰だ」
昨日聞いた段階では、あちらの上層部の頑なな姿勢をいかにしてほぐそうか、という状況にあったはずだ。銀行側の担当者とで話し合った妥協案を提出するという目論見で、だから商業組合は……少なくとも先陣切って対応に当たっていた事務局長についてはいわば穏健派だった。それが一日経てば今度は組合側の方からも重鎮が登場して、しかも完全にこじれてしまっているらしい。
「全く……あの耄碌がいずれ自分にも降りかかるものと思うと嫌になる。せこい小遣い稼ぎがお上のお目溢しでできていることを忘れているんだ。あんなもの、他所と組んでやれば国と結託して潰しに来られるのが目に見えているのにな。どうやら、相当、老眼が進んでしまっているらしい」
自身も請われて作成に協力していた妥協案をふいにされた恨みもあってか、ロランの罵倒はずいぶんと盛況だった。苛立ちのまま、さっきちぎったバゲットの片割れを口に運びかけ、煮込みのおかわり待ちであることを思い出したのか皿へ戻す。代わりとばかりにカフェオレを一口飲んだ。
「まあ、とどのつまり、代訴人が出てくる。係争を水増しして腐らせるウジ虫共がね。こうなると、費用を嵩ましさせないよう目を光らせなくちゃならない」
一服挟んだロランは口調こそ幾分落ち着いたが、新たに登場した職業人をしっかりと腐す。と言って口にした評価がその実態と大きくかけ離れたものでもないというのは、アンリエッタも以前から聞き及んでいることだ。業を構えるに当たって多額の借金を負っている彼らの中では、無用に訴訟内容を複雑にして、本来以上の手数料を取ることが常態化しているのだとか。
「よって、公書士の仕事としては少々外れるが、引き続き助言を頼まれた。具体的には訴訟嘆願書の内容固めと奴らから上がってきたものの検査だ」
彼の言う通り、書類の作成やその正当性の証明を主たる業務とする公書士は、本来裁判という領域には立ち入らないしその職能も持ち合わせない。とはいえ訴訟の窓口たる代訴人がその調子なので、多少法律に明るい公書士が顧客から助言を求められるというのはままあることなのだった。
「そういうわけで私はしばらくしたら外出する。君の方は、今日も事務所でいい」
机の引き出しを開け、中を探るロラン。
「一緒に来て悪い経験にはならんだろうが……まあ今急いでするものでもない。昨日の仕事は確認しておいたのでそのまま取り組んでくれ」
いったん仕舞っていたらしい書類を机の上に出す。アンリエッタは席から立って、それぞれ紙のフォルダにまとめられた幾つかの案件書類を受け取りに行く。
「朱書きで指示を入れてある」
渡されながらそう言われ、書類に目を落とす。収まりが乱れてフォルダをややはみ出た用紙には、大きくバッテンをつけたであろうインクの軌跡が見えた。
「君は何かと文章だけで申立て内容を説明したがるが、不動産関係のものは図による説明を付けないと不明瞭として差し戻されるぞ。簡易で良いから平面図と地図を用意し、申請書はそれを元に作成しろ。関係者にも説明しやすくなる。アニーに頼んで写しも作っておけ」
アンリエッタがじっと書類を見つめたのを指摘への疑義と受け取ったのか、ロランはそのように話す。
「一見して理解できるよう工夫するように。役所の人間だって上司から説明を求められる場合もあるんだ、かろうじてわかるようなものは倦厭される。所定の形式から外れすぎても文句を言われるのだから困りものだがね。それもこれも規定の作り込みが甘いのが問題だが、こちらはあちらの怠慢に付き合うしかない。赤子をあやしているのだとでも思うべきだな」
指導がいつの間にやら皮肉に変わるロランである。あるいは鼓舞しているのかもしれない、とも思う。アンリエッタはひとまず了解して席へ戻る。アニーも二階から降りてくる。鍋とカップを運んできた彼女は、アンリエッタのデスクにカフェノワゼットを置く。
(平面図……)
顔も上げずに書類のフォルダを見つめる彼女に、「どした?」とアニーは声をかけた。
翌朝、ロランは自身のデスクでうさぎのワイン煮込みを口にしつつそう言った。事務所の上の部屋でアニーが温めたというそれからは、バターと香草の香りが混ざって漂う。きちんと聞いたことはないが、事務所がその一階に位置する雑居ビル一棟がどうやらロランの持ち物であるようで、アニーは住み込みでこそないものの建物全体の管理を任されているらしかった。
おはよー、と当の管理人が声を上げながら事務所に入ってくる。
「なんだ、もう食べちゃったの?」
椀の底を匙で削るロランを目にして、上から戻って来たアニーが言った。せっかく焼いて来てやったのにと、皮をパリパリにしたバゲットとカフェオレをデスクに追加する。
「……」
「なに、おかわり?」
終わりのひと匙を掬って底に目を落とす彼のその仕草だけでアニーが察した意図はどうやら正しいらしく、男の頷きが返る。
「ふー。そんじゃ、鍋ごと持ってきますかね」
まんざらでもなく息をついた様子の事務員の眼差しが、こちらに向く。
「アンちゃんは? 何かいる?」
「いえ私は」
「ほれ遠慮すんな。たまの母性を満たして頂戴な」
「ええと、でしたらコーヒーを」
「かぁー、このガラっこは。振る舞い甲斐がないよね」
期待に応えられず申し訳ないが、きちんと朝餉にパンとナッツを摂って来た胃袋には荷が重い。アンリエッタは、外へ引き返して行ったアニーを見送ると、一切れをさらに半分に裂いたバゲットで椀を拭うロランに目をやる。どうも次は、パンのおかわりでとんぼ返りをさせるのではと思われた。
「決裂、ですか」
「そうなる。組合の爺様方が怒り狂ってな、預金を残らず引き揚げろとすっかり喧嘩腰だ」
昨日聞いた段階では、あちらの上層部の頑なな姿勢をいかにしてほぐそうか、という状況にあったはずだ。銀行側の担当者とで話し合った妥協案を提出するという目論見で、だから商業組合は……少なくとも先陣切って対応に当たっていた事務局長についてはいわば穏健派だった。それが一日経てば今度は組合側の方からも重鎮が登場して、しかも完全にこじれてしまっているらしい。
「全く……あの耄碌がいずれ自分にも降りかかるものと思うと嫌になる。せこい小遣い稼ぎがお上のお目溢しでできていることを忘れているんだ。あんなもの、他所と組んでやれば国と結託して潰しに来られるのが目に見えているのにな。どうやら、相当、老眼が進んでしまっているらしい」
自身も請われて作成に協力していた妥協案をふいにされた恨みもあってか、ロランの罵倒はずいぶんと盛況だった。苛立ちのまま、さっきちぎったバゲットの片割れを口に運びかけ、煮込みのおかわり待ちであることを思い出したのか皿へ戻す。代わりとばかりにカフェオレを一口飲んだ。
「まあ、とどのつまり、代訴人が出てくる。係争を水増しして腐らせるウジ虫共がね。こうなると、費用を嵩ましさせないよう目を光らせなくちゃならない」
一服挟んだロランは口調こそ幾分落ち着いたが、新たに登場した職業人をしっかりと腐す。と言って口にした評価がその実態と大きくかけ離れたものでもないというのは、アンリエッタも以前から聞き及んでいることだ。業を構えるに当たって多額の借金を負っている彼らの中では、無用に訴訟内容を複雑にして、本来以上の手数料を取ることが常態化しているのだとか。
「よって、公書士の仕事としては少々外れるが、引き続き助言を頼まれた。具体的には訴訟嘆願書の内容固めと奴らから上がってきたものの検査だ」
彼の言う通り、書類の作成やその正当性の証明を主たる業務とする公書士は、本来裁判という領域には立ち入らないしその職能も持ち合わせない。とはいえ訴訟の窓口たる代訴人がその調子なので、多少法律に明るい公書士が顧客から助言を求められるというのはままあることなのだった。
「そういうわけで私はしばらくしたら外出する。君の方は、今日も事務所でいい」
机の引き出しを開け、中を探るロラン。
「一緒に来て悪い経験にはならんだろうが……まあ今急いでするものでもない。昨日の仕事は確認しておいたのでそのまま取り組んでくれ」
いったん仕舞っていたらしい書類を机の上に出す。アンリエッタは席から立って、それぞれ紙のフォルダにまとめられた幾つかの案件書類を受け取りに行く。
「朱書きで指示を入れてある」
渡されながらそう言われ、書類に目を落とす。収まりが乱れてフォルダをややはみ出た用紙には、大きくバッテンをつけたであろうインクの軌跡が見えた。
「君は何かと文章だけで申立て内容を説明したがるが、不動産関係のものは図による説明を付けないと不明瞭として差し戻されるぞ。簡易で良いから平面図と地図を用意し、申請書はそれを元に作成しろ。関係者にも説明しやすくなる。アニーに頼んで写しも作っておけ」
アンリエッタがじっと書類を見つめたのを指摘への疑義と受け取ったのか、ロランはそのように話す。
「一見して理解できるよう工夫するように。役所の人間だって上司から説明を求められる場合もあるんだ、かろうじてわかるようなものは倦厭される。所定の形式から外れすぎても文句を言われるのだから困りものだがね。それもこれも規定の作り込みが甘いのが問題だが、こちらはあちらの怠慢に付き合うしかない。赤子をあやしているのだとでも思うべきだな」
指導がいつの間にやら皮肉に変わるロランである。あるいは鼓舞しているのかもしれない、とも思う。アンリエッタはひとまず了解して席へ戻る。アニーも二階から降りてくる。鍋とカップを運んできた彼女は、アンリエッタのデスクにカフェノワゼットを置く。
(平面図……)
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